What a wakening

宮条 優樹

What a wakening




 ――これは夢だ。


 足元の粘つく感触に、私は思う。


 人ひとり、通れるだけの狭い廊下が真っ直ぐに、遠くにぽっかりと空いた暗闇に向かって伸びている。

 走る少女の足はすでにもつれていた。

 疲労と、まつわりつく血糊で。


 赤黒くたっぷりと、廊下は血糊にまみれている。

 少女が無様に足を動かすたび、びちゃりと、音を立てて血糊が跳ねる。

 少女のはいたスニーカーも、ショートパンツから伸びたむき出しの太腿も、裂けたタンクトップの胸元すらも血に汚れていた。


 血にすべってまた少女の足がもつれる。

 転びかけた体を壁に手をついて支える。

 その手も、生々しく血で濡れた。

 そそり立つ壁もぬめる赤に染まっている。

 流水階段カスケードのように、壁からしたたる鮮血が廊下にたまって少女の全身にしぶく。

 びちゃりと、粘つく音がいやらしく響いた。


 走り続けた少女の足はもう壊れかけて、それでもなお先へと進む。

 少女の足を動かしているのはもはや恐怖だけだった。

 恐怖に追い立てられて、少女は出口を目指していた。


 荒い息に胸を上下させ、ふらつく足で走りながら、少女は肩越しに背後を見る。

 

 見たくないものがいる。

 わかっていても、振り返らずにはいられなかった。

 追い立てるものがどこにいるのか確かめずには、走り続けることはできなかった。


 見開いた目に、男が映る。


 ひょろりとした長身が、少女の後を追ってくる。

 長い髪にその顔は隠れて、ただ見える口元が薄く笑みを刻んでいる。


「これは夢だ――」


 少女の震える唇からこぼれた声を聞いたように、男の笑みが深くなる。


「これは夢なんでしょう!?」


 叫んだ拍子に体勢を崩して血溜まりの中に膝をつく。

 顔に生暖かい血しぶきがかかって、少女は引きつった悲鳴を上げた。


 見開いた瞳から流れる涙と混じった血糊を少女は懸命にぬぐう。

 ぬぐいながら、視界の端に男の姿を見た。


 男の姿はまだ背後に遠い。

 悠然とした足取りで、けれどはっきりと少女を追ってくる男の、表情だけがよく見えた。


 そして、だらりと下がった両腕。

 ひじから先が真っ赤に染まった腕。

 右手に握られた、肉厚のナイフ。

 乾ききらない鮮血が、切っ先からしたたるナイフ。


 腹の底が凍えたように震えた。


 これは夢だ。


 力の入らない腰を無理やり奮い立たせて、少女は立ち上がる。


「夢なら覚めてよ!」


 もはや足元の血しぶきにもかまってはいられない。

 胸元を血のしずくが伝う嫌な感触も、ないふりをしなければ。

 がむしゃらに、少女は足を前へと動かした。


 前へ。とにかく前へ。


 出口へ。


 これは夢だ。

 夢なら覚める。

 あれにつかまったら死ぬ。

 殺される。


 その前に。

 つかまる前に。


 出口へ。


 足元が粘つく。

 体が重い。思うように走れない。


 早く。

 目を覚まさないと。


 死ぬ。

 死ぬ、死ぬ死ぬ死ぬ――。


「いやぁっ……!」


 悲鳴を上げ、頭を振り乱しても、恐怖に駆り立てられる気は静まらない。

 痛いほど跳ね上がる心臓を抱えて、少女は血まみれの廊下を走る。


 出口はどこ。


 あの廊下の先。

 あの暗い穴。


 きっと。

 あそこまでたどり着ければ。


 大丈夫。


 あれは、まだ――。


 背後を振り返った少女の顔が、白く凍りつく。


 男がいた。


 もう腕を伸ばせば届くほど、近く。


「いっ――」


 足を踏み出すより速く、男の笑みが迫る。


 腕が伸びる。

 肩をつかまれ、身をよじる。

 が、猛禽の鉤爪のように、男の指は少女の肩に食い込んだ。


 細く見えた男の腕は、意外な力で少女を抱きすくめる。

 その手の冷たさに全身がそそけ立つ。


 死ぬ。


 喉の奥で切れ切れに悲鳴を上げて、少女はかつぎ上げられた肩の上で暴れる。

 滅茶苦茶に、腕を振り回し両足をばたつかせて、男の頭をたたき、胸を蹴るがびくともしない。


 引きつる悲鳴が泣き声に変わる。


 死ぬ。


「やあぁっ……!」


 絶叫した瞬間、ふっと体が浮いた。


 落ちる、と気づいたときにはもう少女の体は叩きつけられるようにして廊下に転がった。

 血溜まりの中に顔を突っ込んで、その感触と臭気に胃の腑がよじれる。

 両手を突っ張って顔を上げると、髪から血糊が糸を引いて落ちた。


 全身にまとわりつき、体の奥まで入り込んでくるようないやらしい血の感触に、小刻みに這い上がってくる震えが頭頂まで伝わる。


 と、廊下についた両手が沈んだ。

 ずぶ、と音を立てて、泥の中に入ってしまったかのように、手が、足が、血溜まりの中に沈んでいく。


 とっさに立ち上がろうとした途端、少女の体は一気に腰まで、そしてもがく間もなく頭まで引きずり込まれる。


 沈む。

 重い。

 気持ち悪い。


 怖い。

 怖い、怖い怖い怖い――。


 赤黒い液体の中に押し込められる。

 悲鳴はもはや声にもならない。


 必死に、動かない腕で必死に血の海をかく。


 まだ覚めないの?

 

 今まさにこの夢が覚めれば。


 ここで目が覚めてくれれば。


 わずかに体が浮く。

 更に腕を動かす。


 体が水面に近づいているように思う。

 無我夢中で、わずかに明るく見える方へと手を伸ばし、すがりつく思いでひたすらに腕を動かす。


 瞬間、血の海の中から顔が出た。

 開けられるだけ口を開け、喉の奥で荒い呼吸を繰り返す。


 抜け出せた――思って、向けた視線の先で、ぞわりとうごめくものがいる。


 血溜まりの中、ぬらりと光る甲殻。

 細かにうごめく節足。

 顎を鳴らして折り重なって血の中を泳ぐ、ムカデの群れ。


 四方をムカデに囲まれて、少女は絶叫する。


 脳天を突き抜け、のどを裂くような叫び声を上げながら、少女はムカデをかき分けて進む。

 不気味な顎が二の腕を切り、ざわつく尾が少女の足を裂く。

 体中に傷を作り、血を流しながら、雄叫びとしゃくりあげる泣き声とがないまぜになった声を垂れ流して、少女は進む。


 伸ばした手が岸にかかる。

 血糊にすべる両手に力を込めて、少女はようやくたどり着いた岸に体を持ち上げた。


 目を上げる。


 そこに暗い扉が見えた。


 出口――!


 たどり着いた。

 ふらつく足でなんとか立ち上がる。

 泣きながら、扉に向かって最後の数歩を駆ける。


 出口。

 たどり着いた。

 助かった。


 これで。


 これで、夢から――。


 少女の手が扉に届き、渾身の力で押し開ける。




 心臓を押されたような衝撃に、少女はベッドに飛び起きた。


 嫌な感触があって手のひらで額をぬぐう。

 手のひらを見ると、血の色などなく、額に浮いていたのは冷や汗だった。


 レースのカーテン越しに朝の日差しが部屋を明るくしている。

 正面に目を向ければ、見慣れた鏡の中に、青い顔をした、それでもいつもと変わらない自分の顔を見つけて、少女はようやくほっと息をついた。


 夢だった。


 ほら、やっぱり夢だった。


 もう嫌な夢は覚めたから、大丈夫――。


 夢の中の自分を思い出して、子供じみた怖がりように思わず笑いがこみ上げてきた。


 こらえきれずにくすくすとのどを震わせている、と。


 下っ腹に鋭い痛みが走る。


 視線を向けると、ベッドから腕が生えていた。


 肘から先が真っ赤に染まって。

 その手に肉厚のナイフを握って。

 ナイフの切っ先が、少女の腹に深々と突き立っている。


 こわばった顔を鏡に向ける。


 鏡の中に、少女の背後に、夢の中の男の顔が笑っていた。


 男はあいた手で少女を背後からかき抱く。

 少女の頬に自分の顔をすり寄せて、男はナイフを握った手に更に力を込める。


 目が、覚めたとき。


 そこが本当に夢でないと。


「君にどうして分かる?」


 男の笑みが深くなる。

 少女の体を愛するように抱きしめて。


 男はナイフを握った手をひねる。

 ナイフをねじり、更に深く、奥へとねじ込む。


 少女ののどが鳴る。

 ごぼ、とのどからあふれた鮮血が真っ白なシーツを鮮やかに染める。


 わかるものか。


 だってこれは、この男の――私の夢なんだから。


 少女の恐怖。

 そこから抜け出せたときの安堵。

 その瞬間にナイフを突き入れる快感。

 再度の痛みと恐怖に突き落とす愉悦。


 何度でも、私は繰り返そう。


 私のための夢。


「そのためになら、君に最高の目覚めを贈ろう」


 永遠に。






               了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

What a wakening 宮条 優樹 @ym-2015

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ