中編「おかえりなさいと言われる生活」
「クラシック音楽と聞くと、普通ベートーヴェン、モーツァルト、ブラームスあたりを思い浮かべると思う。あるいは、ヘンデルやバッハといったバロック音楽かな? でも俺が好きなのは、それより昔のハインリヒ・シュッツで……」
昨晩からマコトは部屋にいたそうだが、誠一の方では認識していなかったのだから、ある意味、今晩が二人で過ごす初めての夜だ。
誠一のベッドは、大学生の一人暮らしにありがちなパイプベッド。二人で眠るには適していない。それでも仲睦まじい恋人同士ならば、体を重ねて夜の営みに励んだり、身を寄せ合うように抱き合って眠ったりするのかもしれないが、誠一とマコトは、そういう関係ではなかった。
幸いマコトは幽霊であるため、広いスペースを必要としないし、ベッドから落ちる心配もない。いつも通り誠一がベッドで寝ていても、全く邪魔にならないのだ。今だって『添い寝』とはいうものの、マコトは半ば浮いた状態で、ベッドの端くらいのスペースしか占めていなかった。
「……ところで、君は、こういう話を聞いていて面白い?」
途中で言葉を切って、ふと質問する誠一。
ひたすら「うん、うん」と頷くだけのマコトの態度から、彼女がクラシックに興味もなければ知識もないことくらい、誠一にも理解できていた。
「面白いですわ」
マコトは笑顔を崩さぬまま、まるで血の通った人間のような、あたたかい声で答えた。
「よくわからないですけど……。でも楽しそうに喋る誠一さんを見ていると、それだけで私まで幸せになりますから」
「そういうものなのか……?」
「ええ、そうです。人間誰しも、好きなことに夢中になっている時、輝いて見えるでしょう? そんな生命力に満ちた輝きに照らされると、幽霊の私まで『生命力』を分け与えてもらえる気分になりますから」
そう一般論を述べてから、マコトは頑張って、誠一の話についていこうとする。
「誠一さんが挙げた名前の中で、私にわかるのは、モーツァルトくらいですが……」
「ああ、モーツァルトね。交響曲、ミサ、レクイエムが有名かな? 彼のレクイエムは俺も好きだけど、正直、彼の交響曲とかミサとかは、あんまり……。大げさに言えば、どれも同じように聞こえる感じがしてさ」
「ああ、その感覚なら私にもわかります! クラシックに疎い私には、クラシックなんて全て同じに聞こえますから」
「クラシックは眠くなる、なんて言う人もいるよね。今ではモーツァルトもお堅いクラシックのイメージだけど、サークルの先輩に言わせると、当時は歌謡曲とか流行曲みたいな扱いで……」
ついに、受け売りの知識まで披露し始めた誠一。
こうやって話しながら、誠一は思う。一緒のベッドに横たわる美女を相手に、音楽談義が出来るというのも悪くない、と。
降って湧いた幸せを噛み締めながら、誠一は、マコトとの最初の夜を過ごすのだった。
誠一の通う大学は、単科大学ではなく総合大学だ。一学年の人数は多く、学内の敷地もいくつかに分かれているが、入学式は、新入生全員が西部講堂と呼ばれる会館に集まる形で行われる。
この入学式が終わって出てくる新入生たちに、サークル宣伝のビラを配るのが、誠一たちの新歓活動のスタートだった。
そして入学式から数日後、再び新入生たちが一堂に会するイベントがある。本部構内――時計台という目立つ建物のある辺り――で行われる、健康診断だ。
その日、時計台の前では、健康診断のためとは別に複数の仮設テントが設けられている。あらかじめ申請して許可されたサークル、つまり大学公認のお墨付きのサークルが、新歓活動用に大学から割り当てられたテントだった。
学部によって時間帯は違うが、それでも大量の学生が一度に受ける健康診断だ。新入生は、すぐには建物にも入れず、まずは青空の下で長蛇の列。
そこで手持ち無沙汰にしていると、色々なサークルから勧誘のビラを渡される。おそらく「ああ、入学式の日にも配られた……」と思うだろうが、この日は、入学式とは状況が違う。
彼らが並んでいる列は、ゆっくりとしか進まないので、ビラを渡す方でも時間に余裕がある。渡された新入生の反応次第で「君、こういうサークル活動に興味あるかい?」と、話しかけてくる場合があるのだ。
さらに「あそこのテントで、詳しい説明があるから。健康診断の後で、ぜひ立ち寄ってくれ」と、入部してくれそうな学生に目星をつけておき……。健康診断の終わった新入生を順次、仮設テントに呼び込み、飲み物やお菓子で歓迎しながらサークルの紹介。
サークル活動の話だけでなく雑談もする。例えば「
だから誠一のサークルでは、健康診断の日こそが、いわば新入部員獲得のメインとなるのだった。
こうして。
新入生の後輩もサークルに入ってきて、学生の本分としても、いよいよ新年度の授業が始まり……。
誠一は、大学生活の二年目を迎えることとなった。
それも、部屋には美女の同居人がいる、という新鮮な状態で。
「ただいま」
「おかえりなさい。今日は早かったのですね」
新生活が始まって一週間くらいで、誠一も「おかえりなさい」の日々に慣れてきていた。
「うん、今日はサークル活動もないから」
「夕飯の準備、まだなのですが……」
「ああ、慌てなくていいよ。それより……」
今や毎日の食事は、マコトが作るようになっている。最初の日に言われた通り、誠一が料理本を買い与えたら、彼女のレパートリーは一気に広がっていた。
誠一が適当に食材を買って冷蔵庫に放り込んでおけば、マコトが素晴らしい料理に変えてくれる。まるで錬金術のように思えるくらいだった。
「……何か適当に、音楽をかけてほしいな」
「はい、では……。今日は、これ」
誠一の言葉に応じて、マコトがCDを一枚選んで、プレイヤーにセットする。
自分で聴きたい曲を選ぶのではなく、マコトに選曲させるのが、最近の誠一のお気に入りとなっていた。
「ブラームスか……」
スピーカーから流れてきたのは、ブラームスの交響曲だ。
以前に誠一は「好きな作曲家はハインリヒ・シュッツ」と語ったが、CDを持っているくらいだから、ブラームスも嫌いではない。むしろ好きな方だ。演奏しても楽しくないけど、聴く分には悪くない。それが誠一にとってのブラームスだった。
誠一の感覚としては、逆に「聴いていても退屈だが演奏してみると面白い作曲家」というのも存在する。そんな中、誠一がシュッツを「好きな作曲家」として挙げるのは、演奏する側でも聴く側でも一番と感じて、心の底からワクワクするからだった。
「じゃあ、夕飯の支度に取り掛かりますね」
と言って料理を始めるマコトに、誠一は視線を向ける。
こうして見ると、甲斐甲斐しく夫の世話をする若奥様のようだ。
地縛霊のマコトは、このアパートから出られない。だから余計に、部屋の中では頑張ってしまうのだろう。
「もしも、マコトが外出できるなら……」
ふと、誠一は考えてしまう。
遠出のデートは無理としても、近所を散歩するだけでもいい。マコトのような美人が一緒なら、ただ並んで歩くだけでも、幸せな時間になるだろう。
最も望ましいのは、音楽の練習に付き合ってもらうこと。一人で個人練習をする際に、マコトが同行してくれたら……。隣で黙ってニコニコと演奏を聴いてくれる彼女の姿を、誠一は妄想してしまった。
誠一が通う大学は、大学院の研究室もあるせいか、夜中でも人の出入りが結構ある。色々と厳しくなった現代でも、まだセキュリティが
夜になると、そうした校舎の空き教室や廊下の片隅、階段の踊り場などで、音楽系や演劇系のサークルの者が、勝手に練習をしている。大学院の研究室の近くで騒音を立てれば怒られるので、使うのは研究室から離れた一階と二階のみ、という不文律もあった。
誠一も、時々、そうやって一人で練習をすることがあるのだが……。
「あら、私が外出ですか?」
食材を鍋に入れて、火にかけたところで、マコトが振り返る。誠一の呟きが、耳に入ったらしい。
「ああ、ごめん、ごめん。地縛霊のマコトには、無理な話だよなあ」
誠一は、照れたような顔で、軽く頭をかいた。無茶な要求をしているようで、少し恥ずかしい。
「それでしたら……」
マコトは、サッと手を洗った後、頬に指を当てて小首を
「……今は無理でも、いずれは出来るようになるかも」
誠一に対して、意味ありげな笑顔を見せるのだった。
それから二ヶ月ほど過ぎた、ある日のこと。
「ただいま」
「誠一さん!」
帰宅した誠一は、ガバッと抱きつかれた。いつもの「おかえりなさい」とは少し違う形で、マコトに迎えられたのだ。
人の温もりとは異なる、ひんやりした幽霊独特の感触。だが肉体的な凹凸は、生きている人間と同じ。つまり女性の曲線美が、ダイレクトに体に伝わってくる。
しかも幽霊とはいえ、マコトは美人だ。美人に抱きつかれることも、こんなに近くでその顔を眺めることも、誠一には初めての経験だった。それこそ夜の添い寝よりも、まだ距離が近いのだ。
「……え? ……え?」
ドキマギしてしまう誠一に対して、マコトは、弾んだ声で告げる。
「今週末、デートしましょう!」
「デート……? でもマコトは、このアパートの外には……」
「大丈夫です!」
誠一と密着したまま、胸を張って断言するマコト。
この状態で『胸を張る』というのは、むしろ『胸を当てている』に等しい。そう思ってしまう誠一に対して、マコトは説明を続けていた。
「誠一さんと過ごすうちに……。誠一さんのおかげで、幽霊としての力も増してきましたから! そろそろ、ある程度の時間ならば、ここを離れることも可能です!」
マコトの胸の感触が気になって、誠一の思考力は今、低下している。冷静に考えられない。それでも一応「マコトが外出可能になった」ということだけは理解できた。
「デート……? 嬉しいけど、女の子とのデートプランとか、俺には考えられないし……。それに、週末は、楽譜屋に行こうと思っていて……」
誠一だって、マコトとのデートを夢見ていたはず。それなのに、つい否定的な言葉が、口から飛び出してしまった。
半ば現実逃避的に、誠一は、小学生の頃の出来事を思い出していた。
バレンタインデーが近づいた、ある日のこと。義理チョコすら貰えない幼い誠一は、今年もたくさん貰えそうな友人を、羨望の
「バレンタインデーなんか来なければいいのに……」
彼の言葉を聞き止めて、隣の席の女子が提案する。
「私がチョコあげようか? 隣に座った
明るく優しく、ルックスも悪くないから、クラスでは人気者の部類な彼女。そんな女の子からのチョコレートは、これ以上ないほどの幸運だが、
「えっ? いいよ、わざわざ!」
「遠慮することないのに。せっかくだから……」
「いや、いいって! 本当に!」
誠一は、はっきりと断ってしまった。気恥ずかしさとか照れとか、そんな理由で。
だが後に「あんないい子からのチョコを断るなんて、何を考えてるんだ?」「あの子、泣いてたぞ」と周りから責められて、かえって恥ずかしい思いをすることになるのだった。
妄想していたことが現実になろうとする時、テンパってしまって現実を受け入れられない。むしろ妄想は妄想のままの方がいいと思ってしまう。
自分は、そんな子供だったのだろう。
子供時代を微笑ましく振り返る誠一だったが、大人になった今でも、基本傾向は変わっていないらしい。
それでも。
「デートプランですって? 誠一さん、難しく考え過ぎですよ。それとも、私の『デート』という言葉が、大げさだったのかしら?」
マコトは誠一の拒絶を押しのけて、ぐいぐい迫ってくる。
「ただ私は、誠一さんと一緒にお出かけしたいだけ! 楽譜を買いに行く予定なら、その買い物にご一緒させてください!」
「いや買いに行くというより、ちょっと楽譜屋へ見に行く程度かな。買うかどうかは、まだ決めていない……」
「ああ、ウィンドウショッピングですね! ある意味、デートっぽいじゃありませんか!」
こうして。
週末の楽譜屋デートが決まったのだった。
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