おはようマイヒーロー
帆多 丁
おはようマイヒーロー
「はーい、じゃ、次はこいつで」
ピンクジャージの彼女が指したのは、具体的に鬼だった。幼稚園の頃に絵本で見たいわゆるアレだ。いろとりどりの。
赤、青、黄色。金、銀、パール。
パールて。
パールに気を取られていたら、赤鬼の拳が僕の上半身を吹き飛ばすのが、見えた。
なんで!?
「ぼさっとしない!」
彼女の声、迫り来る鬼、混乱する思考、疾走するキャデラック。
「わぁ正夢だ! 私、きみとこうなる夢みたんだよ!?」
「夢にも思わなかった!」
キャデラックのハンドルを握ってアクセルを踏み込む。助手席には水色ワンピースの彼女。きみだれ!? ぼくなに!? 鬼どこ!?
「あぶなーーーーいっ!」
警告に前を向けばフルスイングな金棒。とっさに引っ張るシートレバー。仰向けの二人をかすめて金棒が車の上半分をフライアウェイすれば目に飛び込んでくる満天の星空。
「ロマンチックね……」
「そうかなぁ?」
「見て、流れ鬼!」
流れ星のように尾をひいて夜空をサーフしてくる鬼。
複数。
「あれが消える前に3回願うと、叶うんだって」
「夢なら醒めますように夢なら醒めますように夢なら醒めますように」
叶うか消えるかしてくれ。
「逃げるよ!」
芝生から身を起こし引いた彼女の手は、とても肉厚で、びくともしなかった。
「ごめん私こっち」
膝を抱えて宙にふわふわと浮かぶフレアスカートの彼女と、青鬼の手を引いて、頭から叩き潰される自分、を見る自分。
「ツーアウトツーアウトー!」
60フィート6インチほど向こうで彼女がミットを構えた。アイドルが始球式で着るような、可愛らしいミニスカユニフォーム。
その格好でキャッチャーなもので、ピッチャー的には中が見える。いわゆる短パン。安心はするけど、謎は謎のままにしておいて欲しかった。
スタンドはカラフルな鬼で満員だ。
正面左右後方には一体ずつ、四体の鬼で演出する満塁感。
リードはLだよバカ鬼ども、いい加減慣れてきたぞ。
そんな中でも楽しげなキャッチャー彼女。
「プレイボール!」
それきみの仕事じゃないよね。
「ピッチャー第一球、振りかぶって投げました!」
それも君の仕事じゃないよね。
殺意を込めた白球は浮き上がるような軌道を描いて、掬いとるようにバッター「鬼」の顎を打ち抜いた。
「ストラック! バッターアウトぉ!」
「
塁を蹴って迫ってくる残り三体の鬼。逃れるように本塁側へ走り、彼女を背に鬼へ向き直ればぼんやり思い出しそうになる。
「まだだめ。まだこっちに集中して?」
甘い囁きが耳をくすぐった。
スタンドからも鬼どもが飛び降りるのが見える。
僕は腰の剣を抜いた。
「がんばってね!」
いそいそと檻に閉じこもりながら彼女が、黄色いドレスの裾を翻して迫真の演技を見せた。
「助けてぇぇぇ! 勇者さまぁ!」
いちいち楽しそうなんだよ、きみは。
次から次へと湧いて出るカラフルな筋肉を、屋台のポップコーンみたいに吹っ飛ばして回る。
多勢に無勢でぶっ飛ばされたり、叩き潰されたり噛みちぎられたり、散々な目に遭いながらも
あきらめずにたどり着いただろ。あと一歩だったろ。
「勇者さま、こっち見て!」
今度はなに!?
声に振り返ると、彼女が巨大なゴリラみたいな鬼に握られていた。クラシックスタイルだ。ほらみろスカイスクレイパー。ほらみろヘリコプター。
「私が握り潰されたらー、全部おしまいだからー!」
詰んでんじゃねーか。
ゴリラ鬼の脳髄から、神経パルスが走る。その到達よりも早く。筋肉の収縮よりも先に、腱を。
空間とか、重力とかいう概念を無視して、ヘリの床を蹴って跳ぶ。
ゴリラの手首を貫いた刃から、びちり、手応えが伝わる。
力の抜けたゴリラの手から、彼女が抜け落ちる。それを追って飛び降りる。
彼女を追って、ここまで来た。
意味不明な世の中で出会った、不条理の姫君。
栗色おさげ髪の彼女に手を伸ばして
「捕まえた!」
「まだまだ!」
まぶしく笑って彼女が言う。スカイスクレイパーから落ちてるって状況は、まだ続いてる。
イエローキャブの列と横断歩道と太字の"Only Bus"がぐいぐい迫る中、彼女の手を引き寄せて抱き留める。
「わかってきたんじゃない?」
わかってきた。
地面が地面と誰が決めたよ?
ばすん。
クラシックスタイルだ。
マンハッタンの路上が描かれたキャンバスを突き抜け、水平線の描かれた絵に大穴を開け、メロンパンみたいな銀河系を
「本番5分前!」
不条理の姫君が何を言っても驚かないし、何を着てても驚かない。セーラー服なんてありきたりだし、わがまま言うなら僕はブレザーがいい。
星の海に浮かぶ
手をつないだまま大の字に寝転がって、内容の欠けたステンドグラスを見上げてふと思う。
「……鬼は?」
「欲しい?」
「要らない」
「本番2分前」
不条理の姫君がつぶやく。彼女と最後にしゃべったのは去年の今頃。あのステンドグラスに描いてあったお話を、こうして寝転んで教えてくれた。
あの欠けた部分こそ、彼女が描かれていた部分だ。
彼女が握りつぶされたら、この世界はおしまいなんだ。
「本番1分前」
ずっと笑ってた彼女が、ふいに祈るような顔をする。
「忘れないでね。君はなんだって出来るんだよ。私の世界は、君を縛ったりはできないんだよ」
輪郭を思い出してくる。今の僕がどこに居たのかを、どこから来たのかを思い出してくる。
子どもの頃にわかった事がある。楽しい夢が終わるときはいつだって、夢を見ていると自覚した時だ。
「本番30秒前」
寝転がりながら見つめ合った彼女は、ひどく儚く見えた。
「だから、君のわがままで──」
本番10秒前、笑う。不条理の姫君が笑って、ささやかなわがままを言う。
「──私を、きっと、助けてね」
笑顔の頬に涙が伝う。彼女の輪郭がぼやける。その姿が曖昧に薄れていく。
ほんとうに、きみは、ほんとうは、不安なくせに──
本番5秒前、
4
3
「素直じゃない」
はっきりと自分の耳に声が届いた。
僕の骨は砕けていない、僕を埋めているのは重たい大理石の柱じゃない、僕はもう完全に大丈夫だもん、ということにして身を起こした。わかってしまえば、ひどく簡単な作業だ。
正面に、タキシードの背中が見える。
彼女をさらった張本人。彼女の本質、夢の不条理さを取り込む夢喰らいの王。
その背に叩き込もうとした光の白刃は、王のアタッシュケースに止められる。
「──死んだと思ったが?」
「助ける姫に救われまして!」
別人になったように軽く、体がよく動く。
もう負ける気はしなかった。世界の秘密はこっちのもんだ。
「お前の常識には、つきあってやんないからな!」
夢の終わりはいつだって、夢を見ていると自覚した時だ。
この世界の常識から外れる事ができたのは、僕が自覚したからだ。捕らわれの彼女が最後の力で教えてくれた、この世界の秘密だ。
夢喰らいの王を倒し、彼女にまとわりつく下僕の
ここでひとつ疑問がある。
寝ている女の子を起こすのに、どういったアクションが適切か。
頭が現実に引っ張られる。僕が覚醒しようとしている。
彼女は声をかけても、肩を叩いても、揺すっても起きてくれない。
起こさなくちゃいけないんだっけ?
ふと自分の行動に疑問を持った瞬間、目が覚めそうになった。この自覚そのものもまずい。もう少し、彼女に集中しないと。
例えば、丸くて広い額とか、閉じられた長いまつげとか、ふっくらつるんとした頬とか、寝てるクセに笑ったような形を維持する口角とか。
形を、維持……?
なんか、ひくひくしてないか、口角。
笑いをこらえてないか、この姫様。
見ていたら、唇を尖らせるようにして彼女は音をだした。ちゅっちゅと。
「起きてんじゃねーか」
「――くひひひひ、ふふっ、かはははは! 起きてるよ! 起きたよ!」
土曜日の朝の光が差す。
あのとき、彼女は僕が挙動不審になってるのを、薄目で見ていたらしい。彼女の頬に笑いすぎの涙がこぼれるのを見ながら僕は、自分の体をつつむ毛布も感じていた。
不条理の姫君は寝台の上でばたばたごろごろ笑い転げ、ひとしきり笑うと寝たまま僕を引っ張り込んで僕の唇を奪った。夢とは思えない柔らかなキスで、そんなわけで僕のファーストキスは夢の中という事になるのだけれど、唇を離した彼女が何か言うのを聞けずに、僕は自宅で目を覚ました。
あれから10年。
「寝言、うっさいよ。何の夢みてたの?」
隣で頬杖を付くひとの、栗色の髪が流れて顔を隠すのを僕は寝ながらかき上げてやる。
「君も知ってる、懐かしい夢」
恥ずかしながら、僕はそう告白した。
不条理の姫君は結局のところ、その名の通り不条理でなんでもありだった。
25歳も過ぎたのだから僕はどうにも恥ずかしいのだけど、ふーん、と目を細めて笑う彼女は毎朝、あの時の言葉を繰り返してくれる。
「おはようマイヒーロー」
「おはようプリンセス」
これを言わないと怒る。姫君の今朝のご所望は?
「サニー・サイド・アップ」
「目玉焼きね」
「ベーコンカリカリ半熟いっちょう入りました」
「それ僕のセリフよ。今日のご予定は?」
「初日の舞台挨拶。話題のイケメンくんとおしゃべりしてくるよー」
「はいはい。アバターはセンスあるよね、あいつ」
「
「
夢の世界から来た何でもありの姫君は、この世の中でバーチャルタレントになった。
そんな彼女が最近言うのだ。
「人に夢を与えるのって、本当に大変なんだよ?」
ほんとうに、きみが言うと説得力あるよ。
<おしまい>
おはようマイヒーロー 帆多 丁 @T_Jota
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