カムパネルラによろしく

陽澄すずめ

カムパネルラによろしく

 網膜に焼き付いたのが、鮮やかな血の色であれば良かったのに。

 確かにそう思ったはずだったのです。



 つい今しがた産み落とした我が子を抱いて、私は呆然とへたり込んでいました。

 ここは私に与えられた部屋のはずですが、辺りには暗闇が張り詰めていて、わずかの光も見えません。

 先ほどまで胎内で脈打っていたものが、嘘のようになくなっています。

 腕の中に視線を落とすと、赤ん坊の白い顔がぼうっと浮かび上がっていました。それが私には、ただ一つの明るいものに思えたのです。


 軽い、あまりにも軽い、だけど温かな身体。

 産みの痛みこそ記憶から抜け落ちていましたが、この小さな小さな存在に、言い表せない愛おしさがこみ上げてきます。


 あぁ、面差しが私に似ている。


 そう安堵したのは、この子の父親の顔を思い出せないせいかもしれません。

 私は他に何を忘れたのでしょう。

 この命の尊さを前にしては、きっと取るに足らないことに違いありません。


 生まれた子は、『洗礼所』に連れていく決まりでした。

 静かに眠り続ける我が子を腕に抱いたまま、おずおずと立ち上がります。すると闇の中にすっと亀裂が入ったので、私はそこから外へと出ていきました。



 この地に、『昼』という概念はありません。空はいつも深い藍色に染まっていて、そこに無数の星々が輝いているのです。

 昼と夜とを繰り返す世界で生まれ育った私には、陽の昇らないことが初めは不気味でなりませんでした。

 しかし慣れてしまえば美しい世界だと、いつしか思えるようになりました。どんな不安や哀しみも、空に溶けてしまうように感じられたからです。闇が濃くあればあるほど星がきらきらと瞬くので、お天気の良い日はその輝きで心を慰めることができました。

 振り仰げば今も、銀の砂を撒き散らしたような見事な星空です。私はその中に浮かんだカシオペヤ座を見上げながら、そろりそろりと歩みを進めていきました。


 カシオペヤは、遠い国の神話の登場人物です。自分の娘の美しさを自慢したせいで、海の神さまの怒りを買ってしまったという女性の名前。

 彼女は、その娘のことをどうしたのだったでしょう。それもやはり、上手く思い出すことはできませんでした。


 程なくして駅に着きました。

 ホームには私たち以外に誰もおらず、辺りはひっそりとしています。薄暗い照明に羽虫の触れる気配が、かすかに空気を震わせていました。

 やがて二両編成の列車がホームへ滑り込んできて、静かにドアが開きます。私はできるだけ足音を立てないよう、列車に乗り込みました。

 車内はやはり無音で、私たちの他には赤ん坊を連れた一組の男女がいるのみでした。独りの自分が、なんだか惨めに思えてきます。

 私は彼らが視界に入らぬように背を向け、二人掛けの座席に腰を下ろして、我が子をしっかりと胸にかき抱きました。


 列車がゆっくり動き始めます。

 景色を見ようとしましたが、街は暗闇に沈み、あの無数の星すら影も形もありません。車内のおぼろげな明かりが、窓の向こうの闇を濃くしているのでしょう。

 車輌がレールの上を走る振動だけが、腹の底に響いています。音という音は全て、外の張り詰めた空気に吸い込まれているのです。


 不意に、この列車ごと宇宙空間に放り出されたかのような感覚に陥りました。


 銀河鉄道みたい。


 私は幼き日に読んだ物語に想いを馳せました。かの人の描く色とりどりの世界に、かつては強く憧れていたはずでした。

 だけど、私の今いるこの場所は、どうしてこんなにも彩りに乏しいのでしょう。


 知らず知らずのうちに、私は涙を流していました。頬を滑り落ちる雫は、一滴二滴と数を増やしていきます。

 理由は分かりません。ひどく心が覚束なくて、自分の輪郭までもが今にも闇に溶けてなくなってしまいそうな気がしたのです。

 ただ、腕の中で眠る、私の面影をもつ小さな命だけが、私という存在をこの場につなぎ留めてくれていました。私はもう一度強く、我が子を抱き締めました。



 やがて列車が停まり、『洗礼所』に到着したことを知りました。

 しかし私は、わずかな身じろぎすらもできません。なぜだかそこがとても恐ろしい場所であるように思えてならなかったのです。

 いつの間にか、乗客は私たちだけになっていました。車掌らしき男性が、ちっとも腰を上げようとしない私を見かね、声を掛けてきます。


「どうされました?」


 早く席を立って、目的を果たさねば。

 そうは思っても、体は石のように固まったままです。床に着く足が、子を抱く腕が、がたがたと震えています。

 そんな私に、彼は優しい声で言いました。


「大丈夫ですよ、すぐに済みますから。何も心配は要りません」


 急かすわけでも咎めるわけでもなく、その人はただ口元に穏やかな笑みを浮かべています。

 赤ん坊は相変わらず眠ったままです。私はようやく心を決めて、のろのろと立ち上がりました。そして我が子の寝顔を今一度しっかりと認めてから、一歩を踏み出しました。


 開け放たれた扉の外には、真っ黒な服を着た人が立っています。顔には薄布で覆いが被せられ、その表情は窺い知れません。

 私は車掌さんに促されて、その人物に子供を預けました。


 音もなく扉が閉ざされ、車内は再び世界から切り離されます。

 窓を覗いても暗闇が拡がるばかりで、何も目にすることはできません。


 途端、私は全てを理解しました。

 この扉は、もう二度とは開かない。

 私とあの子は、永遠に運命を分かたれてしまった。

 どれだけ祈っても、どれだけ願っても、あの温もりがこの手に戻ることはないのだと。


 視界が昏く塗り潰されていきます。

 ただ一つの光を失くした私は、もうここには居られないのです。

 耳を劈く、けたたましい発車のベル。

 列車が重い身体を引きずるように、ゆっくりと動き始めます。ガタン、ゴトン、ガタン……

 薄れゆく意識の中で、久しぶりに聞いた音。

 それは私の心が引き千切られ、殴打される音だったのでしょう。



 ■ 



 意識が戻って真っ先に視界に入ったのは、わざとらしいほど白い天井でした。窓から差し込む穏やかな光が、私の頬を温めています。


「目を覚まされたんですね」


 掛けられた声に顔を向けると、白衣を着た女性が立っていました。


「……もう済みましたよ」


 哀しげな微笑み。

 私の頭の中に、事実だけが淡々と降り積もっていきます。

 もう、いなくなってしまったのだと。

 夢の中で、陽の光の当たらない世界で、確かにこの腕に抱いていた小さな命は、既に喪われてしまったのだと。


 せめて網膜に焼き付いたのが、鮮やかな血の色であれば良かったのに。

 残されたのは、ただ底の知れない闇ばかり。

 あの仄白い寝顔すら、わずかたりとも思い出すことはかないません。


「数時間で退院できますからね」


 再び明るい世界へ踏み出していく力を、私は持っていませんでした。



―了―

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