神官長殺人事件1

『俺は犯人じゃない! 信じてくれ!』


「なにを訳の分からないこといってやがる! 大人しく捕まれ!」


『くそっ、全然話が通じない……!』


 氷室は道もわからない建物の中を全力で走った。

 わかっているのは、どうやら自分は地下室にいたらしいということだ。だから階段を上へと駆け上がっていく。


 幸いにも氷室はクラスでも足の早い方であった。

 それに、男たちがローブのようなものを着ているせいで走りにくそうなのも幸いした。

 氷室が階段を上り終えたときには、追っ手はようやく階段にさしかかったところだった。


 よかった、これなら逃げ切れそうだ。

 そう安堵した瞬間、男の一人が光に包まれ、ものすごい勢いで階段を駆け上がりはじめた。


『はあっ!?』


 足が速いとかそういうレベルじゃなかった。

 たった一歩で十段以上も飛び越えてくる。

 あっという間に氷室の背中へと手を伸ばした。


「捕まえたぞ!」


 氷室はとっさに後ろに足を蹴り上げた。

 かかとが吸い込まれるように男の股間へと命中する。


「あがっ……!?」


 股間を押さえて苦悶の声を上げながら階段を転げ落ちていった。

 後ろから迫っていた男たちが巻き込まれるように階下へと押し戻されていく。

 その様子を氷室は少しばつが悪そうな表情で見下ろしていた。


『あー、その、すまん。だが捕まるわけにはいかないんだ!』


 股間を押さえて泡を吹く男に向けて形ばかりの謝罪を述べると、きびすを返して走り始めた。


 一階に上がったが、他に人はいないようだった。

 どういう理由なのかわからないが、今が逃げるチャンスである。


 開いていた窓を乗り越えて外へと飛び出した。

 さっきの男の異常な加速を考えると、このまま逃げられるとは思えない。

 できれば自転車でも転がってると助かるのだが、と周囲を確認して、氷室は驚いた。


『なんだ、ここ……!?』


 居並ぶ建物はどれも石造りの建物だった。

 中には泥を固めて作ったような土の家もある。とても現代の建築とは思えない。

 そして、それ以上に驚いたのが空だった。


 この世界には空がない。


 代わりに巨大な岩をくり抜いて作ったドーム状の天井があり、その中央には巨大な光の玉が浮かんでいた。

 まるで太陽の代わりとでもいいたげに、煌々と明かりを照らしている。

 男たちの服装や言葉から日本でないことは覚悟していた。

 しかし、氷室の知識のどこにもこんな光景は存在しなかった。


「いたぞ、あそこだ!」


『くそ……っ!』


 男たちの怒声を聞いて、氷室は再び走り出した。




 道もわからない街の中をひたすらに走る。

 建物は数多く並んでいるわりに他の住民とはほとんどすれ違わなかったが、必死で逃げる氷室にそこまで気にする余裕はなかった。


 かわりに、体調の異変を感じはじめた。

 いくら全力疾走しているとはいえ、体がやけに重たく感じる。イメージしている自分の動きに、実際の動きが追いつかない。

 それに息も上がってきた。普段ならこの程度で疲れることはないのに。

 緊張のせいでいつもより早く疲れているのだろうか、と自己分析するが、答えは出なかった。


 振り返ってみたが、幸いにも追っ手の姿は見えない。うまく引き離せたらしい。

 氷室は息を整えるためにも、人の気配がしない家へと飛び込んだ。


 わずかな間をおいて足音が追いついてきた。


「くそっ! いないぞ、どこに行った!」


「魔力紋の痕跡はない! まだ近くに隠れているはずだ!」


「おい、このあたりはあのお方の……」


「……ヴェルヌ様に迷惑をかけるわけにはいかない。すぐに探し出せ!」


 怒鳴り声が走り抜けていく。

 息を殺していた氷室は、足音が完全に聞こえなくなるまで身動きひとつ取れなかった。

 どうやら逃げ切れたらしいとわかると、思い出したように息を吐き出した。

 気がつかないうちに呼吸まで止まっていたらしい。


 思わず苦笑をこぼしながらも、氷室はその場にへたり込んだ。

 忘れていた疲労が急に襲ってきて、とても立っていられなかった。

 緊張が解けると同時に、考えないようにしていた様々なことが頭の中に溢れてくる。

 あまりにも理不尽な状況に怒りがこみ上げてきた。


『くそっ、なんなんだよいったい……!』


 正直に話せば誤解も解けるかもしれない。

 そんな淡い期待はすぐに振り払った。


 あいつらが何を言っているのかまったく理解できなかった。

 それにあの様子だと、捕まった瞬間に殺されそうだ。まともな話し合いをできる気がしない。


『ちくしょう……わけわかんねえよ……なんなんだよこれは……』


 夢ならどんなにうれしかったことか。

 しかし無理をして走った足の痛みが、全身にこびりつく汗が、痛いくらいに鼓動を鳴らし続ける心臓が、これは夢ではなく現実だと告げている。


『……。あの状況じゃ、俺が殺人犯と思われてるんだろうな……』

 

 納得はいかないが、客観的に見れば自分が疑われても仕方がないことは理解していた。

 そして、どこなのかもわからないこんな街では隠れるにしても限界があるだろう。

 いつまでも逃げ続けられるとは思えない。

 どうにかして真犯人を見つけ、自分が殺人犯ではないと証明する必要があった。


 いずれにしろ、いつまでもここに隠れているわけにはいかない。

 今後の計画を立てるためにも、安全な場所に移動する必要があった。


『そういえば、この家はどこだ?』


 今更その疑問が浮かんだ。

 人の気配がしなかったので飛び込んでしまったが、どんな家なのかを確認していなかった。


 とはいえ室内は真っ暗で、家具のひとつも見あたらない。

 空き部屋か、もしかしたら倉庫かもしれない。

 そう思った直後、部屋の中がまばゆい光で満たされた。


 妖艶な声が室内に響く。


「無粋な闖入者が来たかと思えば、ずいぶんと面白いのが迷い込んできたな」


 心臓が止まるかと思うほど驚いた。

 さっきまでここは何もない部屋のはずだった。

 なのに明かりがついた瞬間、そこは豪華な部屋に変わっていた。


 高価そうな調度品が並び、部屋の奥には天蓋付きの大きなベッドがある。

 そこには一人の女性が優雅に寝ころび、薄い微笑を湛えながら氷室をのぞき込んでいた。


「刺客というわけでもなさそうだな。偶然迷い込んだだけか?」


 それは二十代後半と思われる黒髪の女性だった。

 そして、とてつもないほどの美女だった。

 今までに見たテレビやマンガをすべて含めても、目の前の女性より美しい人を見たことがない。

 それほどまでに完璧な容姿であった。

 しかしその美貌に見とれることはできなかった。


『……ッ!!』


 氷室の体が硬直する。

 女性の全身から、言葉にはできない冷たい気配が漂ってくる。

 氷のような冷たさではない。あえて言葉にするならば「死」としかいえないナニカが、氷室の心臓をつかんでいたのだ。

 何が起こっているのか理解できなかったが、目の前の女性は人間ではない、それだけが確信としてあった。


『おまえは……なんだ……?』


 震える声でたずねる。

 女性が興味深そうに体を起こした。


「ほう、小僧はまさか……。となると、そうか……」


 一人で何度かうなずくと、急に冷たい気配が消えた。


『これならどうだ?』


 心臓を凍らせていた冷気が消えて、解放された氷室はほっとため息をついた。

 同時に自分の状況を思い出す。


『ま、待ってくれ! 突然入って悪かった! 誰もいないと思っていたんだけど、まさか人がいるとは思わなくて……!』


 あわてて言い繕う氷室に、女性が口元を笑みの形にゆるめた。


『そう怯えるな。大体の事情は察している』


『そ、そうですか……』


『代わりにいくつか質問に答えてもらおう。さしあたっては、そうだな。まずは名を聞こう。いつまでも小僧ではやりにくいからな』


『ええと、俺は氷室結城だ』


『ヒムロユウキか。長いし言いにくいな。やはり小僧でいいか』


『自分の聞いておきながら結局それかよ……』


 思わずこぼれた氷室のぼやきに、女性が微笑を浮かべる。


『気を悪くするな。使い慣れない言葉はどうしてもな。それと言葉遣いは今のままでいろ。無理して敬語を話される方が我は不快だ』


『そうですか……そうかよ。じゃあ遠慮なくそうさせてもらうが。それで、あんたの名前はなんなんだ』


『我はヴェルヌ。心してその名を口にするといい』


 聞き慣れない名前に氷室は戸惑った。

 薄々感じていることではあるが、ここはやはり自分の知る世界とは違うのかもしれない。

 そんな氷室の様子を見て、ヴェルヌがクックックと喉を鳴らす。


『なんだよ』


『いや、すまない。我の名を聞いて平然としているのが珍しくてな』


『あんた、有名人なのか?』


『一応それなりにはな。そんなことより、今は我ではなく小僧だ。どうやってここに来た』


『訳も分からずに走ってきたから、どうやってかは……』


『そうではない。どうやってこの世界に来た』


『……!』


 はっと息をのむ。

 それはあえて考えないようにしてきたことだった。

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