後編

   

 動物実験ということで、この部屋に入る時点で、既に専用マスクやゴム手袋、紙製ガウンやキャップ帽などは装備している。返り血対策は万全だ。もちろん作業は、安全キャビネットと呼ばれる筐体――ガラスとフィルターで囲まれた作業台――で行われるので、まあ、俺まで『返り血』が飛んでくる可能性はゼロに等しいわけだが。

 さあ、いよいよ。

 俺は飼育ケージから、一匹のマウスを取り出して、安全キャビネット内の紙製敷物ペーパーシートの上へ。

「キ……キキキ……」

 己の運命を知らぬマウスが、俺の手の中で可愛らしく鳴く。

 そう、マウスというものは、可愛らしい動物なのだ。少なくとも、俺はそう思う。

 いや「マウスなんてネズミじゃないか」と反論されるかもしれないが、ネズミはネズミでも、マウスはラットとは違う。ラットも実験動物として使われるが、ドブネズミが元になっているだけあって、ネズミとしては比較的大型だ。一方、マウスは小さいから、それだけで可愛げがある。特に、実験動物として用いられるマウスは、いわゆるアルビノマウスだ。雪のように白い毛並みと、ルビーのように赤く輝く瞳を持つ……。ほら、こういう形容をすると、むしろ漫画やアニメのサブヒロインみたいじゃないか!

 そして、漫画やアニメで女性キャラが誘拐される場面よろしく、俺は麻酔薬を嗅がせて、相手を眠らせた。

 うん、あくまでも相手はマウスだからな? 誤解するなよ?

 特に、ここからは、マウスをアニメキャラと重ねてイメージすることは推奨できない。

 そのような情に囚われていては、動物実験など出来やしないのだ。

 俺は心を鬼にして、ハサミを手に取った。そのハサミでチョキンと、マウスの首を切り落とす。

 ドロリ、ポタリと、切断面から血が滴り落ちる。


 この作業を初めておこなった時、俺は「マウスの首って、なんて柔らかいんだろう」と驚いた。動物の骨というものは、もっと硬いものかと誤解していたのだ。

 考えてみれば、動物といっても、マウスは小さい。とても小さい。だからこそ『柔らかい』のだろう。理屈としては当然であっても、初めて経験するまで気づかない、そんな事象は世の中に溢れているものだ。

 さて。

 首から先を失ったマウスの体は、傍らの袋の中へ。要するに、ゴミ袋の中へ、ということだ。アニメキャラのように可愛かったマウスも、もはや、物言わぬ死体。それ相応の対処をしなければならない。

 そう考えると、もう心を痛めることもなく、俺は切り落としたマウスの頭部を拾い上げた。こちらは胴体とは対照的に、大切に扱わねばならない。サンプルとして必要な『脳』が入っているからだ。

 肝心の脳を傷つけないように注意しながら、首の切断面からマウスの鼻先へ向かって、頭部上側にハサミを入れていく。頭の上に一筋の切れ目を作る感じで、頭蓋骨をカットするのだ。そして、その切れ目に指を入れて、頭蓋骨を左右にめくり、スプーン状の器具で中身――脳――を取り出した。

 ちょうど、エビやカニの殻に切れ目を入れて、殻を剥いて中の身肉を取り出す作業と同じだ。同じ感覚だ。

 そう、これも先ほどと同じく『なんて柔らかいんだろう』と実感したことの一つだった。まさか動物の頭蓋骨が、エビやカニの殻と同じ感触とは……。

 取り出した脳をチューブにしまって、氷箱アイスボックスに保管してから、もはや残骸となったマウス頭部も、胴体と同じくゴミ袋へ。

 これで、ようやく一匹目が終了だ。今から俺は、同じ行程を、何度も何度も繰り返すこととなる……。


 そして。

「ふうぅ……」

 ようやく、すべての脳サンプルを回収し終わった。

 あとは、片付けるだけだ。

 今、実験台の上には、最後の一匹の頭部が置かれている。だらしなく口を開いた、いや口だけでなく、閉ざされているはずの頭蓋骨まで強引にこじ開けられた、マウスの頭。

 あの『ルビーのように赤く輝く瞳』も、光を失って、どす黒くなってしまった。血液を消失したからだろうが……。

「まるで、命の輝きの喪失……」

 自然と、そんな言葉が口から出てしまう。

 ともかく。

 最後の頭をビニール袋に入れると、ほとんど袋は満杯だ。袋の口を閉じようと思って、紙テープに手を伸ばした俺は、あり得べからざる出来事を目にした。

 紙テープが、スーッと横へ、俺から逃げるように動いたのだ!

 いや、実験台が斜めだったはずもない。こんな現象は初めてだ。

 だが、これは、まだほんの序の口に過ぎなかった。

 ガタッ、ガタッと音がして。

 今度は、俺が座っている椅子が動いたのだ。まるで、下から俺を突き上げるかのような勢いだ。

 地震などではない。背後に並んだ飼育ケージどころか、目の前の安全キャビネットすら揺れていないのだから。

「な、なんだ……?」

 誰も答えてくれないのはわかっていても、驚きが声になって出てしまった。

 動揺する俺に向かって、今度は、ネズミの頭を切り落としたハサミが動き出す。勢いよく俺を刺そうとする、という程ではないが、ゆっくりと確実に俺を狙って移動していた。

「……馬鹿な!」

 そう、ありえない。紙テープや椅子やハサミが意思を持って動き出すなど、とても考えられない。

 それくらいならば。

 たとえ姿は見えずとも、誰かが手に持って動かしている、と考えた方が、まだ少しは合理的だ。

「誰だ! 誰がいるんだ?」

 俺は立ち上がって叫んでみた。

 返事はない。

 では、これは……。

 幽霊の仕業しわざか?

「ポルターガイスト……」

 論理の飛躍は承知の上で、俺の頭に浮かんだ考えが、それだった。

 もちろん『ポルターガイスト』なんて、オカルト映画の中だけのフィクションだろう。でも、そんな解釈に飛びつきたくなるくらい、俺は混乱していたのだ。

「いやいや、そんなはずは……」

 俺は、自分の頭を左右に振った。

 ここは病院でもなければ、処刑場の跡地でもない。動物実験棟だ。ここで恨みを残して死んでいく人間など、いるわけがない。

 そこまで考えた時。

 俺は、一つの可能性に思い至った。恨みを残して死んでいく『人間』はいなくても、理不尽に殺されたものなら、大勢いるではないか。それこそ、今この近くにも……。

 ゆっくりと首を回して、俺は、ビニール袋の中を覗き込む。

 すると。

「……!!」

 目が合ってしまった。

 胴と頭とに分かたれて、物言わぬ死体と成り果てたマウスたちの中。失ったはずの命の輝きを取り戻したかのように、一対の瞳だけが赤く光り、俺を睨んでいたのだった。


「はっ……。はっ……」

 息を切らすとは、まさに今の俺の状態に使うべき表現だろう。

 慌てて実験室から飛び出した俺は、全速力で廊下を走っていた。

 あの赤い瞳から、はっきりとした悪意を感じてしまったからだ。

 とにかく、あの部屋には、もういられない! 逃げなければ!

 いつもは長く感じない廊下も、こういう場合は、無限に続くかのような錯覚に陥る。

「はっ……。ははっ……」

 息苦しい。気づけば、動物実験用マスクで、口も鼻も覆ったままだった。

 本来、実験室から出る際に、扉近くの室内側のゴミ箱に入れて、処分するべきマスクだ。実験室の中と廊下とは明確に区分されているからこそ、各実験室の扉に『BIOHAZARD』と掲げられているのだ。

 マスクだけではない。ガウンやキャップ帽も、装着したままだった。きちんとゴミ箱に投げ入れてきたのは、血まみれで気持ち悪い、ゴム手袋だけだ。

 ルール違反は承知の上で、マスクを外して廊下に投げ捨てる。無事に終わったら、後で拾いに来ればいい。いや『後で拾いに来る』ことが出来るくらいなら、是非そうなって欲しい。

 そう、まずは、こいつから逃げ切ることだ。

 この、得体えたいの知れぬモノから。


 ゾクッとする感触。

 首筋に不快感を覚えて、俺は振り返った。

 ああ、得体えたいの知れぬモノが、かなり近づいている。

 黒っぽく感じる不気味な存在だが、はっきり『黒』という色がえているわけではない。むしろ半透明で、ユラユラしている。でも「いる」という存在感だけは、圧倒的だった。

 これが幽霊というものなのだろう。

 場所が場所だけに、そして、俺のおこないがおこないだけに……。

 これは、マウスの悪霊なのだろう。

 守護霊のような好意的な霊ではなく、俺を害する意思に溢れた、俺を殺そうとする悪霊。

 悪霊それは、もう、すぐ背後に迫っていた。

「……!」

 声にならない声を上げる。

 もはや、悲鳴にすらならない。

 俺は頑張って、最後の力を振り絞るかのように、さらにスピードを上げて走り逃げる。

 悪霊これに捕まったら、俺は助からない……。そんな想いに駆られて。


 ズンッ!

 風もないのに、強風に背中を押されるような感覚があった。

 いわゆる『霊圧』とか『霊的プレッシャー』といったものだと思う。人生において、初めて経験する感触だった。

 さいわい、出口は、もうすぐだ。

 もちろん、動物実験棟から外へ出たところで、助かるという保証はない。それでも、悪霊こいつが生まれた動物実験室からは、絶対に離れなければならない……。そんな、強迫観念にも似た想いがあった。

「悪夢だ……」

 出口が見えて、少しホッとしたせいか。俺の口は『言葉』を取り戻したらしい。

 これが眠っている間に見る悪夢ならば、走っても走っても前へ進まない、なんてこともあるだろう。だが、これは夢や幻ではない。悪夢のような現実だ。

 出口との距離は、確実に縮まっていた。

 悪霊あいつの手に撫でられるような感覚を、時々、背中に感じながらも。


「……出たっ!」

 思わず、俺は叫んでしまった。

 扉を開けて、ついに俺は、動物実験棟から飛び出したのだ。

 外は真っ暗だったが、心地よい風が吹いていた。

 先ほどの『風もないのに背中を押されるような』ではなく、本物の風が頬に当たる。生きている、と現実を実感できる感触だった。

 振り返れば。

 つい今さっきまで俺を追っていた悪霊あれの姿は、完全に消えてなくなっていた。


 しばらく呆然と立ちすくんだ後。

 俺は、動物実験室へと戻った。

 不思議なことに、先ほどまでの恐怖は、嘘のように消えていた。代わりに「確かめなければならない」という使命感が、俺の心の中に生まれていた。

 途中の廊下で、投げ捨てたマスクを拾う。一瞬迷った後、それは所定のゴミ箱へ捨てて、新しいマスクを装着した。手袋も、新しいゴム手袋を用意する。片付けの途中だったから、続きをするためだ。

 紙テープも椅子もハサミも、もはや動いていなかった。

 マウスの死骸だらけのビール袋を、恐る恐る覗き込む。その中も、正常な状態に戻っていた。赤く輝く瞳など見当たらない。

 それを確認して……。

 俺は、きっちりと袋の口を閉じた。

 その瞬間。

 ああ、これで完全に終わりだ。平穏な日常が帰ってきた……。俺は、そう実感できた。


 結局。

 あれは一体何だったのか。

 はっきりしたことは不明のままだ。

 誰にも「悪霊に襲われた」なんて話は告げていない。

 ただ。

 勝手な憶測ではあるが、俺なりに、少し考えてみた。


 かなり序盤でRウイルスの説明をした時、俺はこう言ったはずだ。「動物ケモノを超え、人間ヒトを超え、今、神に至る」なんてことにはならない、と。

 あの言葉を借りるならば、今回の騒動は「動物ケモノを超え、人間ヒトを超え、幽霊に至る」ということだったのだろう。

 後日、何事もなかったかのように脳サンプルの解析をしていた俺は、一匹だけ、極端な個体が存在していたことに気づいた。

 組換えウイルス感染により目的の遺伝子――機能未知の遺伝子――が活発になるのは良いのだが、その活性化の度合いが、一つだけ桁外れに大きかったのだ。

 まあ、これも個体差なのだろうが……。では、このマウスは、この遺伝子が活発になった結果、脳内で何が起こったのだろうか? とりあえず、免疫関連を調べる限り、特にRウイルス感染に対して影響したような様子はない。

 そこで。

 俺の頭の中には、一つの仮説が――突拍子もない考えが――浮かんでしまっている。

 この個体こそが、例の悪霊を生み出したマウス――死骸袋の中で赤眼を光らせていたマウス――だったのではないか、という想像だ。

 幽霊というものがこの世に本当に存在するのであれば――そして自分で目撃した以上は確実に存在すると言いたいのだが――、誰もが幽霊となるわけではない以上、死後幽霊となる者には生前から特別な素質があったに違いない。そして、その『素質』も、生前の遺伝子に定義されているはずだから……。

 つまり、霊的現象に関与する遺伝子が人間や動物の中に存在する、ということになる。

 もしも、今俺が研究している遺伝子が――組換えウイルスに取り入れた遺伝子が――、免疫に関わるものではなく、霊とかオカルトとか、そういった部分に関わっているのだとしたら……。

 組換えウイルス感染により、それが極端に活発になったマウスから、悪霊が生み出されたとしても不思議ではない。

 ただし、この場合、組換えウイルスの働きで人為的に霊能力が強化されただけだったので、その効力も一時的であり、悪霊も短時間で消えたのではないか……。

 以上が、今回の顛末に関しての、俺の結論である。

 もちろん。

 こうした仮説を、上司ボスに報告できるわけもなく。

 俺の研究は、現在も続けられている。

 この遺伝子を扱う限り、また似たような出来事が起きるかもしれない、と考えれば少し怖くもなる。

 だが、あの時だって、問題を起こしたマウスは一匹だけだ。おそらく極端に活性化された、あの一匹だけだ。そうそう頻繁に発生する現象でもないのだろう。

 もしも、また、あの遺伝子の活性が極端に高くなるような個体が現れたら……。

 遺伝子活性を調べる度に、その結果を見る前に一瞬身構えてしまうのだが。

 さいわい、あれ以来、極端に高い個体は出てきていない。




(「深夜の動物実験 ――ある若手研究者の恐怖体験――」完)

   

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深夜の動物実験 ――ある若手研究者の恐怖体験―― 烏川 ハル @haru_karasugawa

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