智謀

朱鳥 蒼樹

第一章:始まり

第1話:プロローグ

 雀の声がする。窓を開ければ心地よい風が吹き抜け、部屋にはほのかに花の香りが満ちていた。春もさかりとなり、花々は競うように咲き出していた。



 帝歴一八八九年、冬碼帝国前皇帝エレアンスの後継者を巡って勃発した内乱が終息を迎えた。クラレンス王太子率いる正統派とギナムス大臣率いる革新派の戦いは、正統派の手によって鎮圧され、次代皇帝の座はクラレンスが受け継ぐこととなったのである。

 クラレンスは国の治安を守る軍組織と王宮を守る騎士団を再編し、ギナムスの息のかかった者を徹底的に排除してきた。そして、この春ようやく国も安定してきたため、今まで先送りとなっていた「戴冠式」を執り行うはこびとなったのである。式はひと月後に行われる。そのため帝都に住む人々は準備に大忙し、嬉しい悲鳴を上げていた。



 そんなにぎわいを見せる町並みを窓辺から眺めながら、この部屋の主チェフィーロはぼんやりと考えごとにふけっていた。伏し気味のまぶたから覗く翡翠の右目には憂いと気だるさが宿っている。眼帯の奥に隠された左目にもきっと同じ光がはらまれていることであろう。頬にかかる短い髪を耳にかけながら、彼は深い深いため息をつく。

 「のどかな春の朝だというのにこの喧騒……。ハア、イヤですねぇ、台無しです」

 心底疲れたように吐き出された言葉。つむぐ声は少し高めの落ち着いた色で、ゆるゆるり……。

 花の香りと鳥の声を感じながらのんびりとした朝を過ごしたいというのに、ここのところ連日大工たちの叩く槌の音で目覚める。戴冠式に向けての改修工事をしていることは勿論承知しておるのだが、どうにも気に入らない。チェフィーロはざわざわする心を抑えて着替えを済ませると、細長い包みと小さなかばんを持って部屋を出た。

 「おや、チェフィーロ様、今日もお早うございますな。朝食は……」

 ちょうど部屋の前の廊下の灯りを消していた老齢の執事がそう声をかけてきた。彼はチェフィーロが幼少の折より両親に仕えており、チェフィーロ自身もよく知っている人物だ。

 「おはようございます、執事長。のんびりと朝食を食べたく思うのですが、この喧騒ではとても安らげませぬ……」

 「左様でございますか。では、本日もサンドウィッチをお包みしましょう」

 「ええ、是非とも、よろしくお願いします」

 「かしこまりました。では、リビングにてお待ちくださいませ」

 騒音は嫌いだった。心がざわざわとしてありもしないことをよく考えてしまう。聴きたくもない声にとんでもないことをつきつけられる。ここにいたら、狂ってしまう……。

 そんな時、チェフィーロには行く場所がある。そのことを知っている執事長はこうやってサンドウィッチを作ってくれるのであった。

 「いつもご面倒をおかけします」

 チェフィーロはそう言ってリビングに足を向ける。ざわつく心は会話の中でほんの少しだけ落ち着いたように思えた。

 ―― ああ、でもこれではまだ……。

 早く、早く、このざわつく心を昇華せねば……。

 心なしか足早に歩みを進めながら、チェフィーロはそう自身に言い聞かせていた。とはいえ、この心を静めるために必要なものは言葉でも薬でも誰かのぬくもりでもない。

 そっとリビングの戸を開けると、そこにはこちらに背を向けて座る姉の姿が見えた。憲兵として働く彼女はここのところとても忙しいようである。うまく説明できないが、チェフィーロには何となく彼女が疲れていることがわかった。

 チェフィーロは音も立てず静かにその場で目を閉じる。ややあって開いた瞳に憂いの色はなくなっていた。

 「おはようございます。エルネスタねね様」

 「わっ!と、なんだ、チェフィじゃない、驚かせないでよ」

 ゆるりと艶やかな色のある声でささやくと、姉―エルネスタの肩がビクッと震える。が、チェフィーロの姿を見ると安心したように息をついた。

 「うたた寝ですか?なんともお珍しい……」

 チェフィーロがそう続けると、エルネスタは欠伸を噛み殺しながら、そうなのよ、と呟く。

 「戴冠式間近でしょ?警備の仕事がいつもの倍以上神経使わなきゃならないから大変なのよ」

 父さんはもっと忙しそうだったけどね。

 エルネスタの言にチェフィーロは口をつぐんだ。二人の父は王宮内の警備や皇族たちの護衛などの任をつかさどる騎士団の団長を務めている。彼は先代皇帝エレアンスの幼馴染でクラレンス王太子が幼少の頃から仕えてきたため、今回の戴冠式に対して並々ならぬ思いがあって当然であった。本来、文官たちが率先して行うはずの儀式の段取りを引き受けているらしく、ここのところかなり疲れた顔で帰宅するような有様だった。母はそんな父を労りおいしい料理を作ったり、家事に一層力を入れている。もう一人いる兄なぞここのところ帰ってきてもいなかった。仕事をしていないのは自分だけだ。

 「戴冠式も大変でございますね」

 「当たり前じゃない。殿下にとって一生に一回の儀式よ。それに国内外の有力者もたくさん来る。失敗したら大変なんだから」

 「へえ…、それは大変でございましょうね……」

 どこか他人事のように返事をすると、エルネスタは少しムッとした表情をこしらえた。彼女がそこで何か言おうとしたとき、折よく執事長がサンドウィッチを入れたバスケットを持ってリビングに入ってきた。

 「チェフィーロ様、こちらご朝食のサンドウィッチとヨーグルトにオレンジを混ぜ合わせたスムージーでございます」

 「ありがとうございます。 ――それではねね様、わちきは行くところがございますので、これにて……」

 チェフィーロは執事長よりバスケットを受け取ると、すぐさまリビングを出た。後ろでエルネスタが何か言っているが、聞こえぬふりをすることにする。

 ― 早く、早く……。

 心の内で誰かがせかすチェフィーロはその声に従って家を飛び出し、一目散に駆け出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る