第2話 死人語りと二人の娘
うんざりするほど暑い日の昼日中に、埃っぽい道を歩く男がいる。
身に着けているのは、つぎだらけで、そのつぎすらもひどく擦り切れた上衣、鉤裂きを繕った跡の目立つズボン、色あせ、腰の辺りから燕の尾のように二つに裂けたマント、という、物乞いか何かのような風体の男である。
その手には、何かの枝を折り取って、邪魔な小枝を落としただけのような、でこぼことした杖が握られ、背には、衣服に負けず劣らず古びた背嚢が背負われている。そのせいで、一層男の姿はみすぼらしく見えた。
しかし男には、浮浪者や物乞いに往々見受けられるような、薄汚い、垢じみた様子は欠片もなかった。
黒い髪に黒い目の、これと言って特徴のない顔に、疲労の色を少しばかり浮かべて、歩みを進める男。
お世辞にも年配とは言えない年頃の男の口元には、年経た者のような細かいしわが、彫り込まれたように浮いていた。
道には陽の光を遮るものはなく、男は容赦なく太陽に焼かれている。
道を歩きながら、男は時折、誰にともなく頭を下げていた。
普通の人間からすれば、妙に思える動作だ。今、道を歩いているのは男だけなのだから。
しかし男の目には、自分の他にこの道を歩く、幾つもの人影が見えていた。それが、既にこの世にいない者たちであることも、彼は承知していた。
死者たちは男とすれ違っても、特に何かする様子はない。せいぜい、行き会ったときに軽く頭を下げる程度である。
普通ならば見えるはずのない死者たちを見、彼らと言葉を交わすことで、生者と死者の仲立ちをすることを、一生の生業とする者がいる。
死者に紛れるように、破れ衣をまとい、生者としてこの世を生きる彼らを、人々は『
そしてこの男もまた、死人語りを生業としていた。
やがて、一息入れるつもりか、男は道の端に腰を下ろした。腰に付けていた小さな水筒から水を飲み、懐から一枚の紙を取り出す。
そのとき、紙と一緒に、ぽろりと外へ零れ落ちたものがある。男は顔色を変え、慌ててそれを拾い上げた。
それは、円柱形の木箱だった。
男の掌に乗るくらいに小さな箱は、表面に飾り模様が彫刻されている。
箱の表面を点検し、それからそっと蓋を開ける。中のものが無事なのを確かめて、男の口からは安堵の吐息が漏れる。
丁寧に箱を懐へしまい込むと、男は取り出していた紙を広げた。
それはどうやら、この辺りの地図のようだ。
地図を見ながら、男は何やら考え込む。時折目を細めて空を見上げ、太陽の位置を確認する。
つっと指で道筋を辿る。ロウザン、と書かれた村で指は止まり、男は難しい顔で地図と太陽とを見比べた。
しばらく地図を眺めていた男は、かさかさと音を立てて地図をしまった。
杖で身体を支えながら、ゆるゆると先へ進む。
そして黄昏時に男が行き着いたのは、地図上ではカンタルと書かれていた、小さな村だった。
薄闇を透かしながら、男は目を細めて辺りを見回す。小さな村は既に静まり返っていて、灯りが点いているのはせいぜい、居酒屋くらいのものだった。
そこへ足を向けかけた男の頭に、飛んできた礫がぶつかる。
突然の衝撃に、男が頭に手をやると、手は温かい、ぬるりとしたものに触れた。
男が状況を理解するより早く、第二、第三の礫が男に向かって飛んできた。
とっさに両腕で頭を庇う。びしびしと、その両腕へ礫が当たった。
駆けて来る足音。男が腕を下ろしかけたとき、その横腹に、誰かの爪先が食い込んだ。
ぐ、と声を漏らし、身体を丸める。それとほぼ同時に、襟首を捕まれ、引き起こされる。
そこでようやく、旅の男は、自分が顔面に怒気をたたえた若者たちに、取り囲まれていることを知った。
彼らのうち、一人は松明を持ち、二人が男を引き起こしている。そして残る一人が、腕を組んで旅人を見下ろしていた。
胸倉を捕まれる。鼻先すれすれまで相手の顔が近付いた。
「お前だなぁ? ここんとこずっと、スウに絡んで色目使ってやがったのは?」
酒臭い息が顔にかかる。かなり酔っているらしい。
「何の、話ですか」
「とぼけんじゃねえ!」
胸から離れた手が、腹にめり込む。息を詰まらせ、身体を二つに折った男の懐から、ぽろりと例の木箱が零れ落ちた。
旅の男より早く、若者が箱を拾い上げる。それを見て、旅の男がはっと顔色を変えた。
蓋を開け、箱の中を見た若者の顔が、怒りで一層赤みを増す。
「おい、これでもしらばっくれる気か! これをスウに渡して口説こうって魂胆だろ!」
「違います。それを返してください。それは人から預かったものです。他人に渡すわけにはいきません」
答える口調はきっぱりとしたもので、若者に向けられた両目にも、それまでとは違う、強い光が揺れていた。
が、その態度は、一瞬若者をたじろがせたものの、状況を改善させるには至らなかった。
背を強く蹴られる。その衝撃で息が詰まった。
頭に血が上っている若者たちの、容赦ない拳や蹴りが男に集中する。
「おい、マーシュ。松明、貸せ」
マーシュと呼ばれた、松明を持っていた若者が、木箱を持つ若者に松明を渡す。
残りの三人によって、地面に押さえ付けられた旅人の眼前で、木箱に火が付けられた。
そのときだった。
それまでほとんど抵抗らしい抵抗も見せなかった旅の男が、獣が吠えるような声を出しながら、三人がかりの拘束を振りほどいた。
一瞬も躊躇うことなく、旅人は木箱に手を伸ばす。自分の手が焼けることなど、気にもせずに。
「何やってんのよ、あんたたち!」
突然、そんな声と同時に、桶一杯の水がその場の全員に浴びせられた。
水を浴びせたのは、今しも居酒屋から走り出てきた一人の娘だった。
消火を免れた松明に照らし出された娘は、赤い髪を後ろで一つにまとめ、簡素なワンピースの上にエプロンを着けている。
スウ、と若者たちの誰かが呼んだ。
「ローアル、この人に、何してるわけ?」
呼ばれたことは無視して、スウが、ずい、と桶を片手に詰め寄る。その目はきりりと吊り上がっている。
「いや……こいつだろ? スウに付きまとってるって……だから、懲らしめてやろうと……」
ついさっきの威勢が嘘のように、ローアルと呼ばれた、木箱に火を着けた若者がもごもごと答えた。
「誰がそんなこと頼んだの? 言っておくけど、あたしそんなこと頼んでませんからね。それに、この人は何の関係もない人じゃないの」
スウの指摘に、ローアルを含めた全員が青ざめる。赤の他人を私刑にしていたとあっては、そうなるのも当然だろう。
頭上で交わされる会話をぼんやりと聞きながら、旅の男は、徐々に意識が遠ざかっていくのを感じていた。
死んだように眠っていた旅の男は、村に着いてから丸一昼夜経って、ようやく目を覚ました。
男の頭と右手には、白い包帯が巻かれている。
痛みに顔をしかめながら、肘を付いて身体を起こす男。
寝ていた低いベッドの横には椅子が置かれ、その上に、彼が着ていた服がきちんと畳まれて置いてある。その傍には、背嚢と杖も揃えられていた。
ベッドの横にある小さなテーブルには、焼け焦げた木の小箱が置いてあった。
左手でそれを取り、蓋を開ける。クッション代わりに詰められていた真綿も少し焼けてしまっていたが、包まれていたものはどうやら無事らしかった。
そのことに、男はほっと胸を撫で下ろす。
箱をテーブルの上に戻そうと、手を伸ばした男はその姿勢のまま、部屋の片隅に目をやった。
そのとき、ノックの音が部屋に響く。
入って来たのは、あの、スウと呼ばれていた娘だった。起き上がっていた男を見て、娘の頬が緩む。
「良かった。起きてたのね」
「助かりました。ありがとうございます」
「ううん。ごめんなさい。とんだ災難だったわね」
いえ、と微笑む男。それから、ふと真面目な表情になって、スウに問いかける。
「失礼ですが、最近、どなたか親しい方を亡くしてはおられませんか?」
スウが小さく息を呑む。その顔には驚きの色が浮かんでいた。
「ええ……母を。でも、なぜそれを?」
男はすぐには答えず、少し間を置いてから口を開いた。目を、部屋の片隅に向けたまま。
「さきほどから、あなたによく似たご婦人が、そこに立っておられるので」
そこ、と示された場所に目をやっても、スウには何も見えない。しかし男には、娘を見守る女の姿が見えていた。
「あんた、何なの?」
困惑と警戒の現れた表情で、スウは男に問いかける。男はひるむでもなく、ただ一言を口にした。
「死人語りです」
小さくスウが息を呑む。
「母さん……そこにいるの?」
ひどく震える声で、スウが呟いた。隣で男が頷く。
「必要ならば伝えましょう。あなたの言葉、あなたの思いを」
歌うような男の言葉。
男の視界の隅に立つ女が、唇を動かす。時々頷きながら、男はその言葉を聞き取った。
「……何を、聞いたの?」
「『あなたは頑張りすぎるから、あまり無理をしないで』。それと、『いつも私を思ってくれて、ありがとう』」
スウの茶色の瞳が揺れる。零れそうになった泣き声を抑え、彼女は死人語りの男に頭を下げた。
朝日が昇りかける頃、カンタルを出る死人語りの男の姿がある。彼の頭と右手には、未だ包帯が巻かれたままだ。
まだ怪我が治りきっていない状態で発つことに、スウは反対していたが、男は笑みのまま、先を急ぐからと押し通した。
ぼろぼろの衣服に古い背嚢、でこぼこした杖。
この村に来たときと見た目はほぼ同じだったが、唯一、マントの鉤裂きは綺麗に繕われていた。
傷に響くのか、男の歩みは遅い。
幸いなのは、今は日が長い季節だということだ。明るいうちにどこか泊まれる場所を探すこともできるし、野宿をするにしてもそれほど寒くはない。
かなりゆっくりと進んでいた男の足でも、暗くなる前には、目指していたロウザンに着くことができた。
道中、ほとんど休まずに足を運んでいたせいか、男の顔色はそれこそ死人のようになっている。
宿を取り、あてがわれた部屋まで向かうと、男はろくに着替えもしないまま、荷物と例の木箱を置いて、ベッドに倒れ込んだ。
翌日の昼過ぎになって、ようやく男は起き上がった。木箱を懐に入れ、背嚢を背負い、杖を手に宿を出る。
あちこちで何か尋ねた後、男が足を向けたのは、一軒の民家だった。
ドアを叩くと、程なく中から一人の娘が顔を出した。
「何の御用でしょうか?」
「すみません、セシリア・イルドさんのお宅はこちらでよろしいでしょうか?」
「ええ、ここですけど。何か、私に御用ですか?」
緩く波打った栗色の髪を揺らし、困惑の表情で首を傾げる娘。
最も、ぼろぼろの着物をまとった、見ず知らずの怪我人が、自分を訪ねて来たとなれば、誰でも困惑するだろう。
室内に招き入れられたものの、男と相対しているセシリアの表情には、未だに不審の色が表れている。
死人語りの男は、彼が最もよく見せる、穏やかな笑みを顔に浮かべて頭を下げた。
「私は、死人語りを生業としている者です。あなたに、ダマにいた、ハンス・レヴィンという方から、預かったものがありますので、ここまで伺いました」
この言葉を聞いて、セシリアの顔がさっと青ざめた。
「ハンスに何かあったんですか?」
死人語りの男の腕を強く掴み、縋るような目でセシリアは彼を見上げる。辛い報せを聞かせてくれるなと、その青い目が訴えていた。
目が合うことを避けるかのように、男は少し目を伏せた。
「ハンスさんは……一月ほど前に、病気で亡くなりました」
低い声でつづられた言葉を聞いて、女が息を呑む。
彼も、こんな報せは伝えたくはなかった。しかし、言伝をきちんと伝え、預かったものを渡すのが彼の役割である以上、言わないわけにはいかなかった。
「ハンスさんからの言伝です。『セシリア、誕生日おめでとう。ずっと一緒に、と言っていたのに、その約束を守れなくてすまない。自分はいつまでも見守っているから、どうか幸せになって欲しい』と。それと……これを預かりました」
ややぎこちない動作で、彼が取り出したのは、あの木箱だった。
「きちんとした形でお渡ししたかったのですが、来る途中に事故に遭ってしまいまして。でも、中身は無事ですから」
セシリアが、そっと箱を手に取った。
焼け焦げた蓋を開け、真綿に包まれていた小さな紙包みを取り出す。
包みを開け、包まれていたものを目の当たりにしたセシリアは、その目から涙を溢れさせた。
薄葉紙に包まれていたのは、小さな、白い石のブローチだった。
楕円のつるりとした表面には、女の横顔が浮き彫りで彫り込まれている。それがセシリアの似姿であることは、誰の目にも明らかだった。
ついにセシリアは、声を上げて泣き出した。
死人語りの男は、左手で娘を軽く抱き寄せた。彼の肩に顔を埋めるようにして、セシリアは激しく泣きじゃくる。
男は黙ったまま、セシリアの泣くに任せていた。
こういった場合にかける言葉を、彼は持たなかった。だからこそ、一言も口をきかずに座っていた。
しばらくして、ようやく涙をおさめたセシリアは、握っていたブローチを、震える手で胸元に着けた。
着ていた青いワンピースに、一点、白が入る。
「ありがとうございました。わざわざ、伝えていただいて」
「お気になさらず。……よく、お似合いです」
一瞬、再びセシリアの目に涙が浮かぶ。それをさっと指ではらい、娘はややためらいがちに口を開いた。
「あの人に……ハンスにも、お礼を伝えていただけないでしょうか」
「ええ、もちろん。何とお伝えしましょうか?」
「ありがとう。私は……私は、大丈夫だから、安心して休んで、と」
「はい。必ず、伝えましょう」
セシリアは、感謝の印に深く頭を下げた。
翌朝、まだ夜が明けて間もない頃、ロウザンを発つ死人語りの姿があった。
死者への言伝を携えて、彼はゆっくりと足を運ぶ。
その口元には、柔らかな笑みが浮いていた。
死人語り 文月 郁 @Iku_Humi
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