月のサナトリウム

瀬尾順

第1話 月のサナトリウム

sanatorium ラテン語




 療養所。郊外に設け清浄な自然環境を利用し結核等の慢性疾患の治療を目的とする施設。


         *


 何度目かの暗い朝がまたやってきた。


 あたしとあいつの絶望の朝だ。


         *


 どこまでもどこまでもずーっと続くみたいに長い長い暗闇の中をぺたぺたとあたしの靴音だけが響いている。この真っ暗な廊下を歩くたびにいつも想像する。


 大きな蛇とかの爬虫類に飲み込まれた自分を。いつかあたしは爬虫類の胃液に溶解されて、この闇と同化するんだ。


 非常灯の赤い光の点を二十七回数えた先にエレベーターがある。廊下の照明が全滅しているようにこの施設は最低限必要な設備以外のきなみ電源を落としている。


 当然のごとくこのエレベーターも死んでいた。あたしは使えないエレベーターをスルーしてその左横の階段を二段飛ばしで駆け降りて深い深い闇の最下層に到着した。この階は非常灯の光さえない。


 でも目的の場所はすぐにわかる。そこからだけ微かに光が漏れているから。あたしはヒビの入った扉の前に立つ。ヒビからこぼれ落ちる光が廊下の埃や壁の血痕を照らしていた。


 あたしは寝巻きがわりのスウェットのポケットからカードキーを取り出してリーダーに読み取らせる。ぎぎと耳障りな音がしていつものように半分くらい扉が開く。


 あたしは中途半端に観音開きした扉を蹴破るようにして中に強引に突入する。


 蝉の声がした。


 あたしの黒い影が白く光る地面で踊る。


 周囲の緑からわざとらしいくらい爽やかな匂いが立ち込めている。


 一瞬で体温が上昇して、額に汗が浮かんだ。


 夏。


 夏が広がっていた。


 人工のだけど。


 あたしはあたしより背の高いキュウリやトウモロコシの茎と茎の間のわずかな空間を、道と呼ぶにはあまりにもせまっくるしい空間を作物の海をかけわけつつ進んでいく。


 ほんの少し歩いて後を振り返る。


 さっき蹴飛ばした扉はもう見えなくなっていた。

 

 あいつの話によるとこの菜園はちょっとした野球場くらいの広さがあるらしい。その中にほとんど隙間なくびっしりと作物が植えられているのだから、ひとたびその中に飛び込めば視界は東西南北どこを向いても野菜の葉と茎に埋めつくされてしまう。


 ここは方向音痴のあたしにとって緑色の迷路なのだ。あたしはいつも適当にたぶんこっちと歩いていく。


 だからあいつの居る広場に十分くらいでたどりつける時もあれば、一時間くらいかかってしまう時もある。


 そのせいであいつに会えない日もあった。


 何かしるしでもつければいいのかもしれない。


 と、一瞬考えてすぐにその考えは打ち消した。


 何だかそれは違う気がした。


 今日はなかなか広場につかない。


 暑いのと空腹で足元がフラついてきた。


 肺から吐き出す息にも熱気がこもってきた気がする。


 あたしはその場にぺったりと座り込んでしまう。


 緑色のフレームに飾られた空を睨んだ。

 

 天井にハメ込まれた巨大スクリーンには大きな入道雲のCGが映っていて、雲間にはちゃんと太陽が輝いていたりなんかりする。


 うっとおしい。


 小石を拾って投げつけた。


 当然スクリーンに届きはしなかった。


 ふいに曲が聞えた。


 あたしも知ってるフォークダンスの曲だ。


 あたしは立ち上がると、曲が聞えてくる方へ駆け出した。すぐに視界が開けて見知った背中があたしの網膜に飛び込んできた。



 たららった、らららら、らんらんらん



 あいつは背中までのびたサラサラの黒髪で空中に何度も弧を描く。


 白いワンピースが嫉妬するくらい似合っていて、無邪気な笑顔はこんなあたしでも優しい気持ちになるくらい愛くるしかった。


 でも、その笑顔は今あたしには向けられていない。

 

 もういるはずのない誰かに、あいつの隣で踊っていると仮定される誰かに、もうすでに故人となってしまった誰かに向けられていた。


 あいつはあいつにだけ見える透明なパートナーと毎日毎日フォークダンスを踊り続ける。とっても楽しそうに。本当は一人なのに。


 あたしは今日も踊りの輪には交じらない。ただ黙って、はしゃいで踊るあいつを見つめるだけだ。


 曲が終わって、あいつが脚を止めた。


 振り返る。


 あいつが、カナタがようやくあたしの存在を認識した。


 あ、何だそこにいたんだというような顔をカナタはあたしに向けて「おはよう」と言った。


あたしも「おはよ」と言葉を落とした。


「戦、今日は空豆とジャガイモとほうれん草がとれたの。みんないい感じだよ。きっと地球のよりおいしい」


「そうだといいけど。月の野菜ってちょっと苦いから」


「ふーん。そうなんだ」


「月しか知らないもんね。カナタは」


「うん」


 こくんとうなづくカナタ。地球をしらない地球人だ。


「朝ごはん、作るね」


 カナタはベンチに置いてあった野菜籠を抱きかかえるとばたばたと忙しなく走っていく。


 あいかわらず元気な子。


 あたしは緑の迷路に消えていくカナタの背中をずっと目で追い続ける。


 今日もあたしとカナタの朝が始まる。


 逃げ出したあたしとぶっ壊れた男の子が迎える朝が。

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