第9話 甘い匂い――カエデ
ツバキの髪は、甘い、カラメルみたいな匂いがする。そう、ホットケーキにかけるメープルシロップみたいな。
僕とツバキは基本的に使っているシャンプー類は共有だ。髪質も似てるし、小さい頃から同じものを使っていてそのままだった。
だとしたら整髪料のせいだろう。何故そう思ったかって? 洗いたての髪は例の甘い匂いはしなかった。風呂上がりのツバキの髪は、僕と同じシャンプーの香りがした。
いつからだろう? 僕とツバキが分けて考えられるようになったのは。
年が一つしか違わない僕たちはいつでも一組として数えられた。僕たちは年の差も、男女差もあったのに同様に扱われた。
いつも二人だった。遊ぶ時も、両親の仕事で預けられる時も。そして僕たちは異様に仲のいい、離れ難い姉弟だった。
そうだ。決定的に違いが表れたのはツバキが小学校に通い始めてからだ。ランドセルを背負って、背筋正しく小学校に通うツバキ。彼女にはすぐ、僕じゃない友だちができた。学校が終わるとツバキは「ガクドウ」に行って、僕は「エンチョウホイク」だった。すれ違いだった。
そのうちそんな生活には慣れて、高校に入るとまたモヤモヤし始めた。柳先輩だ。この人は誠実さと堅実さを売りにした人だった。
柳先輩とツバキの接近は不思議と僕を苛立たせた。ツバキが入るからと言っていた図書委員になったことを後悔しつつ、安堵した。仲のいい二人を見るのは嫌だったけど、見張ることはできたからだ。
そうして少しずつ傷ついている時にアオイが足元からふらりと現れた。無視しようと思った。
大体なんなんだよ、幼稚園の話って。
幼稚園の頃は僕の気持ちはいつでもツバキを追いかけていて、ほんの気まぐれでアオイに花を取ってやった事なんて宇宙の塵のようなものだ。塵芥よろしく、意味の無いことだ。
だけどアオイはじりじりと僕ににじり寄ってきて、ついには僕を怒らせた。――奪ってやれば怖がるだろう。
アオイはちっとも変わらなかった。
それどころかちょいちょい僕に挑発的に近づいては抱かれていく。怖くなったのは僕の方だ。
ほんの少し、いじめてやりたかったのに。
そうこうしているうちに、ツバキは切り取り線の向こう側を歩いていた。柳先輩と二人でどこか違う未来へ行ってしまう。あの二人がいずれ結ばれてしまうのは不可避なように思えた。
追いかけたい気持ちがあっても、僕の足元にはホラー映画のようにアオイがぶら下がっていて、僕は完全に振り払うこともできずにズブズブと沼に沈み込んでいく。
だから、ツバキがアオイの話を持ち出したのは好都合だった。やっと正規の路線に変更できる。こっちが正しくて、向こうは間違いだ。
言ってやればいい。「好きだと思ったことはない。ヤッただけだ。お互い様だ」と。
ツバキは僕のところへ帰ってきた。あの男は捨てて。僕の方を見て、僕の目を覗き、僕の唇を求める。もちろん求められたことのすべてに応える。すべてだ。
ツバキのことは16年間一緒に過ごした僕が一番よく知っている。ツバキの本当に望むことは、僕が一番よく知っているんだ。
うなじの薄い肉の弾力から唇が離れない。
キスマークを確認した後、しばらくツバキの髪の間に潜っていた。ツバキは「ソファに、濡れた髪のシミがつく」と気にしていたけど、そんなものはソファカバー1枚でどうにでもなるんじゃないかと思っていた。ツバキが足りなかった……。埋まらないものがあった。
「カエデ、苦しい……」
「ああ、ごめん。ツバキのうなじがキレイだから」
「あんたのうなじもキレイだよ」
「お揃いだね」
お揃いだね、そう、子供の頃みたいに。本質的には僕たちは何も変わっていないんだ。二人で一人なんだ。キスをするとそれが埋め合えるなら、もしも僕がツバキを抱いたら、この妙な欠落感は無くなるんだろうか?
額にかかった髪をやさしくかき上げて、そっと順番にキスをする。ツバキの体はまだ強ばっていて、緊張が解けずにいる。一つずつを丁寧に、キスをする。唇の触れてないところがないように、丁寧に。
「ちょっと待って。ダメだから。わたし、できないから」
「なんでさ」
「なんでって、つまり、世界の
「世界が僕たちを縛るってこと?」
「……そういうことが言いたいんじゃなくて」
はーっ、とわざとなんじゃないかと思うくらいのため息をついて、ツバキは僕がまくり上げたTシャツをごそごそと下に下げた。そうしてひょいと無理に押し付けていたわけではない僕を躱すと、ソファから下りて「ドライヤーかけてくる」と言った。
僕は両手のひらを見つめていた。
ここに今、ツバキがいて、僕の好きにさせてくれた。キスをして、見つめあって、僕のしるしまで付けさせてくれた。
そのことに喜びがあるのに、重さが伴わない。
確かにここにあったのに温もりはするりと逃げてしまった。
「ツバキ」
カチリ、とドライヤーを止めて振り向いたツバキの髪からまたあの甘い匂いが漂う。僕とツバキを隔てるあの匂いが。
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