第2話:絵師

 チェフィーロ=ネーベルは、今年二十歳になる青年である。憂いを帯びた魅惑的な翡翠の瞳、毛先に向かって次第に赤く染まるカフェモカの髪、上品な仕立てのベストにシルクのシャツをまとっている。一度往来にその身を遊ばせれば、誰もが振り返るほど整った容姿を持つ彼の職は「御用絵師」。貴族たちが所望するモノを絵として表現すること。紙はもちろん、例えば屋敷の壁や調度品、街路の柵や敷石、時には人体までもが彼のキャンバスであった。作風は一言では言い表せない独創性に満ちている。美しく、妖しく、艶やかなそれには、時に人を狂わせるほどの狂気に満ちたものもあった。

 いつしかチェフィーロの名は芸術を好む貴族はもちろん、絵を嗜む趣味人から画家、さらには画商までもが知るものとなっていた。ぜひともお抱え絵師にならないか、商業画家にならないか、と声もかかるが、本人はまったくその気を見せず、のらりくらりと誘いを避け続けている。何が気に入らないのか、そもそも興味がないのか、それすらもわからない。

 この稀代の天才絵師の登場から数年、彼の絵を求める者は増え続け、ついには王宮にまでその名が届くようになっていた。




 屋敷を飛び出したチェフィーロは、喧騒を避けるように細い路地を選んで歩いていた。右手には作ってもらったサンドウィッチとスムージー、それから簡単な画材と紙の入った小さなカバン、左手には細長い何を包んだ布を持って…。

 大通りの喧騒から少し離れることができたチェフィーロの表情は心なしか明るくなっていた。疲れ切り、嘆息ばかりだった先ほどとはまったく異なる様相であった。何やらきょろきょろとあたりを見回しながら、時には口に笑みを浮かべておったりもする。その視線の先にはシャボン玉で遊ぶ子供やボードゲームに興じる男たち、また洗濯しながら談笑する女たちの姿があった。

 何の変哲もない日常のありふれた風景。華やかな貴族たちとはかけ離れ、また大通りで騒ぐ二流の者たちとも違う。ゆるやかな時間の流れるこの雰囲気がチェフィーロの心を落ち着かせていく。彼は深呼吸をして胸いっぱいの息を吐き出した。ざわざわした何かは、その息と共に外へと出ていった心地がした。

 路地を抜けると、そこには小さな公園があった。公園といってもあるのは古びたベンチに手入れの行き届いた花壇のみ。どちらかと言えば広場のような所だ。チェフィーロはベンチの後ろにある傾斜を登り、その先に広がる芝の広場にやってくると、服が汚れるのも構わず、その場にあおむけに倒れ込んだ。そうして何度かゴロゴロと寝がえりをうち、草花の香りをたっぷりと味わいながら目を閉じた。

 この公園は路地を抜けなければ辿り着くことのできない場所にあるため、貴族はおろか民衆でさえもめったに訪れることはない静かな場所だ。何年か前、自分がとんでもなく愚かな存在であったと絶望していたときに偶然この公園を見つけて以来、何かあった時の避難場所として通い続けている。ここでゆったりと朝食を食べて、飽くまで過ごすことがここのところの彼の日課となっていた。

 「先日までつぼみだったというのに、立派に咲きましたね。ああ、良い香りです…」

 チェフィーロは嬉しそうに呟くと、小さなかばんの中から筆と小皿を出し、その花の花粉をそっと皿に落とした。橙で活発な印象のそれからは、ほのかに甘い香りがする。少量であってもこれほどの香りがするのならば…、とチェフィーロは早速画材を広げた。彼はほんの少しの水を花粉の上に落とした。混ぜ合わせれば、ほんのりと赤みの帯びた橙色が溶け出す。その中につなぎとしてレぺという植物から作られた定着液を入れれば、即席のインクとして活用することができるのだ。使用する紙はアーヒェル紙、アーヒェという名の木から作られた紙で、テパイル社製の植物由来のインクとの相性が良い。人工の着色液の使われたインクはにおいがきつく、あまり好ましくない。せっかくのその花―アピシアの甘い香りを損なうのはもったいない。

 「橙は陽の色、光となりて万物を照らす。……そうだ、今日はこれでてて様を描くことにしましょう」

 チェフィーロはそう一人で呟くと、指輪型に改良されたペン先にアピシアのインクをつけた。そして、下絵も描かず、紙面に指を躍らせた。何かを優しく撫でるように……。ちなみに今彼は紙の下に何も敷かずにデコボコと安定しない地面の上にうつ伏せの状態から肘を立てた姿勢で、左手で頬杖をつき右手のみで描いている。

 「光は導き、導きは救い、救いは…」

 チェフィーロの手が止まる。救いは、と何度かひとりごちてみては黙り込む。

 絵を描くとき、彼は心の内の誰かが口にする言葉をうわごとのように呟く癖がある。意味のないひとりごととすれば気にはならないが、よくよく聞いてみるとそこには何らかのメッセージが籠っているようにも思えた。

 「救い、救い……すくい……す、くい……」

 チェフィーロの目に惰気の色が浮かんできた。口だけはこわれたおもちゃのように動きを止めず、それに呼応するように指の動きは一層激しくなる。まるで何か胸に秘めていたことを吐き散らすかのように……。

 「救い……。わちきの救いは、許し……」

 許しは即ち生きること。生き続けることが許されるということ。

 紙面からペン先を離して描きあげた絵を日の光に透かして見る。ちょうど目の部分に光が当たり、チェフィーロのことを力強い眼差しで射抜いていた。彼は嬉しそうに笑うと、ペン先をはめていない方の手の指で絵を撫でた。

 「ああ……。貴方様はたとい絵であっても、見守って下さるのですね……」

 チェフィーロは嬉しそうに笑むと、そのまま目を閉じて心地よい草花の香りの中へと落ちていった。

 

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