「文学性の女」というタイトルから、初めは感受性豊かなヒロインが私的情緒に溢れた作品を書きまくるか、書けなくて悩むかという展開を予想していた。
浅はかでした。
スポンジのように色んな物事を受け入れるヒガシダに、スギモトは初めに言っているのだ。
「あなたには文学性があるかもしれない」と。
どんなにバイオレンスな状況を語られても(見ても)、トキトオさんの傷を愛撫し吐息だけで絶頂に達し合おうとも、『僕』ことヒガシダは「現実を受け入れ、文学に還元することが出来る」男。
永遠の「読者」になれる男。
それが、才能や未来に失望し、でも希望を捨てきれず不安定になるスギモトや、苛烈な状況(だがそのままでは文学にはならない)を背負うトキトオさんにとって、どれだけ救いになるか。
作者自身が一番ご存知だろうが、読者もため息と共に納得する。
そしてもう一度読みたくなる。
基本的に人は孤独だし、誰かとわかりあえることはない(と僕は思っている)。だからこそ、一瞬でもわかりあえたと感じた時に、人は恋に落ち、友情を育み、その相手と一緒にいたいと強く願うのだろう。
人生とはいったいなんだろうと思う。
普通に生きることすら難しい。そもそも“普通”とはなんなんだろうか。僕の普通は誰かの特別なのかもしれない。人生はひとそれぞれ独自の形をしていて(尖っていたり、丸みをおびていたり)、それが時々触れ合って、触れ合い方によって悲劇にも喜劇にも、ときには惨劇にもなる。
普通の大学生活を送っていた主人公も、人との出会いと触れ合いの中で、突如、(読者から見れば)特別な人生に足を踏み入れざるをえなくなる。その中で、日常に潜む死と生きることについて向き合う。
想定された死だけじゃない。不慮の死も、予感させる死も、人生には等しく存在している。
いつになっても晴れない鬱屈したもやもやと、世の中の不条理さ、健全に生きることの理不尽さ。そういうものは物書きだけでなく、創作に関わる人であれば、誰しもが持っているような思いだ。
この小説は主人公を通してその思いを追体験し、答えを出せずにただ流れに身を任せることになる。
目の前で起きる出来事について、僕らができることなんてほんのちっぽけなことだし、ましてや過去のことなんてどうにもできない。でも、ただ受け止める、出来事を共有することで、誰かを救えることもある。
そして、だからこそ僕らは“わかりあえた人”に対して必死に手を伸ばすのだ。
創作に関わっている人ならば、主人公に共感できる部分がきっとあると思う。
前作の長編『空気の中に変なものを』でも、作者が影響を受けたであろう小説や映画、ゲームなどのオマージュが散りばめられていたが、今作はそれをもっとピンポイントかつ確信犯(誤用)的に取り入れている。
それは20世紀の小説世界を、作者なりに21世紀に上書きしてみた感もある。大胆な取り入れ方にニヤッともするし、それを好意的に感じられるのは、江戸川台ルーペの文体がすでにできているから、とも言える。
生きるのはこんなにも辛く、そして素晴らしい。
日々を懸命に生きたくなるし、大切な誰かに寄り添いたくなる作品です。
世の中には理不尽があふれている。
理不尽と向き合う姿をえがくことが、文学に課せられた使命ではないかと、俺は勝手に思っている。
つまり、作中の登場人物スギモトさんよろしく、この作品の文学性の有無を判断するならば、当然のことながら『有』ということになる。
文学性の有る作品が、もっとwebでも評価されればいいのにと思う。
そう、この小説はwebでもっと評価されるべき物語だ。
もう一度いうが、世の中は理不尽なことであふれている。
まったく人生はままならない。
ままならないばかりか、信じられないような不幸が降りかかることもある。
立ち向かうのか、翻弄されるのか、迎合するのか……
人には罰ではなく、赦しが必要だ。
人は赦され、ふたたび立ち上がるべきなのだ。
人が苦しみから立ち上がろうとする姿は美しく、そして美しさは俺たちに力を与えてくれる。
登場人物たちに、赦しが、そして救いが訪れるのだろうか。
傷つき打ちひしがれた登場人物たちは、ふたたび立ち上がって歩き出すのだろうか。
ぜひ、ご自身の目で確かめていただきたい。
これは、あなたに力を与えてくれる物語だ。
なんで世の中こんなにうまくいかないんだろう――現在の最新話(29話)まで読み終えた感想です。
1話目の軽快なやり取りや素敵な文体に惹かれてどんどん読み進めていたのですが、途中から徐々にヘビーな話が出てきます。多分人によっては読むのが嫌になってしまうかもしれない内容もあります。私も一瞬読むのを躊躇いましたが、でも何故か凄く続きが気になるんですよね。
休憩を挟みつつも気付いたら続きを読んでしまっていて、読んだからこそ「ここまで読んでよかった」と清々しい気持ちになって……と思ったらまた不穏な雰囲気が出始める。
なんで世の中こんなにうまくいかないんだろうと思う一方で、これほどではないにしても世の中って大体そういうものだよねと妙に納得させられます。
紹介文によると主人公が「今までの自分とは違う誰かになっていく」物語とのことですが、先述したような世の中の不条理について、主人公の体験を通して読み手にも考えさせるような作品です。
渋谷のスクランブル交差点を越えなくては行きたい店に行けない。なので信号が青になるのを待つ。人がたくさんいる。目的地に向かって速足で人々は歩いていく。「映え」る写真を撮ろうとする海外旅行客がいる。お喋りしながらだらだらと歩く人もいる。
人間はたくさんいる。
それぞれがあまりに孤立し断絶していることに驚いてしまう。
私と他者。私の知らない物語がごった返しているのが、世界だった。語ることもなく、ごろごろ物語はある。
ツイッターのタイムラインで「おすすめ小説」が流れてくる。Webでタダでこんなすごいものが読めるなんて! とかプロの書くものより可能性が、とか。で、読んでみる。センチメンタルと暴力の物語だ。すごい! すごい! と検索してみるとみんながいっている。
誰かに読んでもらいたい、君に届け!
届くためにはいったいなにが必要なんだろう? と考えこんでしまった。
信号は赤になる。
なにかを書きたい人は、その作品を理解してくれる人、称賛してくれる人、偉い人(本にしてやろうとかいってくれる人)をもとめている。
この作品は、「聞き手」の物語だ。あるいは「君にこれから重要なことを語る」と選ばれた人の話だ。
素人の話はオチがない。しかし真剣で個人的で切実である。
私たちは小説と僕を通して、他者の言葉に耳をすます。
他人の心があるという皮膚の先に触れようとする小説である。
だからここに綺麗事はない。
なぜか内田樹の『街場の文体論』を思い出しました。
まだ途中だけど書かせてください。
面白い。
引き込まれて逃げることを許されない。
この物語には今のところ綺麗事は出てこない。話は非現実性に満ちているのに、そこに在るかというような錯覚に陥ってしまう。
目の前に、触れられない衝動的な「汚さ・気持ち悪さ」がある。
触れたらきっと「ざらり」とした手触りがするに違いない。
しかし、出てくるキャラクターを嫌いになれない。
主人公を、スギモトを、トキトオさんを、まるで隣人であるかのようにそこにいるように感じさせてくれる。
遠くで起こっていることじゃない。すぐそばにあって手の届く非現実だ。
その非現実的な物語は現実を食らいつくすかのように、読者を、物語の先へ、先へと押していく。
それがこの作品の作家としての力量であり、エネルギーの塊のようなこの衝動的な作品を読ませてしまうのだ。
圧倒的筆力。
それを感じたい方、または疑う方はぜひ読んでいただきたい。
語彙力が貧困でこの衝撃を書き表せないくて申し訳ありません。
まあ、とりあえず3話くらい読んでみてください。
ぞわぞわと先が気になり始めるので。