第二章:邂逅
第1話:全ての始まり
貴族街区に建つレダストゥリ侯爵家。広大な敷地に建つ屋敷は本邸と別邸を合わせて五つもあった。その別邸の中にレダストゥリ候の嫡男ティルのアトリエはある。今年二十五になる彼は、まだまだ芸術家としては駆け出しの者。殊に絵に関しては世間に名前さえ出てこない程度の実力。父の知り合いがたまに依頼してくるのみであった。義理だか何だかわからないが、完成したティルの絵を見る彼らの目に何の感情も宿っていないことぐらいティルも気が付いていた。
幼少のみぎりに母に絵を大層褒められたことから、ティルの絵に対する執着は始まっていた。彫刻も文芸も人並み以上にできたティルがそちらで名を売ろうとしないのは、どうもこの執着心が阻んでのことらしかった。だが、ティルの絵の実力は人並み程度だった。それでも彼は必死に絵で身を立てようとして、来る日も来る日もキャンバスに向かい続けていた。
――今に見ていろよ……。絶対に絵で名を売って、あいつらを見返してやる。その時はどんなに頼まれても、あいつらには絶対描いてやりはしない。
鬼気迫る表情でキャンバスに筆を滑らせながら、ティルはいつもそんなことばかりを考えていた。
そんなティルにあるチャンスが巡ってきた。戴冠式に向け、王宮内部を整備するらしいのだが、廊下に飾られていた絵画がみっともなく劣化してしまっているので修復する職人を雇いたいというお触れが国内に出されたのだ。さらにそこにはこうもあった。
《修復不可の絵画も多数あり、新しい絵画を描くことができる人材も同時に雇いたい》
いわゆる《宮廷御用絵師》の募集だった。現皇帝は芸術にも造詣の深い方で、何百年も前に存在していたこの《宮廷御用絵師》を始めとする様々な芸術的役職を復活させようとしている、と風の噂で聞いた。
これは好機である。ティルはそう考え、三日後にある技術者ミーティングに参加することを決意したのであった。
†
このお触れはチェフィーロの耳にも届いていた。教えてくれたのは通っている娼館の女であった。
「《宮廷御用絵師》……でございますか?」
「そうよぉ、チェフィなら絶対に選ばれると思うのよ。だぁって、あんなに美しいエヴィローズの花を描いてしまうのだもの」
ねえ、どうどう?という女に対してチェフィーロはなんだか素っ気ない態度であった。
「んもう、聞いてるの?」
「ええ、聞いております。良い話であるとは思いますがねぇ、好きな絵が描けなくなってしまうのは、まっぴらごめんですよ。こうして、貴女の膝で好きな絵を描いていることが、わちきには似合いでございます」
女の腿に頭を置いて横になりながら、手を伸ばして彼女のそれに絡める。女は照れたように顔を真っ赤にしながら、お上手だこと、と色っぽい声を出していた。
チェフィーロは女の隣に用意された煙管を手に取った。女はそれを見ると、先端に葉をつめたり火をつけたりと世話をする。チェフィーロは憂いの光が宿る目で何処か遠くを眺めながら、ゆるゆると煙管をのみ始めた。
「《宮廷御用絵師》……ねぇ」
紫煙を吐き出しながらポツリともらすと、女はクスリと笑いながら、なぁんだ、と続け、
「やっぱり気になってるんじゃないのよぉ」
「気になっていない、とは申してございません。わちきの絵を王宮に飾っていただける、と言うのならば、この上ない至福でありますがねぇ……」
チェフィーロは起き上がると、煙管を灰皿にカンッと打ちつけてから、帰ります、と一言言った。鏡をのぞいてスカーフを直していると、ふと背後に飾られているエヴィローズの花の絵が目に入る。真っ赤な花弁を大きく広げ、甘い蠱惑的な香りで蝶たちを引き寄せるエヴィローズ。気高く妖艶なそれは、この部屋の主であるこの女によく似ていた。
ある時に、この女に金はいらないから絵を描いてほしい、と頼まれたことがあったのだ。希望はあるか、と聞いたところ、美しい絵が良い、と言われたので、真っ先に頭に浮かんだエヴィローズを描いてやったのだ。あの花のように美しさを失わない女にチェフィーロは満足しながら、
「また参りますよ、ねいさん……」
と、女のそれよりとびっきり甘い声でささやいた。
「もっと女を磨いておくわねぇ……」
あの絵の意味をよく理解している女は赤面しつつもそう返す。チェフィーロは嬉しそうに笑うと、ヒラヒラと手をひと振りしてから踵を返した。
チェフィーロの娼館通いは今に始まったことではない。裸婦画を描くために初めて訪れたのが十五のとき。あの女とはその時からの付き合いだ。お互い恋愛感情はないが、彼の本心を吐露できる数少ない友人であり大切な存在だ。そんな彼女から聞いた《宮廷御用絵師》、今さらになって、ものすごくその単語が魅力的な響きをたたえて彼の心を掴みだしたのであった。
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