後編「まこと」

   

「風が気持ちいいですね!」

「そうだね。いつもは感じなかったけど……。こんな感覚も、マコトが一緒のおかげかも」

 背中からの声に、神支路かみしろ誠一せいいちは振り返ることなく答えた。

 そろそろ梅雨入りだが、今日一日は雨の心配もなさそうだ。空には雲ひとつなく、清々しいくらいに晴れ渡っている。絶好の行楽日和だった。

 誠一は今、川の土手に整備された道を、自転車で南に向かっていた。後ろにマコトを乗せた状態で。

 幽霊のマコトは、半分浮いたように座っているらしく、びっくりするほど軽い。二人乗りとは思えないくらい、誠一は、すいすい自転車を漕いでいた。


 誠一の住む街は山に囲まれた盆地にあり、さらに東西の大きな川に挟まれた範囲を、人々は市内と認識していた。

 大学やアパートのある辺りから自転車で十五分ほど南下すれば、いわゆる繁華街に辿り着く。アミューズメント施設や百貨店、小洒落たお店なども集まっており、週末には人で賑わう場所だ。そんな街中まちなかの商店街で、喫茶店やレストランの間に、目的の楽譜屋はあった。

「さあ、ここだ」

「あら!」

 誠一と共に店に入ったマコトは、驚いたような声を上げた。

 彼女の視線は、入り口近くのギターに向けられている。赤とか白とか、ちょっと派手な感じのギターばかりだ。

「楽譜屋というから、もっと地味なお店かと思いましたが……」

「ああ、一階は、こういう楽器とCDだからね。テレビの音楽番組でも流れるポピュラーなやつばかりで、クラシック系CDは二階。三階では管弦楽器を売っていて、楽譜のフロアは四階」

 説明しながら誠一は、マコトの手を取って、エスカレーターの方へ導く。

 いつも通り少しひんやりとした感触だが、さわれるということは、実体化しているということ。誠一だけではなく、誰の目にも姿が映る状態だ。

 もしも誠一にしか見えない幽霊だったら、彼は周囲から、ずっと独り言を口にしているように思われてしまうだろう。だが、そんな心配は必要ない。誰の目にもデートに見える、仲の良さそうな二人だった。

 並んでエスカレーターに乗りながら、

「マコトが興味あるなら、途中の階に立ち寄っても構わないけど……」

「いえいえ、私のことは気にしないでください。こうして一緒に居られるだけで楽しいですから!」

 マコトは誠一の腕に手を回して、体も近づけてくる。

 こういうのも悪くない、と誠一は思う。

「じゃあ予定通り、四階で楽譜を見て……。その後は、向かいの喫茶店にでも行こうか? あっ、でも、マコトは食べたり飲んだり出来ないのか……」

「それでも行きたいです! 気分だけでも味わえますから。でも私が注文するパフェは、誠一さんが代わりに食べてくださいね」

「ははは……。もうコーヒーじゃなくてパフェを頼むって、決まっているのか」

 エスカレーターの上で、仲睦まじく話す二人。

 家を出る前に聞いた話では、今日の地縛霊マコトは、夜までは外出OKらしい。

 ならば、せっかく繁華街まで来た以上、カラオケやボウリングやビリヤードなど二人で色々と遊ぼう。

 今日のこれからを、そう想像する誠一だった。



 こうして誠一は時々、マコトと色々な場所へ出かけるようになった。

 恋人同士という意識はなかったが、初々しいカップルのようだ。健全なデートそのものだ。

 マコトとの仲を、少しずつ深めながら。

 彼女のサポートを受けて誠一は、趣味である音楽にも力を入れて、充実した大学生活を送り……。



 そして。



 数年の歳月が流れた。

 趣味にかまけて留年もしたが、なんとか大学を卒業した誠一は、一般的な会社就職をせず、プロの音楽団体に所属していた。音楽で生計を立てる道を、歩み始めたのだ。

 しかし残念ながら、まだ彼の実力では、音楽一本では食べていけない。副業バイトも必要な身分だった。

「まさか趣味の音楽を、本業に出来るとは……」

 学生時代から住み続けている部屋へと、バイトから帰宅した誠一。着替えもせずにベッドに倒れこみ、そう呟いた。

 最近の誠一は、バイトで忙しい身の上でありながら、音楽にく時間も作るため、睡眠時間を大幅に削っていた。

 久しぶりに大学時代の友人と会うと、必ず「見るからに痩せたなあ」とか「げっそり」とか言われる有様だ。

 それでも「好きなことを仕事にしている」というだけで、誠一は今の暮らしに満足していた。「まだまだ若いし人生は長いから、今は少しくらい無理しても大丈夫」と自分に言い聞かせていた。

「もしかしたら……」

 誠一は首を横に傾けて、いつにまにか添い寝しているマコトに笑顔を向けた。

「……マコトは、俺にとってのリャナンシーだったのかもな」

「リャナンシー……? 何ですの、それ?」

「ああ、リャナンシーというのは……」

 ヨーロッパの民話か神話に出てくる、愛の妖精だ。芸術家に取り憑いて、芸術方面の才能を高めてくれるという。ただし代償として、芸術家は生命エネルギーを吸い取られるので、長生きは出来ない。いわゆる天才芸術家が早逝するのは、リャナンシーのせいだと言われている。

 それが、誠一の知る『リャナンシー』の説明だった。

「そう、マコトのおかげだ」

 マコトが色々と手助けしてくれたからこそ、自分は音楽の道に進むことが出来た。プロになるほど才能が伸びた。そう誠一は認識していた。

「別に俺は、マコトに寿命を吸われているわけじゃないけどね」

 冗談っぽく笑いながら、誠一は付け加える。

「いや大学を一年留年したのが、それに相当するのかな」

 留年したことで大学卒業が遅くなり、社会に出るのが一年遅れた。人生の中で稼いでいける期間が一年減ったのは、比喩的な意味では『寿命が一年縮んだ』と言えるのではないだろうか。

「でも留年で済むなら、安いものさ」

 誠一としては、完全にジョークのつもりだった。

 しかし。

「あら!」

 マコトは目を丸くして、口に手を当てていた。

「そういうことでしたら……。まさに私は、リャナンシーですね」

「……え?」

 困惑する誠一に、ホホホと笑いながらマコトは続ける。

「だって私は幽霊……。それも、いわゆる悪霊のたぐいですもの」

「おいおい。健気けなげに俺の世話をしてくれる、良妻みたいなマコトだぞ。悪霊のわけないだろう?」

 誠一は、彼女の言葉を笑い飛ばしたが……。

「やだなあ、誠一さん。それは褒め過ぎ。私だって、無償で妻しているわけではなく、しっかり代価は貰っていますわ。あなたの精を吸わせてもらう形で」

 この場合の『精』とは、生殖に関わる精子や受精の意味での『精』ではなく、精気、つまり生命エネルギーのことだろう。

「たくさん一度に吸ったら体に影響が出るから、少しずつ吸うように努めてきましたが……」

 喋りながらマコトは、ペロリと唇を舐めていた。まるで「ごちそうさま」とでも言うかのように。

「でも、こうして姿を見せて、あなたにも私を認識してもらった以上、吸い上げる速さも自然と増してしまったのでしょうね。結果的には、過去最大の精気をもらったみたい。今まで取り憑いてきた誰をも上回るほど大量に……」

 思わず、誠一は、自分の頬に手を伸ばす。彼の頬は、さわった感触でもわかるように、すっかり痩せこけていた。

 マコトは、彼のその手に視線を向けて、言葉を続ける。

「そうですね、そろそろ限界でしょう。ごめんなさい。私も残念です。もっと一緒に過ごしたかったのに……。影響の蓄積が一気に噴き出してきますから……。さようならですわ」

 誠一の頭に浮かんだのは、限界以上に水を溜めたダムが、耐えられなくなり決壊する光景。

「おいおい、そんな恐ろしい冗談……。嘘だと言っておくれよ、マコト」

 彼女の発言を否定したくて、そう言ってしまう。

 しかしマコトは、もう口を閉ざしてしまった。

 ただ、無言で笑みを浮かべるだけ。

 今まで見たことない、ゾッとするほど冷たい笑顔だ。

 これを見れば誠一も、それ以上の言葉は飲み込むしかなかった。

 今マコトが口にしたことは、彼女の名前の通りに、真実まことなのだ。誠一は、そう確信した。

 もうマコトの顔を見ていられず、目を閉じてしまう。すると……。


 誠一に一目惚れした、と言っていたマコト。

 誠一のおかげで霊としての力がアップした、と言っていたマコト。

 当時の彼女の姿が、まるで走馬灯のように脳内を駆け巡る。

 頭の中の彼女は、だんだん外見があやふやに崩れていくが、それを引き止めるかのように、誠一は必死に考える。


 幽霊のマコトの『一目惚れ』とは、どういう意味だったのか。今にして思えば、恋愛感情ではなく「取り憑くのに適した、精気を吸いやすい人間」という意味だったのではないか。

 幽霊であるマコトの力がアップした原因は何だったのか。「取り憑いた誠一から精気を吸って、マコトの力にしていた」と考えれば、辻褄が合うのではないか。

 それに。

 初めてマコトが誠一の部屋に来た時、つまり、まだ彼の前に姿を現さなかった夜。

 翌朝の目覚めが遅れたのも「寝ている間に精気を吸われたから、いくら眠っても疲れが抜けなかった」と考えれば、合理的ではないか。

 また、初めて同じベッドで一緒に横になった時、つまり、姿を見せたマコトと誠一が初めて過ごした夜。

 音楽について一方的に語る誠一に、マコトは「生命力に満ちた輝きに照らされると、幽霊の自分まで生命力を分け与えられた気分になる」と述べていた。『気分』という言葉のせいで比喩的に聞こえていたが、あれこそ「生命力を吸い取る」という意味だったのではないか。


 考えていくうちに、誠一は胸が苦しくなってきた。

 心情的な意味ではなく、心臓近辺が痛くなり、呼吸も辛くなってきたのだ。

 しかし苦しいと同時に、どこか「気持ちいい」という感覚もあった。

 どうしようもなく疲れた時に、自然と眠りに落ちる……。あの瞬間の、あの気持ち良さだ。

 そして。

 この『気持ち良さ』こそが、彼の最後の知覚となった。

 誠一は再び目を開けることなく、眠るように意識を失って、そのまま息を引き取ったのだから。




(完)

   

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嘘から出たマコト ――四月馬鹿の嫁―― 烏川 ハル @haru_karasugawa

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