第22話「足りないもの」
「それで、あれから連絡は取ったの?」
中林さんが、まぐろの刺身に手を伸ばしながら訊いた。
「いや、取ってないっすね。その日のうちに一回LINEしようかとも思ったんですが、あえて送らず様子見るのもアリかなと思って」
新しいおしぼりで顔を拭いて、いくらか冷静に話せるようになってきた。
「そこまで考えてるってことは、やっぱ堀合のこと好きなんだ?」
「そりゃあ、嫌いじゃないですよ。わざわざデートに誘ってるんですからね。でも、もともと今回の試みは、俺がまだまだ男としての価値があるかどうかを測るための実験的なものだったんで、そこまで本気ってわけでは……」
「それもひどい話だなぁ。風俗嬢発言を超えてるよ」
中林さんが、何度目かのあきれ顔を作る。
「正直、よくわかんないっすね、自分でも。まあ、あれから何度かオカズにして抜いてはいるんすけど」
やっぱり、まだまだ俺は酔っているようだ。余計なことを口走ってしまう。
「俺はあいつじゃ抜けないかなぁ。もっと優しい感じの子じゃないと。うちの職場では、ちょうどいいのはいないな」
「なんの話っすか」
中林さんも、いつもより酒が回っている様子だった。
「それはさておき、もし今後もアプローチするなら注意したほうがいいよ。あいつは結構ひねくれてるから、実際に口に出していることをそのまま受け取るのは危険だろうな。まあ、具体的にどうすればいいかは俺もわからないけどさ」
「ライブ終わってから、いい曲ばかりで楽しかったとかいろいろ言ってたけど、じゃあそういうのも嘘かもしれないってことっすか?」
俺としては、普段と異なるシチュエーションで東子さんを拝めて最高だったが、結局楽しんでいたのは俺だけだったということだろうか。堀合の言葉は、社交辞令的なものに過ぎなかったのだろうか。
「いや、それはわからないよ。どんなに想像したところで、本当のところはあいつに訊いてみないとわからない」
そりゃそうだという代わりに、俺も何度目かのため息をつく。
「
おしぼりで顔を拭き直し、中林さんが真剣な顔つきで語る。
「少しは楽しんでいたかもしれないと」
「かもね。もしかしたら、自分でもそのへんの感情が揺らいでいたんじゃないかな。持て余してるっていうかさ。君が誘ってきた意図がわからないけど応じてみたというのは、そういうことだろう。さっき君が言ってたように、断ろうと思えば断ることはできたわけだ。君との時間を過ごすことにまったくもって、それこそ一ミリも楽しさを見い出せないと感じたなら、いくらあいつがあまのじゃくだとしても時間の無駄だから来ないよな」
こんなに真面目くさって話す中林さんを見るのも、たぶん初めてだろうなと思う。
「めんどくさいっすね。女って」
「まったくだな」
スマートフォンを開くと、午後九時と表示されている。
「でも、楽しかったですよ」
もう一度おしぼりで顔全体を拭き、仕切り直して言った。
「そっかそっか」
ナチュラルに微笑しながら、中林さんは皿に残っていたイカの刺身をぱくりと口にする。
「行きますかね」
何がどうなったわけでもないが、なんとなく溜飲が下がったような爽快な心持ちだった。
**
午後十時。自宅最寄り駅の改札を抜けると、酔っぱらった大学生連中の下品な笑い声と叫び声に迎えられた。
俺は、でもいつものように眉をひそめなかった。
普段と比べて浮き足立った夜に、気にすることはないと心の中で助言し、両手を差し出す。
堀合に足りないものが素直さだとすれば、俺に足りないものは、もしかするとこういう何気ない優しさなのかもしれない。
持ち前の素直さや賢さに適度な優しさが加われば、たぶん人生はもっと楽しい。
流れ星が、俺の真上をさらりと通り過ぎた。(完)
夜とサ店と自尊心 サンダルウッド @sandalwood
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