かわいいかわいい

詩一

かわいいかわいい

 ペットショップの前、一人の女性がゲージの中の猫を見ていた。

 彼女はしばらく考えた末、店員に話し掛ける。


「すみません。この子を抱っこさせてもらえないでしょうか」

「よろしいですよ。消毒をしますので手を出してください」


 女性は細く長い指をぴんと先まで伸ばし、その手でアルコールスプレーを受けた。


「かわいいですね、爪」


 店員に言われて女性は少し照れたように笑った。


「ネイリストなので」


 つやのあるロングヘア、細長い足にタイトスカートとピンヒール。人前に立つ仕事であるのは、爪以外からもうかがい知れた。

 店員に渡された猫を爪で傷つけないように抱きかかえる。

 柔らかな毛並みが彼女の心を落ち着かせる。

 にー、にーと小動物特有の庇護欲ひごよくを掻き立てる音色が彼女に向けられる。


「この子、欲しいんですけど」


 実は彼女の心は、この子猫を抱っこする前から決まっていた。

 ここは彼女の家から職場までの通り道である。疲れ切った状態でこのペットショップの前を通り過ぎる度、いつもこの子猫の屈託ない寝顔やしぐさに心を癒されていたのだ。

 寂しい一人暮らし。

 彼氏もいない。

 いつ潰れるかも分からない勤め先。

 先行きの見えない将来への不安と焦燥の中で、孤独な彼女の唯一の楽しみと言ったらこの猫が居るケージの前を通り過ぎる事くらいだった。

 そしていつしかケージが邪魔だと思った。一緒にたわむれたいと思った。そう思った瞬間にはもう飼う事を決めていたのだった。

 ペットを飼った経験は無かったものの、愛情があればなんでもできると思っていた。


「では、お手続きをしますので、中の方へどうぞ」


 彼女は子猫を抱いたまま、奥の部屋へと連れていかれた。

 その先で支払いや書類へのサインを済ませていく。

 書類等々をまとめた店員はサインペンを構えて手を出すようにうながしてきた。

 不審に思った彼女は首を傾げた。


「安心してください、水性です。マークを付けるだけですから」


 マークと言うのが何なのかさっぱり分からなかったが、彼女は言われるままに手を出した。

 店員は手首の辺りに丸で印をつけた。


「これをどうぞ、持ってください」


 キャットフードだろうか。そんなのんきな事を考えていた彼女の思考が吹き飛ぶ。

 手に握らされたのは一丁の拳銃。リボルバー。


「え?」


 訳が分からず店員と拳銃を交互に見る。


 モデルガン? と問いかける前に店員は言った。


「気を付けてくださいね。本物ですから」


 女性はますます訳が分からなくなった。


「良いですか? 今あなたの手首に書いた丸印まるじるし、ここに銃口を突き付けて引き金を引いてください。そうすればあなたの欲しがっている子猫はあなたのものとなります」

「は? え?」

「ご安心ください。骨と神経はズタズタになりますが、すぐに応急処置をすれば止血はできます。死ぬことはありませんから」

「いや、なんで? なんでそんな事をしなければ?」

「覚悟を見る為です。これから命を取り扱う以上、相応の覚悟が無ければいけません。そもそもペットたちは人間の都合で生み出された動物です。本来の動物の様に野性的には振舞えません。飼い主が育てる事を放棄してしまえばペットたちは死ぬしかありません。お客様がご自身に向かって引き金を引けるだけの覚悟を持っていれば、必ずやペットを育てきるでしょう。これはペットの為に行っているのです。ペットショップとしての義務なのです」

「嫌だと言ったら?」


 店員は猫用キャリーバッグに入った猫を女性の前に置いた。


「ならば今すぐあなたの子猫を撃ち殺してください」

「え!? 出来ないわよそんな事! なんでそんな事をさせるの!?」

「この子猫はあなたに買われました。飼い猫なのです。あなたが飼わないと言うのならばそれは捨て猫です。捨て猫が辿る末路は保健所、すなわち死です。捨てた時点で殺している事と同義なのはお分かりになりますよね? ならば、長く苦しめたうえで殺すのではなく、いっそ今ここで殺した方が良いでしょう」


 女性が返す言葉を探しているうちに、店員は続ける。


「あなたが飼うと心に決めた時、その瞬間にペットの命はあなたのものなんですよ? 多分飼えるとかきっと大丈夫とか曖昧な考えでペットを飼う人が後を絶たないから、多頭飼育崩壊や保健所での殺処分の数が減らない。これは苦肉の策です」

「でもそれなら、先に言ってくれてもいいじゃない」


 店員は、はぁ、と大きく溜め息を吐いた。


「契約書に書いてありますよ」


 店員が見せた契約書には確かにその旨書いてあった。具体的に【拳銃で手首を打ち抜く】と。それを見て驚愕している女性を店員は睨み付けた。


「こういう事なんですよ。確かに契約書は色々な事が細々と書かれていて読みにくいですし、読み飛ばしたくなるのは解ります。でも、そこにご自分の命が掛かっていると思ったら、絶対に最初から最後まで目を通すはずです。それをしなかったのは、あなたがペットの命を軽視している何よりの証拠です」

「そんな……」


 店員は呆れた顔で女性を見下げながら続ける。


「お客様の覚悟では到底この子を幸せにする事など出来るはずもありません。さあ、殺してあげてください。どうせ自分の大怪我と子猫の命を天秤てんびんにかけたら子猫の命の方が軽いのですから」


 ずいっと追い詰めてくる店員に、女性は気圧けおされながらも、ふと思った。

 そうか。これは本当にペットの事を大切にできるかどうかを試しているだけなのだ。と。

 きっと弾は出ない。音が鳴るだけだ。

 この銃口をペットに向けて撃とうものなら、それこそ飼い主失格。そういう事なのだろう。そうに違いない。

 彼女は意を決し、自分の手首に銃口を押し付け、引き金を引いた。


 ――パンッ。


 乾いた音がした。

 次に強烈な熱が手首に発生した。


「あがああああ!」


 激しい痛みに崩れ落ちる。

 手首を見るとドクドクと血が流れている。中から白いものが見えている。骨だろうか。

 彼女の目は焦点が合わなくなり、やがて気を失った。


 彼女が気付いた時にはもう完全に手当てが終わっており、怪我をした手首はギブスと包帯で固定されていた。


「ありがとうございました」


 寒気がするほど明るい声を後ろに聞きながら、女性は猫用キャリーバッグを下げて帰路に就いた。中では子猫がごそごそと動いている。


 あの銃は本物だった。

 ぐるぐる巻きにされた手の状態を見る事はかなわないが、指先を動かそうとして動かないのだから、神経が死んでいる事は確かだった。

 彼女にとって指先の感覚は生命線だ。仕事ができなくなる。

 店を出る前の事を思い返した。


「こんなんじゃ仕事ができなくなる! アンタたちの所為せいで私の人生めちゃくちゃよ! 絶対に訴えてやるんだから!」


 そう言う彼女に、店員はにっこり微笑んだ。


「どうぞ、ご自由に。国からの許可も出ていますので、訴えるだけ無駄ですけれど」


 本当にそうらしかった。だから今ペットを飼っている人は相応の代償を払っているらしい。


 彼女は後悔していた。

 何をか。

 引き金を引いた事か、猫に向けて撃たなかった事か、契約書に目を通さなかった事か、或いはペットが欲しいと思った事か……。

 何に後悔しているかも分からないが、絶望だけは確実に彼女をむしばんでいく。


 彼女のアパートの近くの橋に差し掛かった時だった。

 大きく溜め息を吐いた時、違和感に気付いた。


「あれ?」


 キャリーバッグの扉が開いていた。

 前を見ると子猫がひょこ、ひょこ、と歩いている。

 彼女はキャリーバッグをその場に置いて走り出した。

 靴のヒールが折れた。

 アスファルトで膝を擦ってしまい皮がむけた。

 それでも走って子猫を捕まえた。

 肩で息をしながら後ろを振り返ると、キャリーバッグが風にあおられて飛んで行った。

 橋の柵を越え、谷底へ落ちて行く。

 ガシャンと言う音が聞こえてくる。


「なんで……」


 子猫と一緒に居たかっただけなのだ。

 今も子猫を助けようとしただけなのだ。


「キャリーバッグ、高かったな」


 放心している彼女の腕の中で、子猫は暴れて逃げ出そうとする。

 咄嗟とっさに抱きしめると、ガブリっと子猫が歯を立てた。


「痛っ」


 噛まれた指先を見ると血がつぷっと浮いている。


 にー! にー! と怒ったような鳴き声を上げる子猫。

 もうその声に庇護欲ひごよくを感ぜられる程の人間的な余裕は持ち合わせていなかった。


「アンタの為に……! 何もかもアンタの為にやったのに……! この恩知らず! 恩知らず!!」


 彼女は猫の首を力任せに掴んで、思い切り振り上げて……

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