第3話

 文子は雨に当たったことが原因で熱を出し、床に伏せていた。熱でぼんやりとした頭で、家の中が騒がしいことには気がついていた。少女の耳には、なにもかもが遠くの出来事のように音が入ってくる。遠ざかり、近づく話し声は何を話しているのか理解できなかった。

 僅かな食事をし、苦い薬を口の中に流し込まれ、また眠る。その繰り返しの中で、文子は夢を見ていた。

 祭りの夜。提灯の灯りがふわりと浮かび上がり、周りを照らす。金魚が灯りの間を縫うように泳いでいた。魚の形をした金魚は、すいすいと目的の場所へ向かうようにまっすぐ進む。

「待って」

 追いかける文子の足は、鉛のように重く、一向に早く動けない。金魚は先へと行ってしまう。もがくように進んだ先には、神社。鳥居へと向かう数段の階段に、ひとの姿をした金魚が腰をおろしていた。白い足が覗いている。

「こんばんは、ふみちゃん」

 少女の方を一瞥もせずに、金魚が告げる。その声は、沙子の声によく似ていた。彼女が少女から女になったら、こういう声になるのだろうと、文子はおもった。

 暗い夜の底にいる彼女の姿が不思議とよく見える。

「見えるひとは初めて。よかった、あなたに会えて」

「あなたは誰?」

「きんぎょ、でしょう。ふみちゃんがそう呼んでくれるなら」

 あなたは特別なの。あなたが必要だわ。

 その言葉はひどく甘くそして、残酷に文子の中で響いた。胸のなかにある水を掬いあげ、そしてゆっくりと落としていくようだった。

 金魚は白い手を差し出す。その手は沙子によく似ていた。白い手が紅い指先が、文子を誘う。その手を取る前にふわりと風が吹いた。金魚はその風に乗って宙を舞う。文子の身体も、浮き上がる。気がつくと、文子は赤い着物で金魚になって泳ぎまわっていた。それはとても心地よかった。

「さあ、ふみちゃん。わたしを選んで」

 わたしたちはお互いに、わたしたちが必要なの。

 文子はその言葉に頷いたような気もするし、なにもできなかったような気もした。

「ふみちゃん」

 沙子の声と同時に腕を引っ張られたように身体が浮上していく。その手は細い彼女からは考えられないほど力強く、文子を引き上げる。勢いにのまれるように、意識も浮上する。はっと、気が付いたように目を開けば、布団の中で呻いていた。

 文子が熱を出して寝込んでいる間に、沙子たちは既に帝都へと出発していた。旅立っていくのを、金魚だけが見つめていた。



 金魚が沙子ではなく、この土地に憑いているらしいと気が付いたのは沙子が居なくなってからだった。

 沙子の家に届いたという手紙は文子の家にも届いていた。薬商の文子の父親と薬学に詳しい沙子の父親にそれぞれに。この地では珍しい薬草が取れる。薬にも毒にもなるものが多く、その扱いは沙子の父親に一任されていた。

 その薬草を帝都のとある大学に卸し、沙子の父をその大学に呼び出すものだった。差し出し人は沙子の祖父。家のことに興味を持たず、ただ学問に専念し、駆け落ちしようとした沙子の父を勘当した人でもあり、武士だった文子の父が商売を始める際に援助をしてくれた元藩主でもあった。彼らはお世話になったその人の頼みを拒否することはできなかった。

 沙子の両親は帝都へと向かい、沙子もまた、事実上人質同然の形でそれに同行することになった。沙子は両親と離れ祖父の家で暮らすのだと言う。文子は沙子の家の事情を知らなかった。町の子とは少し違うと気がついていただけ。

 文子の父宛には沙子の父や祖父から手紙が届く。時折、沙子からの手紙がその中に入っていることがあった。家で開けるのが気恥ずかしくて、文子はよくその手紙を持って神社へと向かう。社へと続く階段に腰掛けて、そっとひらく。微かに甘い香りがした。

 帝都での生活、新しい友人たち、楽しかったことが詰まっているその手紙は、物語のように、煌めいて見えた。しかし、最後には決まって、文子に会いたい、そちらに帰りたいと書かれていた。その言葉だけが、文子の救いのようだった。

 もうすぐで帰れそう、と書かれた手紙が届いたのは、沙子が帝都へ行ってから一年が経とうとした頃だった。もう少しで両親も一緒に帰ること、そして、最後に遠回しな書き方でもし良ければ帝都に遊びに来ませんかと書かれていた。文子の胸は高鳴った。縁もないと思っていた帝都で、沙子が待っている。

「さこちゃんに会いに帝都に行きたい」

 夜、眠る前に文子が切り出した。両親は顔を見合わせ、悩むような表情を浮かべる。お母さんは、夫に任せるという顔で黙って見つめている。不安の影が見え隠れしていることは文子にも分かった。

「帝都へは一人では行かせることはできない。分かるだろう?」

 紺の着流し姿の父親は、腕を組んで目を閉じた。何かを考えるときの癖だ。文子は母親が目配せで寝なさいと告げていることに気がついて静かに下がる。一人になった途端、頭の中に勢いよく今の出来事が流れ込んでくる。小さく深く息を吐くと、涙が溢れそうだった。

「さこちゃん」

 偶然、両親の話を聞いてしまった文子は嫁入りが決まりそうだということを知っていた。相手は知らない。ただ、もう沙子が戻ってきたときに、この町にはいないだろうことは分かっていた。

「さこちゃんと約束したことを、分かってくれない」

 金魚が、文子のことを後ろから抱きしめる。触れられないはずの彼女に確かに抱きしめられているような気がした。振り返ると、彼女が文子の顔を覗き込むようにして微笑んだ顔が滲む。文子は金魚越しに魚の金魚が泳ぐ鉢を見た。その鉢の中はいつの間にか空になっていて、水だけがそよいでいる。

「わたしはいつでも一緒にいるわ」

 耳元で囁かられるように聞こえる甘い言葉。

「ずっと、ずっといっしょにいましょう」

 ね、と差し出されたその手をいつ取ったのかも、文子は思い出せなかった。気がついたら文子はいつか見た夢のように、宙へ浮いていた。赤い着物を羽織り、なびかせるようにして。

 目の前には文子と良く似た顔の少女が立って、金魚になった文子を見ていた。慌てて手を伸ばそうとするが、その手は届かない。触れられない。

「ふみちゃん?」

 まっすぐに文子を見つめるその声は、確かに文子のもので、それに気がついた金魚は驚いて口を押さえる。漏れ出た声は文子に届いてしまう。自らの身体を抱きしめるように金魚だった彼女は後ずさり、姿を闇に溶かした。ただ、文子だけが立ち尽くしたまま見ていた。少女にはもう、沙子を待つための長い時間だけが残されている。



 金魚にとっては偶然辿り着いたひとを眺めていただけだった。沙子を選んだのは彼女の方が美味しそうに見えた。それだけのことで、特に意味はなかった。

 ただ金魚はひとになる夢を見ていた。

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夜に流れる朱華 たまき @maamey_c0

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