器はひとつ花ふたつ

千住

心象迷路

「おいジジイ! ぼーっとつっ立ってんじゃねぇ! どけ!」


 公園の遊歩道、真ん中で佇む老人を、あいつはいきなり怒鳴りつけた。老人は感情のない顔で振り向いた。私は思わずあいつに突っかかる。


「ちょっと。いきなり怒鳴らなくてもいいじゃない」


「うるっせぇな、ああいうのは怒鳴んなきゃわかんねぇんだよ」


 あいつは心底うるさそうに言った。メタルフレームのメガネをかけ直す。こいつは一見小ぎれいなサラリーマンだが、とんでもない暴力性を秘めているんだって、私はよく知っている。


 私の視線に気づいたのか、暴言の矛先が私に向いた。


「しっかしおまえ相変わらずモッサい服着て……」


 あいつはハタと口をつぐむ。言い返す用意をしていた私は、肩透かしを食らった。


「おい、なんで俺たち、互いの姿が見えてるんだよ。ってかここどこだ?」


 どこかでみたことがあるけれど、どこにもなさそうな公園だ。春の風が私たちの間を吹き抜ける。ほのかに甘い香りがする。





『お二人とも寝ているあいだにすみません。寝ているときのほうが、催眠術にかかりやすいんです。許可なく始めさせていただきました』


 どこからともなく声が聞こえ、私はあたりを見回す。


「なに? なに?」


「あー、あのババアか」


 あいつが道に唾を吐いた。私はあいつに食ってかかる。


「ちょっと、説明してよ」


「酔っ払って帰ったら親に車に詰めこまれた。うさんくせぇ民間療法のとこに着いたから暴れたんだが、酒が回ってそのまま寝て気づいたらこれ」


 私は閉口する。私たちの肉体は、まだ19歳7ヶ月だ。あいつは三十路だし私は23歳だけど、飲酒が許される体じゃない。


 私たちが黙るのを待っていてくれたのか、催眠術士は言った。


『ふつう、ひとつの肉体には、ひとつの人格しか宿せません。あなたたちは、つらい出来事を乗り切るために、協力しあうため同じ体に生まれました。でも、猪瀬いのせ りつさんの一番つらいときはもう過ぎたのです』


 私たちの体の名前を直に呼ばれ、私もあいつも露骨に不愉快な顔を出す。

 催眠術士は同じフレーズを繰り返した。


『ひとつの肉体には、ひとつの人格しか宿せません。記憶が連続していること、考えかたや感じかたが緩やかに繋がっていること。これから律さんが大人になるにあたっては、それが必要なのです。では、律さんの人格をどうするか。それは律さんではない私たちが勝手に決めることではありません』


「あたりめぇだろ。なめてんのかババア」


『お二人に考えていただくために、律さんの夢の中に迷路というか、散歩道のようなものを作らせていただきました。お二人でそこを進みながら、ぜひ考えてみていただきたいと思います。ひとつの肉体には、ひとつの人格しか宿せないことについて』


 声は遠のいて消えていった。


 それって、私たちのどっちかに消えろってこと?


 私が困惑していると、あいつは遊歩道を歩き出した。


「ちょっと待ってよ。進むの?」


「最後まで行って目ぇ覚まして勝手なことしたババアをぶん殴る」


「……ぶん殴るのは反対だけど、私も起きて文句は言いたいわね」


「珍しく意見があったな」


 あってないと思うけど。


 道を塞いでいたはずの老人は消えていた。どこかで見たような見ないような遊歩道を、私たちは並んで進んでゆく。




 しばらく進むと、雪柳に囲まれた広場に出た。白い花をびっしりつけた低木に囲まれ、なぜか食卓がある。白いテーブルクロスの上には、料理が並んでいた。道の続きは机の向こう側だ。


「食えってか?」


「たしかにちょっとお腹空いてるわね」


 私たちは向かい合わせで席に着いた。


 カジュアルフレンチのコース料理のようだった。前菜からデザートまで、机の上に所狭しと並べられている。


「いただきます」


 私は両手をあわせた。あいつはもう食べ始めていた。


 前菜。タイのカルパッチョ。魚は食べられない。野菜だけフォークの先ですくったが、生臭さがしみついてしまっていて無理だった。


 スープ。コーンポタージュに見えた。かき回すとチキンのカケラが浮いてきて、私はスプーンを置いた。


 メイン。ステーキ。論外だ。


 デザート。ショートケーキ。やっと食べられそうなものが見つかり、私はため息をつきながら皿を引き寄せた。


「あのさ、ずっーーーと文句言いたかったんだけど」


 前菜からメインまでを完食しつつあるあいつが言う。


「俺が人格やるとき、交代直後めちゃくちゃ空腹だから勘弁してくんねぇ?」


「……」


 私は食欲をなくしてフォークを置いた。




 あいつが完食するのを待ち、私たちは歩道の先へ進んだ。満腹になったからか、あいつは上機嫌だった。私が知らない曲を鼻歌している。


 あいつはスーツの胸ポケットからタバコを取り出し、吸い、道端に捨てた。


「ちょっと。携帯灰皿」


「持ってるわけねーだろんなもん」


「買えって言っといたじゃない」


 私はぶつくさ言いながらタバコを拾う。ふと顔をあげると灰皿があった。さっきまでなかったのに。そういえばここ、夢というか、心の中なんだっけ。私は灰皿にタバコをポソリと入れた。


 ごん。


 頭に衝撃を感じてよろめく。足元を見るとサッカーボールが転がっていた。顔をあげると子供が二人、こっちに手を振っている。


「とってー!」


 私がボールを持って立ち上がると、あいつが私の手からボールを奪った。フルスイング。ボールはすごい速さで飛んで行って、子供の顔に突撃した。鈍い音がひびく。


「なにしてんのよ?!」


 声をひっくり返す私に、あいつは言う。


「謝りもしねぇガキには同じ思いさせてやんなきゃわかんねぇだろ」


「だからってあんな勢いで投げなくたって」


「じゃあどうするつもりだったんだ、おまえ? どーせ黙って返すつもりだったんだろ。ガキに躾してやんのが大人の役目だろ? 黙って返してそれでおまえとガキに何の得があるんだよ」


 私は閉口した。口論でこいつに勝てたことはない。


 私はこいつのことが嫌いだった。何をやっても考え方があわない。私が嫌われないようにおとなしく我慢しているのに、こいつはいつも好き放題。


「ほんとおまえ、楽してやり過ごす方選んで、後始末を周りに押し付けるよな」


 あいつがスーツのポケットに手を入れて歩き出す。


「なのに俺より好かれる」


 その声色に寂しさが滲んでいた。私が動揺している間に、あいつはずんずん進んでいってしまった。




 しばらく歩くと桜の広場にたどり着いた。私はぐるりと見まわしたが、遊歩道がみつからない。


「終、点?」


 満開の桜が私たちを囲んでいる。花の香りで空間がいっぱいだ。

 あいつは私に背を向けたままで言った。


「おい」


「なに」


「おまえじゃねぇ」


『はい、なんでしょうか』


 どこからともなく催眠術士の声がした。あいつは催眠術士に問う。


「俺からはよく見えねぇから、ろくに確認したこともなかったんだけどさ。……この体、猪瀬いのせ りつの、体の性別はどっちなんだ?」


 私は息を飲んだ。催眠術士は、あまりにもあっさりと、あっけなく答えた。


『女性です』


「まあ、そんな気はしてたわ」


 あいつは振り向いた。笑っていた。悲しげに。


「じゃあ、俺が消えるわ。体と心の性別、同じ方がしあわせだろ?」


「……そんなことない! そんなの関係ない!」


 私は叫んだ。呼応するように強い風が吹き、桜の枝をざあと揺らした。


 桜吹雪のなか、私はあいつに駆け寄り、その腕を掴んだ。涙で視界がにじんでゆく。声が詰まる。


「そういう考え方できるんなら、やっぱおまえの方がいいじゃん」


 私は首を横に振った。


 最初に催眠術士は私たちのこと『つらい出来事を乗り切るために、同じ体に生まれて』きたと言っていた。でも。私には特筆するようなつらい記憶がないのだ。内気なまま学校に通っていたし、あいつが起こした問題の尻拭いは何度もさせられたけれど、たかだかその程度なのだ。それはつまり、つらいときは全部こいつが。


 こいつは、私の代わりにつらいことを全部引き受けて、戦ってきたんだ。戦うために嫌われてきたんだ。やっと気づいた。そして今も、私の代わりに全部引き受けて消えようと。


「私も、戦うから……!」


 ぼろぼろ泣きながら叫ぶ。涙の隙間から、あいつの笑顔が見えた。そんな優しい顔、できるんじゃない。


「そんなでかい声、出せるんだな」


 私たちは互いを抱きしめあった。最初は互いの服を、体温を感じていたのに、それがだんだん、とけて、とけて、境目なんてなくなって。





 白い天井に間接照明の影が落ちていた。


「おはようございます、猪瀬いのせ りつさん。ご気分は悪くないですか?」


 耳元で催眠術士の声がした。私、私でも俺でもある猪瀬いのせ りつは、はっきりと答える。


「ええ。最高の目覚めです」

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器はひとつ花ふたつ 千住 @Senju

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