第2話 あたしを月に連れてって
あたしこと
あたしは当時、結構過激なイジメを受けていた。上靴がゴミ箱の中で発見されたり、ノートが引き裂かれて窓から放り出されたりするのはもはや日常茶飯事で、頬を腫らして帰宅する日もそんなに珍しくはなかった。
でも、あたしには味方と呼べる存在はただの一人もいなかった。
あたしに〝戦〟なんていう物騒な名前をつけた両親は家庭内別居状態であたしを気遣う余裕なんてカケラもなかったし、クラスメートは全員敵で、担任も完全に日和見を決め込んでいた。
ありきたりではあるけれど、あたしにとって絵に描いたような地獄の毎日が延々と続いた。
この世は戦場で、弱い者が奪われて、なぶられて、最後には殺されるんだ。
それが戦いの日々の中であたしが唯一学んだ教訓だ。
だから、あたしが殺される前に殺してやろうと考えたのはごくごく自然な成り行きだった。
ある日の朝、あたしは教室でイジメの主犯格だったクラスメートをナイフで刺した。
ナイフは年齢を偽って通販で買った安物だったけど、割と相手の体深くまで届いたと思う。
あたしに傷つけられた哀れな兵士が床に崩れ落ちた後、教室という名の闘技場ではいたるところで叫びとも歓声ともつかない声が上がった。
あたしはあたしを守ったのだ。
誇らし気な気持ちがわきあがってくる。
喧騒が心地よい。
あはははは。
あたしは血で汚れた制服姿のまま教室を飛び出し、大声で笑いながら校舎の中を駆け回った。
あとはすべて予想通り。
あたしは警備員と体育教師に力づくで取り押さえられた。
補導された後、形だけの裁判が行われてあたしは精神を矯正する必要があると判断され、施設に入所することになった。
白い壁、白いベッド、白いカーテン。
お前はどうしようもなく汚れているんだから漂白するしかないんだと言わんばかりの部屋にあたしは閉じ込められた。
唯一黒いものは鉄格子のついた窓からのぞく夜の闇だけだ。
その闇のずっと奥の方に今にも折れそうな三日月が浮かんでいた。
いつか歴史の授業で習ったことが脳裏に浮かんだ。
月には不治の病を治療することを目的とした療養所があった、と。
その時、まだ小学生だったあたしはその療養所に大して興味を持たなかった。
ふーんと、聞き流していた。
でも、今ならわかる。
それは治療するための場所なんかじゃない。
隔離施設だ。
当時の地球政府は強い感染力を持ち、ひとたび発症すれば確実に死に至るその病を何とか根絶させたかった。
でも、軌道上に宇宙コロニーをいくつも建設できるほどの科学技術を獲得した人類もすべての病原体に対処できるわけではなかった。
感染者は世界規模で増殖し、一刻の猶予もなかったらしい。
いっそその時に滅んでおけば良かったねーとあたしなんかは思うけど、政府は当然のごとくそうは考えなかった。
だから人類は病原体を感染者ごと『地球の外』に追いやったのだ。
そうして、世界からは死の恐怖がなくなって、人々は平穏な生活をとりもどしたとさ、めでたしめでたし、ということだ。
もちろん言うまでもなく、月の永久影に建設されたサナトリウムは見捨てられた。
誰もそうは言わないけど、見捨てられたのだ。
もう何十年も前のお話だ。
あたしは憧れた。
すでに廃墟となった月のサナトリウムに。
周囲に誰もいない完全な孤独に。
行きたい。月に行きたい。
月に行って、完璧な一人ぼっちになって――そこで朽ち果てたい。
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