死の淵を歩く者たちの生き方を切り取ったナラティブ小説

 ナラティブというのは、直訳すれば"物語"という意味の英単語だが、昨今、特にゲーム業界で取り沙汰されているこの"ナラティブ"という言葉は、明確な目的やストーリーラインを語る事なく、ゲーム進行や物語の解釈をプレイヤーに委ねるスタイルを取ったゲームを言い表すのに使われている。言い換えれば、主人公──つまり物語の語り手に対して、プレイヤーが同一視を覚えるようなゲームを指す言葉であると言える。
 この短編集の一編を読んでまず脳裏を過ったのは、この"ナラティブ"という言葉だった。
 何故だろうか。それは本作が、それぞれの短編の世界観についての説明がほとんど為されていないからだ。
 この短編集で描かれているそれぞれの世界は、我々が暮らしているこの世界と似通ってこそいるが、どうやら地続きにある世界ではないらしい。それがわかるのは、作品内の端々に散りばめられた聞き慣れない言葉や、見慣れない描写があるからだ。だが、一部の例外を除き一人称の語り手視点で語られている地の文では、その部分に関してほとんど触れられる事はない。
 この我々の世界に近似値を示しながら、決して交わらない世界観──どこか不気味で、それでいて幻想的で、そして死を身近に感じ、ともすれば死によって成り立っている世界に、読み手である我々はほとんど手がかりも与えられずに放り込まれ、誰とも知れない語り手の頭に閉じ込められる。そして彼ら、彼女らの見たもの聞いたもの考えたことを、ひどく感覚的で詩的な描写によって体験してゆく。
 もちろん、ノベルゲームですらないただの小説である本作において、読み手である我々はただ語り手の追体験をするのみであり、そこに選択の余地はない。それでもナラティブを感じたのは、この語り手達には名前がないからだろう。一部のキャラクターを除けば、彼ら彼女らには名前がない。たとえ名前を持っていたとしても、それはそのキャラクターに与えられた役割を表す冠であったりする。だからある意味で、それぞれの短編の語り手たちは無個性的なのだ。
 さらに先に述べた、世界観に対する解説が乏しい事も、語り手たちの無個性さに拍車を掛けている。語り手たちが一人称の地の文において、彼ら彼女らの視点からどれだけ饒舌にその考え方を語っても、読み手である我々は世界観に対する理解が乏しいから、何故彼らがそういう考えに至ったのかを読み解き、自由に幅広い解釈をする余地がある。
 きっとそれぞれの短編を読み終えた時、その世界観の解釈は、読者それぞれ十人十色、さまざまな捉え方があるだろう。おそらくそこに、これこそズバリといった明確な答えは用意されていないのではないだろうか。
 この短編集の主題『墓碑銘カレイドスコープ』とは、まったく言い得て妙だ。まさしく万華鏡のように、読み手によってさまざまな世界観が視える。
 それぞれの短編は、そうやって読み手を通し、その頭の中で想像される事でようやく完成する。そう考えたからこそ、レビュータイトルに、ナラティブ小説と銘打たせていただいた。
 この万華鏡から覗く模様の一つを増やして欲しい。
 長文失礼。そして最後に──是非とも、御一読あれ。

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