梟の仇返し

工藤行人

『帝王編年記』仁治元年十月廿日条

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今夜梟入居内裏清凉殿、女官見付之、行遍僧正弟子自壇所参上捕之、


今夜こよひいひとよ内裏うち清涼殿せいりやうてんり。女官にようくわんこれを見付く。行遍きやうへん僧正の弟子ていし、壇所より参上まゐのほうてこれとらふ。

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 仁治元年(一二四〇)十月のことであった。時の閑院内裏かんいんだいりで、みかど平生へいぜいお過ごし遊ばす昼御座ひのおましの置かれた清涼殿に一羽のいいどよ闖入ちんにゅうした。

 詰所つめしょたる鬼間おにのまから退しぞ間際まぎわに、不図ふととな殿上間てんじょうのまを下弦の月の如き櫛形の高窓たかまどよりのぞいたる女官が、其処そこに人ならぬ為体えたいの知れぬうごめきを見留みとめしはとりこくばかりであった。

 うごめきを女官がいいどよと判ずるは容易たやすきことではなかった。故如何ゆえいかんとなれば、の女官はおのわかさと美麗とをたのみとする一方で、公事くじはおろか万事よろずごとに不明なるを先達せんだつの女官や古女房ふるにょうぼう達に叱責されるばかりであったから、ろんたず漢才からざえ博雅はくが等は当然にも持ち合わせてはらなんだし、仮令けりょう雲居くもいにおいて博雅はくがなるとてもふみの上のことなれば、女官も此度こたびこそいいどよ見初みそめなるが為であった。

 女官はって、同じく退しぞかんとする今一人の朋輩ほうばいに事のよしを告げた。れど、二人ふたたりしてのぞいた殿上間てんじょうのますでの影は無かった。

 爾時じじ、別のへやより叫声きょうせいが上がった。

主上しゅじょう!」

 二人の女官は直ちにみかど御座おわする昼御座ひのおましに向こうた。

 みかどは廊に御出おじあって立ち尽くしながら、母屋もや大虹梁だいこうりょうあおぎご覧ぜられていた。

ちんの鳥を知ってる。いいどよであろう。何と禍々まがまがしき姿かな」

 御年十おんとしとおみかどは、初めて眼近まぢかに見るいいどよの聞きしにすぐる大きなる体躯たいくと、何よりへやうちに置かれたとぼし揺蕩たゆたいを受けて炯炯けいけいとする鳥の眼光をおそれた。

らえよ、ちょくなるぞ」

 殿上てんじょうに在った女官や内裏女房だいりにょうぼう達がたかり始めたかと思えば、只ならぬみかど御気色みけしきに、夜間よまの警衛を担う右兵衛府の宿直とのいさぶらい達も松明たいまつを片手に参じ、場はにわかひかりほとほりを弥増いやました。

 昇殿の叶わぬ地下じげさぶらい達は、あるは手や足を鳴らし、あるは弓のつるはじいて音を立て、梁に鎮座するくだんいいどよを威嚇する。かしましさに居心地も悪うなったか、いいどよは時折、激しく羽敲はたたいてくうを切り裂いた。曇天どんてん朧日おぼろびならぬ、夜陰やいんらす朧火おぼろびに揺るるへやうちれは響いて、場に居合わする人々の耳朶じだった。

「何事ですかな」

 隣室に祗候しこうしていた行遍ぎょうへん僧正が誰に掛くるともなしに言問こととうた。僧正は後高野御室のちのこうやおむろより灌頂かんじょうけ、後に東寺一長者いちのちょうじゃ、大僧正となる名僧である。の日はみかどの護持僧として昼御座ひのおまし夜御殿よんのおとど双方にとな二間ふたまに在って、玉体安穏ぎょくたいあんのんため夜居よいの祈祷に取り掛かっていたのである。

「僧正、それ彼処あすこいいどよの在るぞ、何とか致せ」

 みかど老者おとな達に囲繞いにょうされて宸襟しんきんようよ静寧せいねいに復したか、おさなながらも狼狽ろうばいを飼い馴らさんとする王者の風格をもって勅語を発した。

 僧正はおのが護持すべき主上しゅじょう綸言りんげんくると、帯同していた一人の弟子ていしを召し、耳許みみもとに何事か私語ささめいた。

「只今、我が弟子ていしたる有尊ゆうそん入内にゅうないした不埒ふらちなるいいどよらえてご覧に入れまする。おそなが主上しゅじょうには御二目おんふたまなこを合わせられまするよう。又、旁々かたがたにも、御目おんめを閉じられまするよう」

 淀みなき僧正の言の葉に、みかど女性にょしょう達も兵衛ひょうえ達も、たれも彼もが瞑目めいもくした。

 やがて気配だけが動いた。鴿どばとれよりも大きく、白鷺しらさぎれよりも小さやかなる鼓翼はばたき……。

おわりましたぞ」

 皆が一時いちどきまなこを開くと、有尊ゆうそんただむきにはいいどよまっていた。みかどは「放て」との叡慮えいりょを示された。有尊ゆうそん挙措きょそ気取けどってか、いいどよたちまちに飛び立って木下闇このしたやみけて見えなくなった。

 

 二年ふたとせの後。の日の女官は、いいどよ羽毛うもうふくるるが如くに、いいとよよに喰らいふくろうて、《梟内侍ふくろうのないし》と綽名あだなされ、晴事褻事はれごとけごとを問わず事毎ことごとみかどあざれに相逢あいおうた。みかどという至尊とえど避けがたかりし、稚齢ちれい男子なんし付付つきづきしい児戯の心根から生ずるあざれであるようでいて、実はおのしもべ達の面前での日、みかど御自おんみずからが端無はしなくも演じてしまった不甲斐なさへの、時経ときへなお収まり得ぬ怒りにきざしたあざれでもあった。

 今日けうみかどは、梟内侍ふくろうのないし足許あしもとすくうてらんと、清涼殿の廊に滑石かっせきき散らしていた。

内侍ないしめ、此度こたび嬌声きょうせいを聞かせて貰うぞ)

 みかど齢十二よわいじゅうにとなり、日毎ひごと女性にょしょうへと向くる眼容めつきにはあやしきみなぎりが宿りめていた。

 かるみかど双眸そうぼうに映じた世界を、刹那、大きなる影がかすめた。大きい。そして、くうを切り裂くあの……鼓翼はばたき

 「……!」

 声にならぬ声を押し殺して咄嗟とっさに駆けいだしたみかどは、しかし今し方、御自おんみずからが廊に施した滑石かっせき足許あしもとすくわれた。まろんで御後頭ごこうとうを床にしたたか打ち付けたみかどの、仰臥ぎょうがするその眼路まなじうちで、虹梁こうりょうまったの凶鳥が、ほうと一啼ひとなきして首をかしげる。

 たまらず恐懼きょうく玉音ぎょくいんを上げたみかどは、その三日後に崩御した。外祖おほじ光明峯寺こうみょうぶじの関白殿はさぞかしお嘆きになったろう。亡きみかどは後に四条院とおくりなされた。

 みかど御晏駕ごあんがより十一日の空位を経て後、関東の意向によって新たに宝祚ほうそみしは阿波院あわいんの宮、御年二十三の皇子みこであった。宮は祖母女院にょいんの御所たる土御門殿つちみかどどのより遷御せんぎょして、四条大納言のやしき冷泉万里小路殿れいぜいまでのこうじどの践祚せんそし、童帝の崩じた閑院かんいんは暫し閉ざされた。

 思えば亡きみかどは四歳で母女院にょいん、五歳で父上皇と永訣えいけつしている。いとけな年端としは双親ふたおやうしのうた否運のみかどを、の聖寿をつづめてまで黄泉へといざのうたいいどよは、或いはみかど仇成あだなしたるか、将又はたまたはよ父母子おやこの再会を果たさんとして、放鳥の恩に報いたか、誰人たれひとの知り得よう。何よりくだんいいどよこそ、最早もはや閑院かんいんを去りて、さて、今や何処いずころうか。

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