Epilogue

第86話:夢と現実の狭間

 ドールの国での出来事から、一年後。ルナは、ロンドンへ向かう飛行機の中に居た。

 薄暗い機内は静まり返って、乗客たちの寝息と、小さく話す誰かの声が僅かに聞こえる。機体が風を裂く雄々しくも一定した響きに対して、それらは明らかな不協和音だ。しかし旅の途中を演出しているようでもあって、不快ではなかった。

 遮光のブラインドから、光が漏れる。ほんの二、三センチほども隙間を空けると、思ったよりも大軍で黄金色の光が侵入した。


「う、ううん……」


 その光は、隣に眠る親友の顔を攻撃する。今年の夏も、ヒナは実家へ同行してくれていた。

 起こしてしまったかと覗いたが、顔を反対に向けるだけで済んだようだ。浮かしかけていた腰を下ろし、クスッと笑う。


「さて――」


 目が冴えてしまった。退屈だからと、ヒナを起こすわけにもいかない。手持ち無沙汰に、ヘッドホンを着けて目の前のパネルを操作してみた。

 映画やアニメを、じっくり見るような気分でもない。現れた画を理解する一瞬の間だけで、次々とチャンネルを変えていく。

 その手が、ふと止まった。

 画面に流れるのは、報道番組だ。日本語だが、もう不都合なく視聴出来る。


「もうそんなにか……」


 全世界的に。しかも高度に成長した都市ばかりで起きた、神隠し事件。それが未解決のままで、一年を経過しようとしている。そういうニュースだった。

 未解決とは言っても原因が分からないだけで、被害者とされる多くの人々が同時に発見されたことが話題になったのだ。

 捜査当局が把握しているだけでも、数百人規模。全容では千人とも二千人とも推測されている。

 これほどの事件を起こすには、国家規模の計画が必要となる。ではそれを行ったのは、どこの国か。

 巷の噂話から国家間の協議の場まで、ありとあらゆる推論が立てられた。しかし行方不明になっていた当人たちが、なにも覚えていないのだ。理由の判明するはずがなかった。


「ドールの国だよ」


 その答えを、隣に居るヒナにさえ聞こえないくらいの小声で言った。

 自分は知っているのだと、優越感ではない。誰かに知られるかもと、スリルを楽しんだのでもない。

 自己満足に過ぎないが、贖罪と呼ぶのが最も近かった。


「我が家とそちらと、二つの家だけの秘密にしましょう」


 あの日。そう言ったのは、キャロル家のパパだ。

 ドロシーの家に全員が集い、全ての事情を説明した。まずは徹夜でルナを探してくれた、町の人々。それからドールの国に連れてこられていた人たちと、その家族。

 迷惑などという可愛げな言葉では到底足りないが、同じ説明をしたところで信用されない。だから沈黙することにしたのだ。

 ルナは久しぶりに森に入って、誤って崖下へ落ちていたことになった。


「ドロシーは大丈夫かな……」


 それほどのことを誰がやったのかという話をすれば、それはドロシーだ。彼女も他の人々と同じように、忘れていたほうが良かったのかもしれない。

 だが覚えていた。

 まだ八歳ということもあって、事態の重大さを理解しきってはいなかったようだ。しかし漠然と、ひどいことをした自覚はあった。

 これからドロシーが成長するにつれて、理解も進むだろう。彼女自身は、謝罪さえ出来ないその罪の意識に耐えることが贖罪になる。原因を作った彼女の両親は、それを支える。

 これより他に、なにをどうすることも出来ないと結論付けられた。


「病弱な少女が寂しくて仲間を求めたら、人形が勝手に動きだして、同じような境遇の子たちを拐った――なんて。誰も信用しないし、裁く法律もありはしませんよ」


 そう言ったのはキャロル家のママだ。その時は優しい口調で、気を安くさせる温かい言葉だと思った。

 けれどもいま平坦に言ってみると、なんとも厳しい言葉だと分かる。

 それを知って黙っているパパやママ。実際にその世界を見てきた、ルナやポーにヒナ。みんな同罪だと言っているのだ。


「それは体良く、僕たちを許そうと方便として言ってくださっているのでは? だとしたら――」


 ドロシーのパパ、ベネットはそう言った。柔らかな態度を、そのままに受け取ったようだ。

 ママの返答として、薄く笑って首が横に振られた。言葉を重ねると、ひと息にドロシーを責め立てることになる。そう考えたのだろう。

 ベネットは「でもそれでは――」と、落としどころが見つからない。誰もなにも言えない中、次に言葉を発したのはヒナだ。


「なにもかも忘れて、気軽にしろって言ってるんじゃないわ。でも、もし責任を取れってなったところで、どう取るの? 実際にドロシー自身が、なにかをしたわけじゃない。みんなあの世界に共鳴していたのよ」

「しかしそれでは、居直っているだけにはならないか?」

「だから。ドロシーを支えるんでしょう? あなたの言うを言って、どうなるの。法で裁けない以上、残るのは無責任な批判と好奇の目だけよ。そんな果てのない悪意に晒し続けるの?」


 それがおそらく実際だろう。ベネットもそこに異論はないらしく、「いやそうだが、しかし」と歯切れが悪い。


「居なかったものが帰ったんだから、みんな落ち着くところに落ち着くわ。混ぜ返す必要なんてない。そこでどうしてもって言うのは、それこそ欺瞞よ」

「そう…………かもしれないな」

「私、ずっと監視するから。あなたたちが罪を忘れないよう。ドロシーがまた同じように寂しくなっていないか、ずっと見てるから」


 それが私たちの贖罪だと、ヒナは言った。

 だれかれとなく意見を聞けば、多く異論はあるだろう。しかし要はヒナの言った通りに、落ち着くものを無理に混ぜ返すなということだ。

 あちらに問題がないのなら、あとはドロシーがきちんと成長出来る環境であればいい。また女王のドールにならなければいい。

 そうするのがベネットとキャサリンの責任で、その監視役もまた責任だと。


「物は言いようだよね」


 あとになって、何度もドロシーと会うための口実かと聞いたら、強い否定はなかった。

 ヒナらしいな、と。ルナは思う。

 ――あれは、いつだっただろう。大学に入った年の、始まって間もないころだった。

 そのころルナは、もうヒナと知り合いではあった。総勢で十数人しか居ないゼミのメンバーだ。たしかもう一人だけ居た同い年の女の子と、彼女はよく一緒だったと思う。

 日本の大学生は優秀だと聞いていたのに、まともに英会話が出来る学生は一人も居なかった。しかもそのゼミは、西洋文学を対象としているのにだ。

 教授は英語が堪能で、レポートなども英語で提出して良いとされていた。だから英語の論文などもスラスラ読めるルナは、すぐに助手のように扱われた。

 そもそも自国の文学を研究するために、遠く日本まで来ているくらいだ。他の学生とは意気込みから異なっていたに違いない。

 ルナは距離を置かれ、一人で居ることが多くなった。中高生のような、あからさまなイジメに遭ったわけではない。

 体面上は丁重に、レベルが違ってお邪魔になるからご一緒するのは遠慮します、と。そういうことだった。


「ねえ、お願い。助けて!」


 資料庫で論文を読んでいたルナの隣の席へ、倒れ込むようにして座った誰かが居た。それがヒナだった。


「え、えぇ?」

「ゴールデンウィークに、訳せ理解しろって」


 彼女は二冊の本を見せた。どちらも不思議の国のアリスだが、どうやら版が違うらしい。教授の指示は、両者の異なる点を洗い出して、その背景を調べることなのだろう。


「そうすればいいんじゃない?」

「簡単じゃないの。時間がかかるの」


 発音は日本人独特のカタカナ英語に近いが、聞き取れないほどではない。普通の速度で話しているのに、なんと言ったのか聞き返されもしない。

 多少たどたどしくはあっても、ちゃんと意思疎通が出来ている。このゼミでは、間違いなく一番に英語力が高いだろう。

 その彼女に困難な課題だとは思えないが、どうしたことか。聞いてみると、なんのことはない。ヒナは話すよりも、読み書きのほうが苦手だったのだ。


「高校に連合王国の先生が居たの。その人とおしゃべりしてたの」


 なるほど教師ならば日本語も話せるだろうし、おしゃべりをすることで英語力が高まったのだろう。しかしおしゃべりにない単語や文法などは覚えなくて、読み書きは成長しなかった。

 それはその先生としては、嬉しいやら嬉しくないやらだっただろう。想像して、思わず笑ってしまう。

 そこではたと気付いたのは、日付けだ。ゴールデンウィークのうちにと聞いたが、その日はもう五月の上旬も終わるころだった。


「私でいいの?」

「え、なにが? いつも難しい資料読んでる。すごいと思ってる」


 きょとんとした顔でヒナは言う。

 これまで話す機会はなかったが、すごいと思うから頼らせてもらおうと思った。いとも単純な話だ。

 他の学生が陰口で言う「イギリス人なんだから英語が得意で当たり前だよな」などという、わけの分からない感情とは無縁であるらしい。

 それから二人は友人となった。ヒナの依頼が終わっても、彼女はルナの傍に居たがった。それがルナの境遇を知ることになったが故の行動で、やがて彼女も孤立していったのもルナは知ることとなる。

 けれどもそのことに、なにを言うことも出来ない。それはヒナが自分でそうしようと思ったのであって、どうしたらいいかと相談もされていない。

 申しわけないと思う気持ちはありつつ、ヒナ自身の名誉のために、言及出来なかった。

 だがそれからまた数週間が経って、謝られたのはルナのほうだった。しかもその相手は、ゼミの教授だ。


「いやすまない。私の手間が省けるものだから、つい君をいいように利用する形になっていた。余計な手間をかけさせてすまなかった」

「いえ。貴重な資料を見せてもらえるので、私も助かりました」

「それはこれからも惜しまないつもりだ。いつでも言ってくれ」


 どうして突然にそんなことを言い出したのか、尋ねても教授は頑として言わなかった。しかしそうなると、ルナもしつこいタチだ。日を改めてでも、何度も食い下がる。

 それである時、ようやく教授は視線をヒナに向けることで教えてくれた。


「私はなにも言っていないからね」

「えぇ。私もなにも聞いていません」


 教授からの扱いが他の学生と同じになったことで、今度はなにかやらかしたのではと噂をされ始めた。もちろん例によって、面と向かっては言われないが。

 けれどもそのままなにごともなく日が過ぎていくと、二年生に上がるころにはヒナ以外にも話す仲間が出来ていた。


「ねえ。どうして私と仲良くしてくれるの?」


 ある日、ヒナの家で食事をしながら聞いてみた。


「えっ? ルナと居ると楽しいからだよ。どうして?」

「日本人の子と居るほうが、話も合うんじゃないかって心配になってね」

「うーん。そうかもね」


 その返事には、少しばかり驚いた。普通は、そんなことないとか、どうしてそんなことを聞くのかとかいう言葉が返るだろうと予想していた。


「合わないんだ?」

「そうじゃないけど、お互い知ってることを並べていったら、たぶん日本人のほうがたくさん同じになるだろうねってこと」

「ん――? ああ、そうだね」

「私はね。ルナが仲良くしてくれて、英語がいっぱい話せるようになったよ。でもそんなことは関係なく、アリスのことが知りたいと思ったからここに居るんだよ」


 ここ。とは大学のことで、ゼミのことだろう。どうやら彼女は、ルナがそんな質問をする理由に気付いたらしい。


「ルナと話すようになったのはたまたまだけど、それで仲良くなりたいと思ったからずっと一緒に居るんだよ。それが理由だから、どうしてって聞かれても、ね」

「うん――分かったよ」


 そんな会話をしてからも、それなりに時間が経った。まさかその間に、命をかけるような出来事に遭遇するとは思わなかったが。


「ん、んんー!」


 ようやく目覚めたらしい。ヒナは両腕と両脚を同時に伸ばして、首をぐるぐるっと回す。ルナも首や腰に違和感があるので、同じようにした。


「わあ、もう朝だね」

「そうだね。もうすぐ到着だよ」

「ルナはずっと起きてたの?」

「まさか。少し前に起きたんだよ」


 そう言うと、ちょうど機内のアナウンスもヒースローへの着陸が間近だと告げた。


「ポーもドロシーも元気かな。背が伸びたかな」

「写真、見せたよね。湖の周りを歩いてるやつとか」

「見たけど、実物は違うかもしれないじゃない」

「――そうだね。どんなことだって、実際にやってみなきゃ分からないもんね」


 飛行機は順調に高度を下げて着陸する。そこには少しばかりの荷物を持った、ポーとドロシーが待っているはずだ。

 これから毎年繰り返すこととなる四人の旅の最初は、ドロシーにロンドンの街を見せることから始まった。


―『人形たちの輪舞曲』完結―

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人形たちの輪舞曲 須能 雪羽 @yuki_t

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