第8話 死を前にして

 もうすでに慣れっこになっていた真っ暗な廊下を駆けて、あたしは隆弘の病室の前まで来た。


 あたしが足を止めると、とたんに周囲は無音になる。あたしの息遣いだけがあたしの中で反響していた。


 まるで闇そのものが呼吸しているみたいだ。


 そんな感覚にも、もう慣れていた。


 あたしは扉のノブに触れようとした。


 瞬間、あたしの手が扉に弾かれた。


「カナタ」


 カナタが突き飛ばすような勢いで扉を開けた。


 あたしは反射的にカナタの名前を呼んだ。


 あたしに背を向けていたカナタが、あたしを見る。


 あたしの編んだ三つ編みはほどかれていて、そのせいかいつもキレイだったカナタの髪は今はひどく乱れていた。


 カナタは何かを言おうとした。


 でも、カナタは手で口元を押さえると、またあたしに背を向けて暗闇の中へ駆け出していった。


「カナタ!」


 あたしはカナタの背中を追った。


 カナタは今にも転びそうになりながらも、まるであたしから逃げるように長い髪を振り乱して走り続けた。


 あたしとカナタ二人分の靴音が廊下に響く。


 カナタは思ったよりずっと脚が速くて、あたしとの距離はだんだん開いていく。


 カナタの姿が闇の向こうに消えかける。


 あたしは何度もカナタの名前を叫んだ。


 でも、カナタは応えてくれない。


 あたしの中の鼓動が速くなった。


 カナタがあたしの視界から消える。


 カナタが闇に飲み込まれた。


 鼓動がまた速くなる。


 カナタが闇に溶けた。


 鼓動がもっと速くなる。


 壊れてもいいと思った。


 脚が折れても、心臓が破裂してもいいと思った。


 だから、あたしはもっともっと体に負荷をかけた。


 加速する。


 苦しくて痛かったけど、平気だ。


 だって、闇の中にカナタの姿が微かに見えたから。


 カナタは急に思いついたように脚を止めると、左横のシャワー室に駆け込んだ。


 そこは隆弘の体を洗うときに使う場所だった。


 あたしもすぐにドアノブを掴んで、中に飛び込んだ。


 水がコンクリートを激しく叩く音がした。


 カナタは服を着たまま、頭からシャワーを浴びていた。


 膝を折って、床に座り込みうつむいていた。


 水音に混じって、時折苦しそうに咳き込んで嘔吐するカナタの声がする。


 あたしはカナタの後ろに立って、カナタの背中をゆっくりさすった。


 冷たい水滴があたしの体からも熱を奪う。


 服が肌に貼りつく。髪が濡れて重くなる。


 あっと言う間に二人そろって濡れねずみだ。


 カナタがぽつりと「風邪ひいちゃうよ」と言った。


 あたしは「そんなの平気」と言った。


 「僕今吐いてるから、汚いし、くさいよ」カナタが背をあたしに向けたまま声を震わせた。あたしはもう一度「全然平気」と応えて、カナタの背中をさすり続けた。


 しばらくして、ようやくカナタの嘔吐がおさまった。


 カナタは下を向いたまま立ち上がり、コックをひねってシャワーを止めた。


 あたしも立ち上がってカナタの背に「カナタ」と声を投げた。


 カナタは無言だった。


 ぽちゃん。


 蛇口から漏れた冷水が等間隔でコンクリートの床を叩いた。


 あたしはもう一度、カナタの名を呼ぶ。


 カナタはようやくあたしの方を見た。目が真っ赤だ。


「気分悪いの?」


「うん、ちよっとだけ。でも、吐いたら楽になったから」


「何かあった? またケンカした?」


「ケンカはしてないよ」


「うそ。泣いてるじゃん」


「うそじゃないよ」カナタは何度も手の甲で目をごしごしと拭った。


「本当にケンカしてないから」カナタはまるで自分自身に言い聞かせるように「ケンカはしてない」と繰り返した。


 カナタが心配で、あたしはカナタの顔をのぞきこむようにして見た。


 充血した瞳が痛々しかった。


 どうしてこの子ばかり泣かなければならないのだろう。


「うん。わかったよ」あたしはカナタをなだめるようにそう言うと、カナタの濡れた髪をそっとなでた。


「三つ編み、ほどいちゃったんだ」


「……隆弘に気持ち悪いって言われたから」


「そんなことないよ」


「ううん。僕、気持ち悪いんだよ」


「絶対にそんなことない。あたしがあいつぶっとばしてやるよ」


 あたしがそう言うと、カナタはふるふると首を横に振った。水滴があたしの頬にも飛んだ。


「ダメ。隆弘をいじめちゃダメ」


「何でアイツを庇うの? カナタにずっと面倒みてもらってるのにそんなこと言うのおかしいよ」


「戦も隆弘には優しくしてあげて。お願い」


「カナタをいじめるヤツなんかに優しくできないよ」


「隆弘もうすぐ死んじゃう、から!」


 カナタが爆ぜるように、泣き叫んだ。

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