神官長殺人事件3

 気がつくと氷室はベッドの上に寝ていた。

 天蓋付きの豪華なベッドだ。

 間違っても自分の家じゃないし、学校の保健室でもない。


『起きたか小僧』


『……現実、なのか』


『ほう、意外と受け入れるのが早いな。もう少し時間がかかると思ったが』


 ベッドの端に優雅に腰掛けていたヴェルヌが笑みを浮かべた。

 こんなものは全部夢だといって否定してしまいたい。

 確かにそうしたい気持ちはある。

 でも、驚くほど達観した自分がいるのも事実だった。


 受け入れるというよりは、まだ状況を飲み込めていないだけなのだろう。

 アニメやマンガも人並みには見ていたから、異世界系のジャンルは知っていた。

 だけどまさか、本当に自分の身に降りかかるなんて、未だに実感できない。

 だから落ち着いていられるのかもしれなかった。


『立ち直ったのなら、まずはその本を読め』


 枕元には例の『初めての異世界生活~日本編~』が置かれていた。


『小僧がこの世界で生きていくのに必要なことが書かれている。死ぬ気ですべて覚えろ』


 手を伸ばして、しかしつかむことはできなかった。

 これを手にすることは、つまりこの現実を受け入れるということではないのか。

 普通の高校生活も、楽しかった友達とも、ちょっといい感じになっていたあの子とも、すべてに別れを告げることにならないだろうか……?


 不意にとあることを思い出して、ポケットに手を入れた。

 そこには手になじんだ四角い筐体、スマホが入っていた。

 即座に起動する。そして、すぐに落胆した。


 いうまでもなく圏外だった。

 ネットにもラインにもつながらない。アプリを起動しても、たわいない会話の記録が残されているだけだった。


 本当にどうでもいい会話だった。会話どころか、半分がスタンプで埋められている。

 「それな」だけでどれだけ会話が続くのかといったくだらないやりとりもあった。

 ちょっといい感じだったあの子とおすすめ動画を教え合い、今日はその話をする予定だった。

 友達に話をしてあの子が気に入りそうな動画を10個も用意しておいたんだ。動画のリンクはどれもつながらなかった。

 気がつかないうちに氷室の目から涙がこぼれていた。


『帰る方法は、本当にないのか……』


『ない。専門的な話になるが、強制召喚は元の座標がわからないからな。女神による選別ならば元の世界の情報もわかるため、望めばいつでも帰れる。しかし強制召喚にはその力はない。そして元の座標がわからなければいかに女神といえども戻すことはできない』


 訳が分からなかった。

 スマホの画面に次々と大粒の水たまりができていく。


 現実を受け入れられなくて、無駄だとわかっていてもメッセージを送ってしまう。

 そのたびに『送信されませんでした』のメッセージが表示された。

 やがてバッテリー残量がなくなった。

 残り10%未満の警告を見て、暗い気持ちと共に電源を落とす。


 きっとこの世界に電気なんて存在しないだろう。

 規格とか電圧とか詳しいことはわからないが、仮に雷魔法があったとしても、精密機械であるスマホをそんな簡単に充電できるとは思えない。


 バッテリーがなくなれば、中の記録を見ることもできなくなってしまう。

 元の世界とのつながりを示す唯一の思い出がなくなってしまうのだ。


『覚えるならば早くした方がいいぞ。小僧にはあまり時間がないからな』


 ヴェルヌの言葉に顔を上げる。


『……どういう意味だ?』


『小僧には今、神官長殺しの容疑がかけられているからな。捕まればただではすまないだろう』


『だが犯人は本当に俺じゃない。ちゃんと話をすれば……』


『小僧の無罪をどう説明するつもりだ』


『それは……真犯人を見つけるとか……』


『その通りだ。そしてそれは簡単ではない。そもそもこの街で犯罪の立証は困難だ。なにしろここにはスキルも魔法もあるからな』


『それのなにが問題なんだ』


『では逆に聞くが、真犯人をどうやって見つけるつもりだ』


『それは……アリバイとか、証拠を見つけて探したりとか……』


 氷室の答えに、ヴェルヌが底意地の悪い笑みを浮かべた。


『ひとつ教えてやろう。この世界にはスキルも魔法もある。それはつまり、遠く離れた地から相手を呪い殺すことができるし、姿を見えなくすることも、場合によっては時間を操作することもできるということだ』


『………………は? ちょっと待ってくれよ。それじゃあ、そんなの何でもありじゃねえか!?』


 思わず叫んだ氷室に、ヴェルヌが底意地の悪い笑みを浮かべた。


『そうだ。だからこの街では法律は機能しない。被害者たちが独断と偏見で勝手に復讐をするからな。

 小僧は神官長を殺したと思われている。身の潔白を証明して、追っ手を説得できるだけの証拠を見つけない限り、永遠に追われ続けるだろう。あの神官長と呼ばれる男は、この街ではかなり地位が高かったからな。捕まれば命はないと思え』


『そんなこといっても、真犯人を見つけるのは無理なんだろ……。だったらあとは逃げるしかないじゃないか……』


『安心しろ。方法はある。だが今の小僧に必要なのは、この世界で生き残るための知識だ』


 氷室は手にした本に目を向けた。

 死にたくない。

 その思いが強くわいてくる。

 こんな理不尽な状況にいきなり投げ込まれて、なにもできずに死んでいくなんて許せなかった。

 それになにより……。


 手にしたスマホを強く握りしめる。

 やりたいことも、やり残したことも、まだまだたくさんあるのだ。


『……くそったれが! 絶対に生きて帰ってやる!!』


 氷室は吐き捨てながら本を手に取った。

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