第2話


 祭りが終わると活気が薄れ、冬が近づいてくる。文子が持ち帰った金魚はくるりくるりと元気に泳ぎ回っていた。文子はそれを、飽きもせず眺めていた。初めこそ、金魚を飼うことに難色を示した文子の母親も、次第に文子と二人で眺めているようになった。まだ小さい千代が寝ている間だけの僅かな時間、二人は繕いものをしたりしながら、時折金魚を眺めていた。

「名前を付けないの?」

 お母さんの言葉に文子はとっさにかぶりを振った。文子が名前を付けたら、文子の金魚と沙子の周りを泳ぐ金魚とが、結びつかなくなってしまうような気がした。少女にとってその金魚は特別な存在になっていたし、沙子にばかり反応するのが嫉ましくもあった。

 ひとの姿をした金魚は沙子の周りを今も泳いでいる。


 ある雨の日、文子は家に籠って繕いものをしたり、むずがる千代の相手を務めていた。文子も沙子も、町にある小学校で文字や計算の仕方を男の子に混じって学んでいたが、休みの日は家の手伝いをしていた。時々、文子のお父さんが営んでいる薬屋の方にも顔を出したが、大きくなるにつれて良い顔をされなくなっていることにも気がついていた。しかし、文子は引き出しが壁一面に並び、そのなかに薬となる植物が納められている様子を眺めるのが好きだった。1つ1つにつけられた名札から、何に使うものかを想像する。時折、下働きをしている少しだけ年上の染太にそれが何かを教えてもらうのだった。

 どうしても気になるものを見つけた時、染兄さん、と文子は名前を呼ぶ。少しだけ時間がありそうな時を見計らって、彼女は甘えた声で彼の名前を囁いた。立場上、彼らが表立って嫌な顔をできないことを彼女は知っていたのだった。

 染太は周りを伺うようにすると、文子の近くに歩み寄り、心地の良い声音で丁寧に説明する。少女にとってその一時は大切なものだった。


「ふみ、お願いがあるのだけど」

 雨の音を聴きながら千代の相手をしていた文子は、顔を上げた。文子の手をふっくらした千代の手が叩く。

「お父さんのお店に行ってきてほしいの」

 差し出されたのは一通の手紙と抱えられた荷物。その大きさから、握り飯だろうとあたりを付ける。文子は分かったと答えながら、外の音を聞いていた。雨はまだ止みそうにない。

 軒先から外を見やる。空から布が垂れているような雨は足だけでなく全身がずぶ濡れになりそうだった。着物の裾から脛が出るように着直すと、思いの外背が伸びてしまった子どものようだった。意を決して、文子は荷物を抱えなおし赤い傘をさした。和紙に塗られた油で雨が弾かれてゆく。一歩踏み出すだけで、あちこちにできた泥濘に足を突っ込みそうになる。履いていた草履を脱ぐと、傘を持つ手の指にかける。裸足のまま、歩き出す。指の間に泥がくちゅりと挟まってゆく。それは存外に心地よく、傘に雨が当たる音に耳を傾け、文子は店を目指した。

 道すがら、ふと視界の端の赤に気がついてそちらに目をやると、雨の中を金魚が泳いでいた。頭の先から足の先までびっしょりと濡れた彼女は気持ちよさそうに笑っていた。くるりくるりと回るたびに、赤い布が広がる。空を掴むように手を伸ばした。それは、文子の家にいる金魚の泳ぎとよく似ていた。綺麗だと文子はおもい、ふらふらと近づいていく。もう少しで触れられそうだと手を伸ばしたとき、金魚が文子を見つめた。硝子のような瞳に、文子の影が映る。視線が刺さる。繫ぎ止められる。動きが、止まる。触れようとした手が力なく落ちた。

 金魚ははくはくと、口を閉じたり開いたりしていたが、声は届かない。金魚が水面で呼吸をしているのと同じように。それでも、文子には彼女が何かを伝えようとしているように思えた。

「ふみちゃん?」

 その声に引き寄せられるように金魚は泳ぎ去る。その行方を追うように、文子は緩慢な動きで声のした方へと顔を向けた。予想通り、そこには沙子が立っていた。

「ふみちゃんもお店に?」

 沙子の父親は、文子の父親の店で働いている。そうだと頷いてみせて、二人は並んで歩き出す。傘を打つ雨の音が二人を包んだ。

「ねえ、ふみちゃんの金魚のお話、教えて」

 ちらりと、二人の背後に目をやると金魚はにこりと微笑んでみせた。そして、するりと雨の中へと飛び出してゆく。片足で跳ねた金魚はそのまま宙でくるりとまわる。赤い雨が舞った。

 白い手で、空へと触れる。指先が、儚く伸ばされる。そのまま、上半身をくるりと地に落とすように傾けると、足先を空へと向けた。赤く染まる爪先が白い足に映える。それは舞とは違う、不思議な動きをしていた。文子はそれを、どう言葉にしたら良いのか分からなかった。金魚の動きを真似しても、その力強さと優雅さを伝えることができない。

「手を伸ばしたり、くるくる回ったりして踊っているみたい。すごく綺麗」

 瞳を輝かせて話をするたびに、沙子は羨ましそうな目で何も見えないはずの空を見ていた。文子も、沙子に見て欲しかった。

「ふみちゃんの目は、特別だね」

 金魚の話をした後にしみじみと言われた言葉に、文子は胸を打たれた。誰にも見えないものを見ている不安が薄れていく。

 裸足で歩いていた二人は店の裏側に回ろうとしたが、ちょうど店からお客さんと男の人が現れた。傘をさし、駆け足で歩き出した女性に対し、頭を下げているのが染太だと文子は気がついた。

「染兄さん」

 二人に気がついた染太が濡れるのも構わず駆け寄ってくる。文子の荷物を受け取ると、二人を裏側へと導く。

「こんな日に来なくてもよかったでしょうに」

 呆れ混じりの声に、文子は唇を尖らせる。

「お母さんのお使いだもの、仕方がないわ」

 染太は抱えた包みを嬉しそうに眺めた。微かに温もりが残っている。

 店の裏には井戸がある。そこで足を洗うと、染太が差し出した手ぬぐいで丁寧に足を拭い草履を履き直す。沙子は染太の手ぬぐいを借りることを躊躇していたが、気にせずにともう一度差し出されると、恥ずかしそうにそれを借りる。拭う時によろけそうになった沙子に文子は肩を貸した。その時、金魚がふわりと近寄ってきた。そして、沙子の肩に触れるような仕草をする。文子の手にも微かに触れたその時、声が聞こえた。水の向こう側から囁かれたような遠い声が、意味を取れないまま文子の中に流れ込んでくる。それが金魚の声だと不思議と分かった。しかし、その言葉をはっきりと聞き取る前に、金魚はもう空へと向かって泳ぎ出していた。

「どうかした?」

 声をかけてきた沙子に、首を振って応えると行こうと手を引いた。沙子には聞こえていなかったことに優越感を感じる。

 裏口からお店に入ると、文子のお父さんが板張りの床から少し高くなった場所に置いてある机に向かって何やら書き込んでいる。近くには天秤が置かれていて、薬の調合をしているようだった。

「お父さん」

 文子が声をかけると、ちょっと待てと言うように首を振る。そこに染太が沙子のお父さんを連れてやってきた。

「文子さん、お久しぶりですね。今日は沙子と二人で何かご用ですか?」

「ふみちゃんは別の用事で来たの。これを、お母さんがお父さんに渡してきてって」

 差し出したのは文子が預かった文と良く似たもの。不審そうに受け取ったその文を、沙子の父親は黙って広げて読む。たちまち、顔色が変わった。それを周りの人々は不思議そうに眺めている。

「宗一」

 無意識に文子の父親を呼びかけて、慌てて染太に文子と沙子を奥に連れて行くように指示を出す。文子と沙子の父親は小さい頃からの知り合いで、ふとした瞬間に昔の呼び方が出てしまうと前に文子は聞いたことがあった。

「お父さんにこれを渡してください」

 文子の差し出した文を不思議そうな顔つきで眺めていた沙子の父親は、それを受け取ると頼むと染太の肩をそっと押した。

 良くないことは空気で分かる。三人は暗い表情で店の裏側に面している縁側に座り、雨を眺めていた。膝を抱えて座ると雨で足が濡れることもなかった。雨は少しずつ弱くなっていて、遠くで雷が響いているのが聞こえる。

「ふみちゃん、明日、神社に行こう」

 雨を眺めながら、沙子が言う。視線を文子の方に向けることもなかった。その雰囲気に気圧されるように文子は小さく頷く。分かったと応えると、沙子は安堵の息を吐いた。

「良かった、ふみちゃん。また明日ね」

 少し弱くなった雨の中、沙子は先に帰って行った。沙子の居なくなった文子の隣には金魚が座り、足を泳ぐように動かしていた。



 日が短くなっていた。沙子と文子は神社の階段に座り、顔を寄せ合い尽きない話をして笑いあう。とめどなく話したいことが溢れてきて、たくさんのことを話した。

「いつも一緒にいるのにね」

 話したいことがたくさんあるという沙子に文子が答えると、沙子が表情を強張らせた。

「どうしたの?」

 小首を傾げながら尋ねる。その反動で、短い髪を結わえていた紐はらりと落ちた。浴衣の余り布で作った紐を文子は大切にしていた。二人が同時に拾おうとして、指がぶつかる。

「ふみちゃん、あのね」

 顔を上げた文子の動作が遅れ、沙子がそれを拾い上げる。文子は紐を受け取ろうとしたがその前に目の前の少女がひどく悲しそうな瞳で告げる。

「わたし、帝都に行くの」

 その言葉に文子は固まる。頭の中が沙子の言葉でいっぱいになり、何も考えられない。何と言えば良いのか分からなくなり、口を金魚のように開けたり閉めたりを繰り返す。何を言われたのか理解が追いつかなかった。その様子を沙子が眉根に皺を寄せながら見ていたが、ふいに視線を外す。

「昨日届いた文がその知らせだったの」

 沙子が文子の頬を挟むように両手で触れる。指先の冷たさが文子に伝わる。

「ね、お手紙書くね。すぐに戻ってくるから」

 着物の袖から、お香のかおりが漂う。それは沙子のお母さんと同じ香りで、ずっと一緒にいたのだろうと想像できた。

「ずっと、友だちでいてね」

 文子は溢れそうになる涙を堪えるように目を瞑る。抑えられなかった雫が流れ出す前に沙子がそっと指でなぞった。震える声で、文子は当たり前でしょうと笑いかける。

「約束だよ、ふみちゃん」

 ぎゅっと抱きついてきた沙子の身体を抱きしめ返すと、彼女の細さが分かる。

 文子の肩のあたりがじんわりと濡れていく。それをそのままにして、文子も紺色の着物の頭を押し付けるように抱きしめていた。

 ぽたり、と頭にぶつかる。二人で顔を見上げると、途端に激しい雨が降り始める。慌てて身体を起こすと、二人は手と手をとり走り出す。地を叩く足音と雨音がしていた。

「急いで、濡れちゃう」

 騒ぎながら走っていくと、先に文子の家へと辿り着く。雨は激しさを増していく。

「また、明日ね」

 離れていく沙子の手を追いかけそうになって踏みとどまる。そして、文子もまた明日と返すと、急いで沙子の家の方へ駆けていく。その砂色の着物が雨に濡れて濃くなった影を、文子は家のまえに立ち尽くして見つめていた。金魚もまた、隣に立ってその姿を見送っていた。



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