エルダーフラワーに思い遣りを

花岡 柊

エルダーフラワーに思い遣りを

 ここは、とある場所にあるとあるカフェであるが、今時のとは違い若干の古風さを醸し出している。強いて言うなら、カフェというよりも喫茶店といった方が解り易いかもしれない。

 ほんのちょっとの不思議を抱えているこのカフェは、木目の造りを基調とした、落着いた店構えをしていた。表に面した出窓は軽く開けられ、静かに揺れるカーテンが窺える。柔らかなリネン素材のカーテンは、ふわりと風を受け、店内の様子を時折ちらりと見せてくれていた。

 店の前には、どういうわけか四季折々の花々が植えられ花を咲かせていた。

 春に咲くチューリップやハルジオン。

 夏に咲く桔梗やひまわり。

 秋に咲くリンドウと秋桜。

 そして、冬に咲く水仙と椿。

 どうして四季の花々が同時に咲いているのかを、誰も訊ねたりはしない。それは、このカフェだからなせることなのだと、訪れた人は一様に思うからだ。

 少し重そうに見えるドアには、イチゴの蔓に似た葉をモチーフにしたドアノブが付いている。その取っ手を握り締めて店内に踏み込めば、心地よく酔いしれてしまいそうな馨しいコーヒーの香りに包まれる。


 夫と喧嘩をして飛び出してきたのは、つい先ほどのことだった。ここのところ続いていた小さな諍いは互いにストレスとなり、今日という日に爆発してしまった。夫に怒りをぶつけ家を飛び出したのはいいが、行く当てがない。飛び出した際に持っていたのはポケットに入っていたスマホだけだった。

 バッグくらい手にして出てくればよかった。あの中には財布や電子カードも入っているし、家の鍵だって……。お金がなければ、どこに行けるわけもない。

 肩を落としとぼとぼと歩いていると、どこからともなくコーヒーのいい香りがしてきた。

 俯いてばかりいたからだろうか、顔を上げてみると目の前には見覚えのないカフェがあった。

「こんなところに……。前からあったかしら?」

 店内をのぞき込むように窓から中を窺ってみたけれど、よく見えない。そもそも、お金も持っていないのに、コーヒーを飲めるわけもない。また肩を落とし店の前を通り過ぎようとすると、カフェのドアが優しいカウベルの音と共に開いた。

「おや。いらっしゃい」

 白いシャツをパリッと着こなし、カフェエプロンを素敵に締めた女性に声かけられた。

「あっ、えっと、私……」

 お金がないんです。という言葉は、羞恥心のせいもあって喉元で詰まる。そんな私に構うことなく、長い髪の毛をクルリと器用に一つに纏めた女性がドアを大きく広げて、カフェの中へと促した。その仕種はあまりに自然で、お金を持っていないことなど頭の中からすっかり抜け落ち、案内されたカウンター席へと腰掛けた。

「コーヒーという気分では、なさそうだね」

 カウンターの中に入った女性は、私の顔をまじまじと見る。

「エルダーフラワーって、知ってるかい?」

 それって、確かハーブ。

「いいのが入ったんだ。お試しに飲んでいってよ」

 言葉を差し挟む余地を与えず、女性はテキパキとハーブティーの準備をする。透明なティーポットに茶葉を入れてお湯を注ぐと、甘いマスカットのような香りが漂ってきた。

「いい香り」

 ハーブティーの香りをかいでいたら、さっきまで夫と喧嘩して棘のようにギザギザしていた心が徐々に落ち着いてきた。

「飲んでごらん」

 促されるままカップに注がれた温かいハーブティーを口にすると、固まっていた身も心もほぐれていき、心の中にため込んでいた思いが自然と口から漏れ出てきた。

「夫と喧嘩しちゃって。最近、小さなことで言い合いになることが増えて。些細なことなんですけどね。仕事疲れのせいか心に余裕がなくて、ついキツイ言葉で言い返しちゃって」

 俯き加減でカウンターテーブルに零し、また一口飲んだ。

「ほんのり甘くて、落ち着きますね」

 そうだろう。と言うように、女性は一つ頷き穏やかな笑みをこぼす。

「時子さん」

 女性の名前など知らないはずなのに、どうしてか私の口からはスルリと彼女の名前が出てきた。

「今日、結婚して三周年だったんです」

「結婚記念日かい。それはめでたいねぇ」

「そうなんですけどね……。彼、その事をすっかり忘れていたみたいで。何の日か訊ねたら、面倒臭そうな顔されちゃって」

 あの時の夫の顔を思い出すと、頭の芯まで熱くなり、悔しくて怒りに震えてきそうだ。

 一か月も前から、今日という日の為に準備を進めていた。残業が多くなっていたのは、記念日に定時で上がる為に業務を前倒しで頑張ったからだった。ケーキだって予約していたし、ワインやチーズも準備していた。高級なお店を予約するのは今の暮らしを考えれば難しいからと、せめて豪勢な手料理も準備しようと思っていたのに。

「面倒臭そうな顔をした後は、私に背を向けて無言ですよ……。あまりの酷い態度に頭にきて、なにも手に持たずに家を飛び出してきちゃったんです」

 自分の行動が短絡的なことは解っている。でも、三周年という節目だったから、余計に苛立ってしまった。カウンター越しの時子さんは、眉根を下げている。

「そんなことがあったのかい。それは、悲しい思いをしたね。ただ、それは向こうも一緒のようだよ」

「え?」

 疑問を浮かべ時子さんを見ると、彼女はカップの水面へ視線を移した。誘導されるように、黄金に輝く甘い香りのハーブティーへ視線を移すと、そこには夫の背中が映っていた。それはついさっき、面倒臭そうに私へ背を向けた場面だった。

 水面に映る夫の姿に驚きながらも、私はそこから目が離せない。


「酷いよっ。直哉のバカッ!」

 叫ぶ私に驚いた直哉が、慌てて振り返る。そんな彼がビジネスバッグから取り出そうとしていたのは、ブルーの小箱にゴールドのリボンがかかった包みだった。

「ヤバイッ。演技が迫真過ぎた。加奈っ。かなっ!」

 小箱を握りしめた彼が、玄関を飛び出そうとしてUターンする。何をするのかと思ったら、丁寧に財布とスマホと鍵を手にした。

 変なところが冷静なんだから。

 直哉は、昔からそうだ。何か突発的なことが起こっても、一旦冷静になる術を身につけている。喧嘩になっても、先に謝ってくれるのは彼からだ。その際も、事の次第を順序立てて考え、自分の気持ち、私の気持ちを考慮し、こうしたらいいと思うと提案をしてきてくれた。すぐに感情的になってしまう私は、不貞腐れたまま彼の提案を聞き、一日経ってから渋々というように受け入れるんだ。

 玄関を飛び出した彼は、既に姿の見えなくなった私を探すために、あちこちと駆けずり回っている。

 彼が初めに向かったのは、近所の公園だ。新婚当初、お弁当を持ってベンチで食べたり、近所のコンビニで買ったコーヒーを飲んでゆったりとした時間を過ごした場所だ。

 遊んでいた子供たちがいなくなったのを見計らってブランコに乗ったら、彼気持ち悪くなっちゃったのよね。子供の時は、平気だったのになぁ、なんて苦笑いしてたっけ。

 次に彼が向かったのは、早起きして一緒にモーニングを食べた純喫茶だ。マスターがホテルマンみたいにスマートな対応をしてくれて、しばらく通い詰めたのよね。彼がよく頼んだのは、小倉トーストだったな。甘そうだねって言ったら、私のハニートーストだって充分甘いと笑われた。そして、苦いコーヒーが合うんだよねぇって、声をそろえるんだ。笑うとにっと垂れ下がる彼の目には、こっちもつられて笑顔になった。

 次に彼が走って向かったのは、初めて出会った土手沿いの遊歩道だ。

 桜が散った後の遊歩道は静かなもので、コーヒーを飲みながら一人川面を眺めていたら、突然ハーモニカの音が聴こえてきたんだ。何のメロディーを奏でているのか聴き取ろうとしたのだけれど、あまりに何度もつっかえるものだから、何の曲なのかさっぱりわからなかったっけ。

 その演奏が延々と続くものだから、落ち着かないし、曲がなんなのか気になるしで、思わず声をかけてしまったんだ。

「何の曲ですか?」

 突然かけられた声に、彼はビクリとして私を見てから照れくさそうに「雨に歌えばです」とボソリ応えた。訊くと、友人の結婚式で吹くことになったのだけれど、難しくてなかなか上達しないのだとか。何人かで一緒に吹くことになっているのだけれど、自分だけ成長しないから、ここで自主練をしていたらしい。

 その日からどうにも気になって、私は休みのたびに、この遊歩道へと足しげく通っていた。そして、気がつけば彼と――――。


「あんたが見つからなくて、彼は相当焦っているんじゃないか」

 カップの水面に映る彼は、小箱を握りしめて息を切らし、額の汗を乱暴に拭い、私の名前を何度も呼んでいる。

「もう、気づいているんだろ? 彼も同じだったんだよ。この日のために、仕事を詰めて残業をしてきたんだ。そのせいで心に余裕をなくしてしまい、度々喧嘩になってしまったけれど。彼の気持ちは、解っているだろう?」

 時子さんは、諭すように優しい眼差しで私を見つめる。

 わかってた。彼が優しいことも、私のことを考えてくれているのも、ちゃんとわかってた。だけど、お互いを大事に思うあまりに余裕をなくし、思い遣る気持ちを持つことができなくなっていた。本末転倒だ。

「彼は、いい俳優になれるんじゃないかねぇ。あれは、迫真の演技だったよ」

 時子さんは、クツクツと握った右手を口元へ持っていき笑う。

「もっと違う方法でサプライズしてくれたらよかったのに」

 不満を漏らしながらも、私の表情は晴れやかになっていた。

「桜の遊歩道で、彼が待ってるよ」

 時子さんに促され、席を立つ。

「この先もずっと、思い遣る気持ちを忘れちゃいけないよ」

 時子さんに向かって頷くと「三周年、おめでとう」と見送ってくれた。

 今日は、私から謝ろう。


「エルダーフラワーの花言葉にはね、思い遣りってのがあるんだ。知ってたかい?」

 いつの間にか彼女の足元に擦り寄っていたグレーのキジトラ猫に向かって、時子さんが穏やかな眼差しを向けていた――――。


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