第9話 せめて、あたしを嫌ってよ
ぽちゃん、と水滴が跳ねた。あたしは一瞬停止した思考がようやく動き始めた。でも、何も言葉は出なかった。
「隆弘、ごはん食べないの。食べてもすぐもどしちゃう。点滴うっても苦しがって、全然良くならない。体に変なぶつぶつが出来てた。たぶん、みんなを殺したあの病気になった」
「……間違いないの?」まだどこか現実味のない感覚のまま、自動的に声が出た。
「僕のおとーさんとおかーさんと同じぶつぶつだったから」
カナタはうつむいたまま答えた。あたしも黙ってうつむくことしかできない。なんて、無様なんだろう。排水口から流れ出る水の音がやけに耳障りに感じた。カナタの体が小刻みに震えていた。寒いのだろうか。あたしはカナタの肩に触れようと、手をのばした。でもカナタはあたしの手から逃れて濡れたままの姿で出口へと向った。
「カナタ、体拭こう」あたしは脱衣籠にねじこんであったバスタオルを手にして、カナタを追いかける。
「隆弘のとこに、戻る」
カナタは片手で、額に張り付いた髪をはがしながら、あたしを振り返った。
「馬鹿、行っちゃダメだよ。カナタにも病気がうつっちゃうよ」
カナタはにっこりと笑って、いつもの無邪気な笑顔になって、当たり前のことのようにあたしに言った。
「僕、自分が死ぬのなんか怖くないよ」
*
次の日の朝。
菜園でカナタに会えなかったあたしは、息を切らして食堂に駆け込んだ。
カナタの姿はない。
テーブルにはカナタが準備した、五人分の朝食が並んでいた。
あたしは感情にまかせてそばにあるイスを蹴り倒した後、朝食も摂らずに扉から飛び出した。
ベニヤ板の墓碑が並ぶお墓の真ん中で、カナタは倒れていた。
「カナタ!」
あたしは暑さも忘れてカナタのところに駆け寄った。肩を抱きかかえて何度も名前を呼ぶ。カナタは微かなうめき声を上げるだけでちっとも目を覚まさない。顔が真っ赤で熱が異常に高かった。熱中症かもしれない。あたしはカナタを抱きかかえて、木陰に運ぶとタンクから水を汲んできて、カナタの額や首筋にかけた。それでも、カナタは目を開けない。
タンクの生温い水では、ダメなのかもしれない。あたしがカナタを背負って部屋に戻ろうと決心した時、
「……のど、かわいた」
カナタが目を薄く開けて、小さく口を動かした。
「水飲みたいの? カナタ、ペットボトル持ってきた?」
カナタは首を横に振った。あたしはバケツに汲んであったタンクの水を手ですくうと、カナタの口元に運んだ。でもカナタは上手く飲めなくて、水はほとんどカナタのワンピースの胸元にこぼれた。「……あ」カナタが眉を寄せて、泣きそうな顔になった。
「平気だよ。飲ませてあげるから」
あたしは自分の口に水を含むとカナタの顔を両手で持って、上を向かせた。カナタの顔にあたしの顔を近づける。汗の匂いと石鹸の匂いがした。カナタはあたしをじっと見つめたままだ。気にせず唇を重ねた。ぴくっとカナタの体が震えるのを感じた。でも、あたしの口から注入される水をカナタはのどを鳴らして飲んでいた。すぐに水はなくなった。唇を離す。あたしはカナタにまだ飲みたいかと訊ねた。カナタがほしいと答えたので、あたし達はもう一度唇を重ねた。今度はさっきよりもゆっくりと飲ませてあげた。
「今日は優しいんだね」カナタが自分の唇を指先で触れながら、あたしを見た。
「いつもだって、優しいつもりだったんだけどな」あたしは苦笑する。
「うそだよ。僕がどんなに痛いって言っても、中島さんはやめてくれないもん。ううん、中島さんは僕が泣いた方が喜ぶって隆弘が言ってた」
「え?」あたしはカナタが何を言ってるのか、わからなかった。あたしはカナタの顔を凝視する。カナタは微笑を浮かべて、あたしの方を見ていた。でも、あたしを見てはいなかった。カナタの視線は目の前にいるあたしをすり抜けて、あたしの後ろに立つ誰かに向けられていた。振り返って、後ろを見た。もちろん誰もいない。ぺらぺらのベニヤ板の墓碑があるだけだった。とくん、とあたしの心臓が高く鳴った。
「違うよ。カナタ、違う」
あたしは両手でカナタの肩を掴むと、顔を近づける。
「え? 何が」
カナタがあいまいな笑みを浮かべる。
「あんたのそばにいるのは、中島さんでも隆弘でもない。あたしだよ。戦。なんじょう、いくさ。あたしが、あんたのそばにいるんだよ! ねぇ、本当はわかってるんだよね? あたしを見てるんだよね? お願いだから、こんな冗談言わないでよ。ねぇ、カナタ!」
あたしのカナタの肩を掴む手に力がこもる。がくがくと揺さぶる。カナタが整った顔を歪ませて、抵抗する。
「い、痛いよ! 離してよ! 中島さん、痛いよ!」
「違う!」
「嫌っ!」
鈍い音がした後、額が熱くなった。
流れ出る血の量のわりに痛みは大してなかった。
音、熱、血。あたしは頭の中で今起きたことを反芻した。ぼんやりとした思考。視界に石を握り締めて、震えているカナタの姿が入った。そうか、あたしはカナタに石で殴られたんだとようやくわかった。
途端に泣きたくなってきた。
「中島さんなんか、大嫌いだよ!」
カナタはあたしの血の付着した石を地面に投げ捨てて、駆け出していった。
一人取り残されたあたしは額を押さえながら、つぶやいた。
「せめて、あたしを嫌ってよ」
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