第5話 時間さえない場所

 扉を開けて、隆弘の病室を出ると


「戦っ! 隆弘ごはん食べた?」


 心配顔のカナタがいきなり登場した。


「うわっ!? 急に出てこないの!」


 あたしは思わずトレイを落としそうになる。


「あっ、お皿空っぽだ。隆弘食べたんだね。良かった~」


 カナタは大仰にはぁと息を落とす。


「あんた、まさかずっとここで待ってたの?」


「うん。そうだけど?」


「こんな暗い廊下に一人で突っ立ってて、バカみたいじゃん」


「僕は暗いの平気だし。それに九十六時間、一人でロッカーに隠れてたこともあったよ。あのときは暑くて、お腹へって、のど渇いて死にそうだった」


「何それ。なんでそんなことしたの?」


「よくわかんないけど、そういう作戦だったから」


 作戦という言葉に隆弘との会話を思い出した。ここでの物資を奪い合った戦いのことか。


「よくあんたみたいなのが生き残れたと思うよ。ほら隆弘が前使ってた部屋に案内して」


 あたしはトレイを持って、階段の方へ歩き出した。


「えっ? 何で隆弘の部屋に行くの?」まだ隆弘の病室の前に立ったままカナタが尋ねた。


「海の動画、見たいでしょ? 隆弘が一緒に観ろって貸してくれた。嫌ならいいけど」


「行く行く! 待って!」


 カナタはあわてて駆け出した。


 あたしはカナタが来るまで階段の前で待っていた。


 非常灯の微かな赤い光に映し出されたカナタの影が廊下を滑り、やがてあたしの影と重なった。


「早く早く!」


 上機嫌のカナタに背中を押されて、あたしは階段をのぼった。



         *



 頬に感じた衝撃は寝相の悪いカナタの放った掌底が原因だった。


「……痛いぞ、この野郎」


 安眠を妨害されたあたしはソファーの隣ですやすやと気持ち良さそうな寝息を立てている見た目だけなら百パーセント美少女な少年の額に、割と容赦のない力加減の水平チョップを叩き入れた。


「……あうっ。……ん? ……はぅん」


 カナタは一度小さくうめいただけで、そのまま夢の世界に居座り続けた。


 この子は思ったより図太い神経を持っているのかもしれない。


 あたしは今度は鼻でもつまんでやろうかなどと考えたけど、カナタの馬鹿みたいに平和な寝顔(ちょっとよだれ垂れてる)を見ているうちに「まあ、いいや」と思ってしまった。


 ガラステーブルの上のノートパソコンは省電力モードのせいで画面が真っ黒になっていた。


 マウスを軽く滑らせる。


 瞬時に画面が切り替わりもう何度も見た海の映像が再生される。


 その画面を見て、ようやくあたしは隆弘の部屋でカナタといっしょに動画を見ているうちに眠ってしまったことを理解した。


 いくら好きだからって毎日毎日、朝昼晩、延々と同じ映像を観ることはないと思う。


 て言うか、毎回あたしを誘うなよ。


 小さな子供にせがまれて何回も同じ絵本を読まされている母親のような心境だ。


 くすくすと微かに笑い声がした。


 何か楽しい夢でも見ているのかカナタは今まで見たことがないくらい穏やかな表情を浮かべていた。


 また「まあ、いいや」と思ってしまった。


 あたしは画面上のカーソルを走らせて時刻を表示させた。


 午前五時七分。


 とりあえず早朝だ。


 もっとも身体リズムのために決めたただのルールにすぎないけど。


 この療養所は永久影の領域に作られている。


 永遠に太陽を見ることはない年中無休の夜間営業状態だ。


 朝も昼も本当はない。


 きっと時間さえもない。


 あるのは暗闇とあたし達が勝手につくったシステムだけだ。


 くぅとおなかが鳴った。


 あたしじゃなかった。隣を見ると、カナタは目をこすこすと擦りながらあくびをしている真っ最中だった。


「おはよー。戦」


 カナタはあたしと目が合うと、にこと笑った。


「おはよ。おなかすいた?」


 あたしがそう尋ねると、カナタは「うん。ぺこぺこ」と頷いた。


「今日はあたしが作ろうか。倉庫にお米や味噌もあったし、たまには和食とか」


「わしょく、って?」カナタがきょとんとした目をあたしに向ける。


「日本食。あんたのお父さんとお母さんが生まれた国の料理」


「僕のおとーさんとおかーさんは地球で生まれたんだけど?」


「その地球にはね、いくつも国があるの」


「くに、って?」ますますわからないと、カナタが首を傾げる。


「簡単に言えば、地球では星をいくつかの領域に区切ってそれぞれの場所で管理してるの。その領域の単位が国なの」


 あたしの説明の仕方が悪いのか、カナタは両腕を組んでうーんと悩み始めた。


 昔からあたしは人に何かを説明するのが苦手なのだ。


 それはたぶん、あたしが他人に何かをわかってもらいたいと思わなかったからだろう。


 わかってもらえるなんて、最初から思ってなかったから。


 ずっとそういう風に生きてきた。


 でも、


 今度はあたしのおなかが鳴った。


 それも大きな音で、きゅるるるるんという感じの音だった。


 カナタはソファーの上で両脚をバタつかせて、きゃははははと遠慮なしに笑ってくれた。


「笑うな!」


 あたしは恥ずかしいのと、ムカついたのとで顔がかぁと熱くなった。


「戦、子供みたい」目の端に涙をためて、カナタが笑う。


「うわっ、あんたにだけは言われたくねー」


「きゅるるるん」


「口で言うなっ!」


 あたしは床に転がってたクッションを手に取り、カナタの頭をぽすぽすと叩く。「あははは」カナタは笑いながらソファーの上を寝転がったままの姿勢でころころと転がって移動した。


「ひゃうっ?!」


 で、すぐにソファーから転げ落ちた。


「あー、もう! そんなことしたら落ちるに決まってるでしょう。大丈夫?」


「うん。全然平気。でも戦、この部屋エアコン調子悪いね。ふぅ、あっつー」


 カナタは立ち上がると、スカートの裾をつまんでパンツが見えるのなんて気にしないぜとばかりにぱたぱたと脚に風を送った。おいおいまてまて。


「こら、そーゆーことしないの。下着見えるでしょ」


「別に見えてもいいけど?」


 にへらと笑ったカナタがばっ! とスカートを両手で目いっぱいまくりあげた。


 おへそまで見えた。


 おなかも細い脚もツルツルで綺麗だった。


 白いパンツに包まれた微かなふくらみはエロかった。


 どきどきした。


 ていうかあたし見すぎだ。


「ばかばか! あんたって子はー!」


 耳まで熱くなってきた。


「戦、えっち」


「自分で見せたんでしょーが!」


「騒いだら、余計におなか空いちゃった」


「……あんた、誰のせいで騒いでるのかわかってないでしょ?」


 あたしは言葉といっしょにため息を吐き出す。


「朝ごはん、作ろうよ。一緒に」


 カナタの少しはにかんだ笑顔があたしの目の前に浮かんだ。


「あ、う、うん」


 あたしは色々な感情に頬が染まるのを感じつつ、何とか笑顔で返事を返した。


 その後、テーブルに並べられた皿が二人分だけだったから、あたしはすごく驚いた。


 あたしが「中島さんの分は?」と訊くと、カナタは困ったような表情をして答えた。


「中島さんは、もう居ないから」

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