夜に流れる朱華

たまき

第1話

「ふみちゃん、やっと会えたね」

 布製の空色の紐で髪を結わえた着物に袴姿の少女が一人、神社の前に佇んでいた。足下には革靴。舗装のされていない道の上では、砂で汚れてしまっていた。

 彼女は愛おしそうに目を細め、境内へと登る階段の一番上のあたりを見つめている。そこには、だれもいない。

「ずっと返そうとおもって、持っていたままだったの」

 沈みかけた夕日が差し込み、眩しい。おだやかな光の中に、少女の影は溶けてしまう。

「ね、ふみちゃん」

 沙子は髪に結わえてた髪紐をしゅるりと引き抜く。掌のなかにふわりと落ちたそれを、上に向かって差し出した。見えない誰かがその紐を掴んだように、一度、引かれる。そんな、気がした。



 家のなかでも聞こえる喧騒と祭りの足音に、文子は逸る気持ちを抑えきれなかった。そわそわと、落ち着かない気持ちで母親に髪を結わえてもらう。赤い帯に合わせて作った髪飾りを付け終えた母親がぽんと背中を押すのと、玄関先でごめんくださいと声がしたのがほぼ同時だった。

「さこちゃん、ちょっと待ってて」

 文子を迎えに来た沙子が、分かったと応える。その声を聞いて、急いで空色の生地に金魚の柄の入った浴衣に合わせて編んでもらった巾着袋を持った。青い糸で編まれたその巾着に彼女がいれた刺繍の柄が見えるように持ち直す。

 初めて一から縫ったこの浴衣を、文子はたいそう気に入っていて、一日でも早くお祭りの日にならないかと待っていたのだった。

「おかあさん、行ってきます」

「行ってらっしゃい。なにかあったらお姉さんに言うのよ」

 文子の妹の千代を抱え直しながら、母親が声をかける。なにかあれば、近くに住むお姉さんやお兄さんたちに声をかければ助けてくれることは小さい頃からの習慣で分かっていた。

 はい、と上の空で返事をしながら、文子は小走りで玄関先へと向かった。玄関先では沙子が薄紅色に膝のあたりから裾にかけて墨で描いたような丸が大小三つ入った浴衣姿で立っていた。背中の中程まである髪を下ろし、頬にかかる髪を片側だけ髪留めで留めている。日頃、大人しく目立たない彼女が華やいだ雰囲気を身に纏っていた。

 所在なさげに立っていた沙子は文子の足音に顔を上げ、安心したように表情を緩める。

「ふみちゃんが縫った浴衣、かわいいね」

 沙子の方が器用なことは分かってはいたが、素直に褒められると文子も嬉しかった。

「ふみちゃんは、晴れた日の空の色がとても似合うと思う」

 周りから大人しい子だと思われがちな沙子も、文子が相手だとよく話す。小さく抑えられた少し高めの澄んだ声は可愛らしく、彼女の話を聞くのは楽しかった。

「ありがとう」

 行こうと腕を取ると、浴衣越しに腕の細さが感じられる。肉付きのよくない身体を沙子が悩んでいるのは知っているが、文子はこのままで良いのにと思っていた。

 玄関先から一歩踏み出すと、祭りの空気に包まれる。今日は特別な一日になりそうな気がした。



 秋の祭りは感謝の祭り。

 普段から数軒の屋台が並ぶが、今夜は一際多く、そして訪れる人も多い。神社の敷地を囲むように屋台が立ち並び、色とりどりに輝いていた。文子の目にはそれが鮮やかに映り込む。一年に一度の祭りの夜の、どこまでも登っていくような熱気と、昼間とは異なる喧騒、特別な夜の空気。体内の空気が祭りのそれへと入れ替わり、普段とは違う自分へと変わっていくようだった。

 まだ明るかった空が夜を迎いいれるようになると、あちらこちらに吊り下げられた提灯のぼんやりとした灯りが強調される。闇色の中に浮かぶ、橙。文子は急に不安になって、隣の沙子の手を握った。その気持ちに応えるように、沙子もまた握り返す。その手から、あたたかいぬくもりが伝わってきて、文子は安心するようにふと肩の力を抜いた。

 鳥居の下で並んで立ち止まった二人は、数段の階段を上り、境内の中を覗く。奉納の舞の舞台ができあがっていた。正方形の形をしたその屋根のある舞台の下にはお神酒や杯が置かれている。あとは、舞手を待つばかりの様子だった。

「どこへ行こう?」

 少し高くなったその場所は、まだ境内に参拝する人は少なく、二人が息をつくにはちょうど良かった。熱っぽいひとびとの中にいるのは、楽しいけれど息苦しい。

「ねえ、あそこを見て。何だろう」

 沙子の指差した方向に、ぽつんと小さな屋台が見えた。少し離れた木々の間の陰に隠れるように灯された提灯の灯り。

「行ってみよう」

 文子が手を取ると、沙子は提灯の明かりを見つめて渋っていたが、ね、と文子の甘えた声に負けたようにちいさく頷き返した。人見知りでやさしい少女のことを、文子は好きだったし、最後には付き合ってくれる彼女のことを信じていた。

 ぽつりぽつりと増え始めた提灯と灯籠の灯りが彼女たちを囲む。神社に背を向け、人の波を抜けきったところに、その屋台はあった。

「きんぎょ?」

 呟くように漏らした沙子の言葉に文子も頷く。

 屋台の前の低い水桶の中に、赤い金魚が白い尾をはためかせて泳いでいた。たくさんのその鮮やかな赤に二人は目を輝かせた。木製の四角い桶の前に並んで座り、泳ぐのを眺めていると、時間を忘れるような気がした。彼女たちの父親くらいの年齢をした屋台の人も、その様子を眺めていた。

「うつくしかろう」

 少女たちは同じようにきらきらと瞳を輝かせて深く頷いて見せる。

「今夜のは特にうつくしい。提灯の灯りと闇の色と金魚の赤は特別だ」

 確かにその通りだと、文子は思った。夜に見る金魚はまるで、特別な魚のように見える。

「お父さんとお母さんに頼んでごらん。いっとううつくしいのを取っておいてあげるから」

 優しく微笑んだ口元に灰色の髭をはやしている。

 その時、文子の目の端に赤いものが過ぎった気がして目を向けた。闇の中にぼんやりと浮かぶ灯りだったのかと、沙子の方へと振り返り、そこで動きを止めた。

 沙子の肩の辺りに手を添えるように赤い、不思議な格好をした女性が立っていた。少女はその存在に気がつかないように、不思議そうに文子を見ている。その女性も、似たような表情で小首を傾げ、彼女のことを見つめていた。

 流した柔らかな黒い髪。赤い紅を差し、赤い布から白い足が覗く。爪先もあかく染まっていた。見慣れない形をしたその着物は、まるで麻袋を被っているように裾が広がりひらひらと揺れている。前は膝が見えるか見えないか程度に短く、後ろを長くはためかせ、裾は白く染まっていた。金魚だ、と文子はとっさに思った。金魚が沙子の後ろを泳いでいる。

「おや、珍しい。気に入られたんだね」

 金魚は宙でくるりと回ると、赤い布もくるりと舞った。そして、背後から沙子を抱きしめる。それはひどく作り物めいていて、文子はどうして良いのか分からなかった。

「これを持ってお行き。見えるのだろう?」

 一匹の金魚を掬い上げ、それを小さな器へと移す。文子は差し出されるままにそれを受け取る。水の入ったその器はひんやりとしていた。

「ねえ、ふみちゃん。どういうこと?」

 不安そうに背後を何度も振り返りながら、自分を見つめる文子に尋ねる。彼女にはなにが起きているのか分かっていないようだった。

「金魚が周りを泳いでいるの」

 ほら、と示した方向を沙子が振り向く。それに反応するように金魚はふわりと微笑んだ。眦が溶けていくようにやわらかに、少女たちを見ている。沙子に反応する金魚に面白くない気持ちと自分にしか見えない優越感で文子はぎゅっと口を結ぶ。視線を落とすとくるりくるりと金魚が水の中で泳いでいた。

 そのとき、ぽーんっと鼓の音が響いた。その音に反応するように二人は顔を神社の方へと向ける。もう一つ、ぽんとなった音は舞の始まりの音。

「行こう」

 どちらからともなく差し出した手を握りしめ、二人は歩き出す。文子が振り返ると、屋台の陰に隠れて人の姿は見えなくなっていた。沙子の後ろにいたはずの金魚は音の方を眺めていたが、不意に高く泳ぎだすとそのまま夜へと溶けていった。文子はその様子を見守りながら、左手に抱えた器を強く抱きしめる。くるりと、視界の端で赤い円が見えた。


 舞は男衆の務め。

 揃いの紺色の祭り用の着物を身につけ、横笛を鳴らし鼓を叩く。そして、その音に導かれるように現れるのがかたかたと歯を鳴らした獅子。赤く塗られた顔は木製で、緑の文様が描かれている。布でできた胴体は中に入った男たちの手で、くるりくるりと身をよじらせていた。

 文子の父親も、黒い軸の横笛を構え舞に合わせて楽を奏でていた。静けさが広がった舞台の上で、彼らは奉納の舞を演ずる。彼女たちもそれを楽しみにしていた。

 すり足で進んでいた獅子が突如、だん、と足を強く踏み込む。その音に合わせ、鼓の音が早くなり、笛の音も高まっていく。熱気が空へと向かう。息を呑んで見守っていた彼らが、その熱に浮かされたように、口々に声を出す。その騒めきがまた、夜の空気を飲み込んでいく。

 不意に、獅子が高く身体を上げ、そのまま社の方へと走り出す。先頭の男が何かに躓き体勢を崩すと、周りから残念そうな声が漏れた。再び、舞台へと戻るとまた社の中へと走り出す。入口で待ち構える神主がその顔を包み込むように捕まえる。

 二度目まではいつも通りだと文子も分かっている。それでも、獅子が飛び込んでいくのを成功するように見つめてしまう。沙子の左手にも力が入っているのが、繋いだ手から伝わってきた。

 もう一度挑もうとする男たちを鼓舞するように、鼓は早く打たれ、人々も口々に叫び出す。前を見据えた獅子が飛びこむ体勢を整える。顔を低い位置で構え、そして鼓の音に合わせて踏み込み飛び込む。神主もその勢いに押されるように中へと押し込まれて見えなくなった。見えるのは、獅子の後ろの姿。

 ひとつため息がもれ、そして歓声が上がる。獅子が社に飛び込めた年は、良い年になる。人々が舞台の方へと流れ出し、騒ぎ出す。口々になにかを話しているが、その音の群れが大きすぎて、文子には聞き取ることができなかった。

 文子は沙子の手をとったまま、隅の方へと向かい、社の方へ歩き出す。中ではお酒が振舞われる準備をしているころだろう。女衆や子どもが入り込んではいけない。しかし、文子はそっと近付くと小さく鈴を鳴らし頭を下げた。

 隣をちらりと見やると、沙子も神妙な面持ちで頭を下げている。舞い戻ってきた金魚が二人の後ろでその姿を見つめていた。

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