嘘から出たマコト ――四月馬鹿の嫁――
烏川 ハル
前編「エイプリルフール」
四月一日。
「完全に遅刻だ!」
この春から大学生活も二年目に突入する
もちろん、まだ春休み期間であり、講義は始まっていない。行き先は、彼が所属するサークルの
大学のサークルと聞くと、人々の頭に真っ先に浮かぶのは、活動内容が曖昧なイベント系サークルや名前だけのテニスサークルかもしれない。だが誠一のサークルは、そんなおちゃらけたサークルではなかった。
いわゆる音楽系であり、その中でも軽音やバンドなどではなく、クラシック音楽のサークルだ。陽気な若者のイメージとは対極の、クラシックおたくの集まる同好会だった。
そんなサークルでも、他のメジャーなサークル同様に、春には部員募集の新歓活動を行う。年二回の演奏会もあるから、ある程度の人数がサークル運営に必要なのだ。
そして春休みの今は、新歓準備に忙しい時期であり、今日は
「ごめん、遅れた!」
詫びの言葉を口にしながら、誠一が
「遅いぞ、神支路! 時間厳守って言っておいただろ!」
友人の
この飯田も誠一も、大学に入るまでは、特にクラシック音楽に興味があったわけではない。なんとなく勧誘されて入部しただけだったが、すっかり今では、その魅力にとりつかれていた。
「どうせ寝坊だろう? あれほど注意しておいたのに……」
確かに、遅刻の理由は単なる朝寝坊だ。
夜中に何度か、
だが正直に述べたところで、言い訳にしかならない。誠一は、ぐちぐちと続く友人の言葉を聞くうちに、ちょっとした冗談を思いついた。
「ごめん、ごめん。でも、仕方なかったんだ。言ってなかったけど、実は俺、昨日から同棲生活を始めて……。それで、今朝はバタバタとしちゃってさ」
「……えっ、同棲? 女っ気のない神支路に、いつのまに恋人が……?」
飯田は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔になる。目をパチパチさせているのは、それで頭を切り替えようと努めているのかもしれない。
「いや、おめでとう。お前にも春が来たなら、素直に祝福するぞ。そんな時に、わざわざ来てくれて……」
「おい、騙されるよな、飯田」
近くで作業をしていた別の友人が、見かねて声をかけてきた。
「飯田だって、
そう、今日は
誠一は、そう考えていたのだが……。
「
聞き返した飯田は、一瞬遅れて、ようやく理解したらしい。
「ふざけるなっ!」
彼は、烈火のごとく怒り出す。
誠一としては冗談で
夕方。
アパートの三階に住んでいるのだが、そのアパートが見えてきたところで、ちょっとした異変に気が付く。
「あれ? 俺、電気消すの忘れたか?」
誠一の部屋の窓から、明かりが漏れているのだ。
それこそ飯田への冗談にあった同棲生活が事実ならば、部屋の電気がついているのは、不思議でもなんでもない。同棲相手が先に帰っている、ということだ。
しかし誠一は、一人暮らしの大学生。同居人などいない。
「まさか、泥棒? いや泥棒なら、電気なんて消したまま、盗みを行うはず……」
とりあえず、急いで階段を駆け
すると。
部屋に入ってすぐのところで。
「おかえりなさい」
一人の女性が、三つ指ついて正座したまま、誠一の帰宅を待っていた。
「た、ただいま……」
反射的に返してしまう誠一。
この部屋で暮らすようになってから「ただいま」という言葉を口にするのは、これが初めて。だが、そんなことに思いを馳せている場合ではなかった。
「君は……。誰?」
尋ねながら誠一は、相手をよく観察する。
年齢は誠一と同じくらい、つまり
長い黒髪の目立つ、色白の女。これ以上の白さだと「青白い」とか「病弱そう」とか言われそうだが、そうならない程度のギリギリを保っていた。
くっきりとした瞳と、おちょぼ口が特徴的な、整った顔立ち。地味で大人しめな服装と合わせると、清楚系美人ということになるのだろうか。
座っているからわかりにくいが、体格は中肉中背のようだ。どちらかといえば巨乳の方が好みの誠一だが、この女性に限っては、大きいとは言えない胸の膨らみ具合が「全体のイメージに似合っていて結構」と思えてしまう。
彼女は、ニッコリと笑顔を浮かべて、誠一の問いに答える。
「マコトです」
「いやいや、名前を言われても……」
それでは、何も状況が理解できない。
留守の間に入ってきたということは、不法侵入ということになるが……。
誠一が考えていると、マコトと名乗った女性が説明を続ける。
「今日から、こちらの部屋に、お世話になることになりました。どうぞ、よろしくお願いします」
え? どういう意味だ? やっぱり意味不明だぞ?
誠一の頭の中で、
まさか、実は秘密の
漫画やアニメのような妄想をしながら、あらためて誠一が尋ねる。
「もう一度、聞く。君は何者? どういう立場で、俺の部屋に……?」
「申し遅れました。私は地縛霊です。あなたに取り憑きに来たと言えば、わかってもらえるでしょうか」
マコトは満面の笑みで、そう答えた。
マコトの説明によると。
今まで彼女は、誠一の
「卒業しても三月末まで、大学の近くに住んでいたのか……」
妙なところが気になって、誠一が口を挟むと、
「理系、それも理論系ではなく実験系だったので、色々と忙しかったようですね。研究の引き継ぎで、ギリギリまで、こちらに残ることになったとか」
マコトは、律儀に答えを返してくる。
「別に、美女幽霊との生活が楽しくて長居した、ってわけじゃないよな?」
「あら、やだ。美女幽霊だなんて……」
誠一に褒められたと思ったらしい。マコトは、まんざらでもない顔をする。
「でも、違いますわ。だって私、二階のその人には、姿を見せませんでしたもの」
二階の部屋でも彼女は、その学生に取り憑いていた。だが、あくまでも姿は隠したまま、こっそりと憑いていたのだという。
「じゃあ、なぜ俺の前に現れた? 俺にも『こっそり』でいいだろうに」
つい、そう言ってしまう誠一。
幽霊の存在など知りたくなかったという気持ちもあるが、秘密裏に取り憑かれて体調が悪化でもしたら、それはそれで困る。どちらが良いのか、複雑な心境だった。
「それは……。そうですね、その理由を説明するためにも、話を続けましょう」
中断していた説明を再開するマコト。
誰もいなくなった部屋で、彼女は最初、新しい入居者を待つつもりだった。だが、ふと「他の部屋へ行くのはどうだろう?」と思い立った。地縛霊とはいえ、マコトは部屋に縛られているわけではなく、このアパートの土地に結び付けられた幽霊。だから、アパート内を動き回る程度の自由はあるのだ。
そして、たまたま最初に
「昨晩?」
「そうです。実は私、昨日の夜から、ここにいたのですよ」
「ああ、それで……。昨晩の
ため息をつきながらも、妙に納得してしまう誠一。
ある意味、すでに昨日から『同棲』していたことになるのかもしれない。
「まあ! 私の存在、誠一さんは感知していたのですね! さすが誠一さん、どうやら相性もいいみたい……」
誠一とは対照的に、マコトは、無邪気に喜んでいる。
「満足そうな君に、こんなこと言いたくないけど……。悪いが、出ていってくれないか? このアパートの中は自由に行き来できるなら、何も俺の部屋じゃなくてもいいだろう。他の部屋の誰かに取り憑いてくれ」
幽霊であっても外見が美人なだけに、男である誠一は、あまり強く「出て行け!」とも言えない。やんわりと退去を要求したのだが……。
「そうはいきません」
マコトは、きっぱりと首を横に振った。
「昨晩、この部屋に来た私は……。あなたに一目惚れしたのです。だからこそ、こうして目に見える形で、姿を現したのです」
誠一は、ドキッとしてしまう。
同世代の美人から『一目惚れ』なんて言葉をかけられたら、男は誰でも、そういう反応になるだろう。ましてや誠一は、こんなこと言われたのは、生まれて初めてなのだ。
ただし。
「いくら美人でも……。幽霊では意味がない……」
舞い上がる内心とは裏腹に、口では冷静に、失望の意を示した。
これを聞きつけたマコトは、頬に指を当てて、小首を
「あら、そうでしょうか。幽霊だって、色々と出来ますわよ」
期待を持たせるかのような、小悪魔っぽい表情を浮かべるマコト。
「……ん? 色々と?」
「はい。お世話になる以上、それ相応の対価も必要でしょうから……。とりあえず、夕食を用意しておきました」
言われて誠一は、今さらのように思い出す。
いきなりの幽霊登場で忘れていたが、部屋に入った途端、美味しそうな匂いがしていたのだ。てっきり気のせいかと思ったのだが……。
「君、料理できるの?」
「はい。頑張れば、物に
そう言って、マコトは胸を張る。
むしろ巨乳よりも控えめな胸の方が、胸を張った時に強調される度合いが――普段とのギャップが――大きいから、このような『胸を張る』という仕草は魅力的に見える……。誠一は、どうでもいいことを考えてしまった。
「でも味見は無理なので、レシピ通りにしか作れませんが……」
その『レシピ通り』が出来ない人間が、世間には大勢いるのだ。気を落とす必要はないだろう。
いや、そもそも。
「この部屋に、料理の本なんてあったっけ……」
少し顔をしかめながら、誠一が呟くと、
「はい。ですから今日の料理は、あまり自信ありませんが……」
マコトは「失敗しちゃった!」という顔で、ペロッと舌を出してみせる。
「ぜひ明日、料理のレシピがたくさん書かれた本を、買ってきてくださいね」
新婚ほやほやの若奥様のように、マコトは甘えた声で、おねだりするのだった。
「まあ、誰に作られたにせよ、出来上がった料理に罪はない……」
「そうです! さあ座って、座って!」
誠一の呟きを聞いて、マコトは嬉しそうに彼の手を引き、テーブルへと案内する。
彼女の手に
「ぜひ、ご賞味ください」
テーブルの上には、マコトの手料理が並べられていた。
炊きたてのご飯に、美しい赤色が食欲をそそる麻婆豆腐。湯気の立つ温かい味噌汁と、芸術的なほどに細く切られたキャベツの千切り。
品数は少ないが、一応は『麻婆豆腐定食』ということになるのだろう。
「じゃあ、せっかくだから……。いただきます!」
先ほどの「今日の料理は、あまり自信ない」発言が頭にちらつきながらも、誠一は意を決して、料理に箸をつける。
すると。
「おおっ? これは……」
「どうでしょう? お口に合いますでしょうか……」
口に運ぶ前の心配は杞憂だった。
悪くない。
いや、それどころか……。
「うん。美味しいよ、これ!」
「まあ! それは良かった!」
パッと明るくなるマコトの顔を見ながら、誠一は、料理をガツガツと胃袋に収めていく。
特別美味でもなく、基本的には、いつも自分で作るのと同じ味だ。慣れ親しんだ味とでも表現するべきか。
だが、これは誠一ではなく、マコトが作った品々なのだ。
自分に一目惚れしたという美人の手料理。それだけで誠一は、これを美味しいと感じてしまう。
「これなら、いくらでも食べられるよ」
しかし、冷静に考えるならば。
味噌汁は、お湯を注ぐだけの完全インスタント。麻婆豆腐だって、豆腐を加えて火を通せば完成するレトルト食品だ。書いてある通りに作れるならば、失敗することはないし、逆に、特別美味になるわけもない。
そもそも、冷蔵庫と台所の食材だけで作る以上、この程度しか用意できないのは当然だろう。男の一人暮らしで、ふんだんに食材がストックされているはずもないのだ。
同じレトルトの麻婆豆腐でも、誠一が自分で作る場合は、指定の調理法に従うのではなく、いつも玉ねぎを加えるのだが……。
たまには、こういうシンプルなのも悪くない。
そう結論づけた誠一は、自分を納得させる意味も込めて、あらためてマコトの料理を高評価する。
「そうだ。やっぱり『誰かのために作る』というのが大事みたいだ。こればっかりは、俺一人じゃ無理だな。愛情こそ、最高の味をもたらすスパイスになるのだろう」
恥ずかしい台詞を口にした誠一に対して、
「そこまで言われると、ちょっと照れてしまいますわ」
マコトは、幽霊なのに少し頬を染めて、美人に似つかわしく、しなを作るのだった。
「ああ、食った、食った。満腹、満腹」
足を投げ出して腹をさすりながら、満足そうな誠一。料理をぺろりと平らげてしまい、ご飯だって何杯もお代わりしたくらいだった。
そんな彼を、幸せそうに眺めるマコト。
彼女と目が合って、誠一は、ふと呟く。
「そういえば……。俺、幽霊の君が作ったもの食べちゃったけど、大丈夫だよな? ヨモツヘグイとか、そういうのないよな?」
死者の国の食べ物を口にしたため死者の国から出られなくなる、というエピソード。確か、古事記に書かれていた話だ。ギリシャ神話でも、似たような逸話があるという。
そう言い出した誠一に対して、
「ヨモツヘグイ? 何ですの、それ?」
マコトは、きょとんとした表情を向けている。
「……そうだよな。インスタントをあれだけ美味しくしてしまうマコトに、そんな悪意なんてあるわけないよな」
疑って悪かった、と誠一は思う。
そもそも、いくら幽霊の手料理とはいえ、材料自体は誠一の部屋にあったものだ。だから『ヨモツヘグイ』の例が当てはまるはずもない。
「ごめん、ごめん。今の話は忘れてくれ」
「よくわからないけど、誠一さんが言うのでしたら……」
マコトの態度は、おしとやかな良妻のようにも思える。
そんな彼女を見て、誠一は「別に慌てて追い出す必要もないか」と、考えを改めるのだった。
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