盗むだけが × 仕事じゃない②

「それで、そのバーに行かれたんですか?」

 ディレクターがコーヒーを啜りながら、烏遊うゆうに尋ねる。

「えぇ、とりあえず行ってみることにしたんです。そうしたら……」


    ×  ×  ×  ×  ×


 ワタリという名の青年に会った三日後の夜。烏遊は言われたとおりに「Bar CROW」を訪れた。都会の片隅にあるそのバーはこじんまりとしていて、スタンダードなジャズナンバーが流れる落ち着いた店だった。ワタリの姿はまだなかったので、烏遊はとりあえずカウンターに腰を下ろし、ビールを注文した。


 店に入ったのは八時前だったが、九時を回ってもワタリは来なかった。そもそも「夜」としか言われておらず、明確な時間を指定されていなかった。


 ――いたずらか、もしくは約束など忘れてしまったのかもしれない。


 烏遊は改めて店内を見回した。カウンターには、ほかに若い女性が一人。テーブル席にカップルが二組。マイルス・デイビスの演奏する「So What」が、料理の脇に添えられたレモンみたいに、それぞれの世界に異なったアクセントを加えていた。


 時計の針が十時に近づき、ほどよく酔いが回ってきたころ、マスターがウィスキーのグラスを烏遊の前に置いた。問いかける視線にマスターが言う。

「こちらのお客様からです」

「こちら?」

 烏遊の左隣のスツールに女性が音もなく座ったところだった。名前の知らない甘い香りが鼻をくすぐる。

「あなたが噂の書道家さん?」

 黒のワンピースを着たその女性は、赤ワインのグラスを手に妖艶な笑みを向けた。先ほどまでカウンターの奥に一人でいた女性であることに、烏遊ははたと気がついた。

「あなたは?」

「私の名前はホシ。夜空に輝く星のホシ」

「ホシさん……? ワタリさんのお知り合いですか?」

「ワタリは私の上司よ」

「上司?」

 あの青年にとても「上司」の雰囲気はなかった。隣のホシは見たところ烏遊と同じ三十歳前後。おそらくワタリのほうが歳は下に違いなかった。

「ワタリさんは?」

「今日は来ないわ。今ごろ次の仕事の準備をしてるはずだから」

「仕事というのは?」

「とりあえず乾杯しましょう」

 そう言うとホシは自分のグラスを差し出した。烏遊は言われるがままにグラスを合わせる。

「未来の大書道家さんに」


 それからというもの、烏遊がいまの状況を理解しようと質問を投げかけても、その度にホシにひらりひらりとかわされ続け、気がつけばグラスの数だけが増えていった。徐々に酔いの度合いが深くなっていく。やがて日付が変わるころになって、ホシが言った。

「ねぇ、場所を変えましょうよ」

「場所? 変えるって、ひっ、どこに?」

 決して酒に弱くはない烏遊もさすがに呂律が怪しくなってきた。ホシが、ふふっと微笑むと、烏遊の耳に唇を寄せた。

「決まってるじゃない。落ち着いて筆を下ろせるところよ」

 ホシは腕を絡ませると、烏遊の顔が火照るのも待たずに、そのまま半ば強引に歩き出す。

「ちょ、ちょっと、お会計は?」

「本当に真面目ね。いいのよ、お金なんて。出世払いでたんまり頂くから」


    ×  ×  ×  ×  ×


 ディレクターはにやけ顔を隠そうともせずに、飲み干したコーヒーカップを置いた。

「ちょっと、烏遊さん。その話、本当に名前の由来と関係あるんですか? 武勇伝かただの下ネタになる予感しかしないですけど」

「いやいや、そうじゃないんです。私もかなり酔っ払っていたので、今までその後のことはまったく覚えてなかったんですが、話しているうちに記憶が蘇ってきました。残念ながらご期待に応えられるような展開ではなく、あれは……あれは何だったんでしょうか」


    ×  ×  ×  ×  ×


 ホシに連れられ烏遊がやってきたのは、何の変哲もないビジネスホテルの一室だった。正確に言うと、ホテルに変哲はなかったが、その部屋にはかなりの変哲があった。スペースのほとんどを占拠しているクイーンサイズのベッドの上には青いビニールシートが敷かれており、その中央に縦長の巨大な半紙が置かれていた。脇にはすずりや墨、筆に文鎮といった書道に必要な道具が一通り揃っていた。

「これは……?」

「好きなだけ、好きなように書いてちょうだい」

「書くって、何を?」

「だから、何でもいいのよ。『くそったれ!』でも『平和を我らに!』でも。絵でもいいわ」

 そこで烏遊はあることに気がつき、筆を手に取った。

「この筆……」

「そうよ。ここにあるものはブルーシート以外、全部あなたもの」

 言われて見れば、硯も墨も文鎮も、おそらく半紙も、すべて烏遊の家にあるはずのものだった。

「ど、どうして?」

「細かいことは気にしないくていいから、飲み直しましょう」

 見ればホシは、開けたばかりのボトルからウィスキーを注いでいた。グラスの片割れを烏遊に渡す。


 初めはいつものように作法を守り、整然とした字を書こうと努めた。しかし、如何せんベッドの上なのでひどく書きにくいうえに、酔いのせいで眼前がぐるぐると回っている。うまくいかない苛立ちから、知らず知らずのうちに酒が進む。酔いと苛立ちでさらに字が乱れる。負の連鎖だった。

 ある時を境に、烏遊はこんな状況でもお手本のような書を書こうとしていることが馬鹿馬鹿しくなった。それからのことは、断片的な記憶しかない。その断片も大まかに言えば二種類しかなかった。酒を飲む。筆を薙ぎ払う。また、酒を煽る。筆を取る。烏遊の書いた文字は大いに歪み、大胆にはみ出し、暴れに暴れた。

 気がつけばボトルは空になり、カーテンの向こうはうっすらと白んでいた。烏遊はどさっとブルーシートの上に倒れこんだ。



 ホシは最後の書にドライヤーの風を当て終えると、ふぅっとため息を吐いた。

「しかしまぁ、よくもこれだけ書いたものね」

 百枚用意した半紙はほとんど残っていなかった。烏遊はおそらく覚えていないが、途中ホシは声をかけることも、酒を差し出すこともなかった。興が乗った時の烏遊は、他を寄せつけない迫力があった。一心不乱に筆を走らせる姿は狂気じみてすらいた。


『彼は、「遊び」を覚えればきっと偉大な書道家になります。そうすれば彼の作品の価値は格段に上がる。ターゲットの価値を上げることも、我々の仕事の一つですよ』


 ホシは半紙の束を抱えると部屋を出ようとした。ふと、わずかにウィスキーの残ったグラスが目に留まる。寝息を立てる烏遊にそれを掲げた。


「カラスと遊んでくれてありがとう……烏遊さん」


    ×  ×  ×  ×  ×


「しかし、本当なんですか? さっきの話」

 駅までの道を歩きながら、ディレクターが呆れたように言った。

「やっぱり信じられないですよね?」

「その謎の女性が、烏遊さんを酔わせて、書を書かせて、勝手にそれを私のところに送ったと?」

「私のかすかな記憶を繫ぎあわせて、推察するとそうなります」

「それにしてもねぇ。いったい何のために?」

「……さぁ」


 駅でディレクターと別れ、夕暮れ時の道をのんびりと歩いた。途中スーパーにより日用品を買う。久々に蘇った記憶は、烏遊をあの夜のように翻弄していた。


 ――あれはいったい何だったんだろうか。


 マンションに着く。自宅の鍵を開けようとして、異変に気がついた。鍵が開いている。かけ忘れた可能性もあったが、そうではないという嫌な予感が烏遊の心を襲った。恐る恐る足を踏み入れる。玄関に一番近い部屋を覗いたところで、烏遊の手からスーパーの袋がどさりと落ちた。


 部屋を埋め尽くしているはずの作品の数々がなくなっていた。烏遊を名乗るようになってから書いたものだけでも数百。それ以前のものを含めれば数千に上るはずだった。作品を書くのに十分なだけのスペースを残して、所狭しと置いてあったそれらの作品が、一つ残らず消えていた。


 いや、それは正確ではない。たった一つ残っていたからだ。がらんどうとした部屋の窓に一枚の書だけが掛けられ、オレンジ色の夕日を背後から浴びて輝いていた。烏遊は思わずその文字を読みあげた。


「怪盗カラス……参上……」






『盗むだけが × 仕事じゃない』 <了>

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