03_渚とチョコレートパフェ

 ひとつの事件の後、奇妙な共同生活に大きな変化はなかった。カオルは相変わらずナオをちゃん付けで呼んだし、マニキュアを両手の指に塗れるようになったり、少し伸びた髪をポニーテールに結べるようになったりするたび、大袈裟なくらいナオを褒めた。

 もしや全く胸のない女と勘違いしたのではと疑い、思い切ってパンツを脱いで見せようとしたこともあったが、真顔でノーを突きつけられたのでやめた。

 ふたりの生活を終わらせたのは、全く別の出来事だった。

『続いてのニュースです。京都市左京区で、二十四歳の大学院生が先月末から行方不明になっていることがわかりました』

 夕食の時間だった。

 ナオはカオルと話しながら、お茶漬けを口に運んでいた。思わず箸を止めたのは、画面に映ったのが自分のアパートだったからだ。

『行方がわからなくなっているのは、京都市に住む大学院修士二年生の草間くさま佳織かおりさんです。佳織さんは、先月二十八日午後五時、内定先から帰宅する様子が防犯カメラに──』

 行方不明者の写真が映し出される。あ、と声を上げたのはどちらが先だっただろう。桜の木の下、研究室のメンバーと共ににこやかに微笑むその人の顔は、どこからどう見てもカオルだった。

 女性としてはかなり背が高い。隣に並べばナオが見上げる形になるだろう。そう思ってようやく、初対面での既視感の理由に思い至った。引越しの日に、長身の女性と階段ですれ違った。顔をはっきり見たわけではないが、黒目がちの眼と一瞬だけ視線が合ったのを覚えている。

『警察は、「事件に巻き込まれた可能性がある」として、情報提供を呼び掛けています。連絡先は──』

 ニュースは淡々と流れていく。

 ナオがふやけた米を飲み下せたのは、続いて天気予報が始まった頃だった。

 無言のまま、カオルの様子を伺う。呆然とテレビを凝視していたカオルが、視線に気づいた様子でのろのろとナオを見た。

「思い出しちゃった……」

 行かないと、とカオルは言った。




「就活も全部スラックスで通してたし、それで内定も取れたんだけど」

 助手席に置いたクッションと毛布の隙間から、カオルは淡々と語った。

「引き継ぎに行ったら、配属先にいたんだよね。お局様ってやつが」

「実在するんだ、お局様」

「するんだよ、悲しいことに。でさ、四月一日からはスカートで来なさいと婉曲かつ強硬に言うわけ」

 早朝の京都縦貫自動車道をレンタカーで走行しながらの会話である。カオルの様子を伺いたくても、運転手が大々的によそ見をするわけにはいかない。ナオは努力して視線を前方に固定しながら、どうにか舌を動かした。

「それで嫌になっちゃったの」

「それ単体でっていうか、我慢の糸が切れちゃったって感じかな。去年の夏に、大事な人のお葬式があってさ。親にスカートで出るように言われて、結局そうするしかなくて、でも本当はすごく嫌で」

 カオルの声は他人事のように穏やかで、念入りに隠された痛みがちくりとナオの鼓膜を刺した。

「就職して自力で生きていけるようになれば、何か変わるかなって期待してたんだ。でも駄目だった。お葬式でも職場でも変な格好しなきゃいけなくて、それを顔に出しちゃいけなくて、死ぬまでこんな馬鹿みたいな努力を続けなきゃいけないのかって。こんな身体に生まれたせいでって、なるべく思わないようにしてたんだけどね」

 ナオは努めてフラットな口調で尋ねた。

「手術とかは考えなかった?」

「そういうの許す親じゃなくてね。縁を切っちゃえばよかったんだろうけど、どうしても大学院には行きたくて」

 カオルの返答は静かだった。

「でもやっぱり嫌になる時はあって、胸を切り取っちゃおうかとか、お腹を刺しちゃおうかとか、いろんなことを何度も考えたし、実際、嫌になりすぎた時にいくつかは試して、でも結局どれもやりきれなくて」

 だからかな、とカオルが呟く。

「身体の方も、俺のことが嫌になっちゃったのかもね。頭だけすっぽ抜いて郵便受けに突っ込んで出てったみたい」

 実際には階をひとつ間違えていて、ナオが度肝を抜かれる羽目になったが。

「草間佳織が行方不明で済んでるってことは、今は案外、首なしのままどこかで自由を謳歌してるのかも」

「探しにいかないの?」

「今の方が楽だもん。それに、見つけたところで、多分もうくっつかないよ」

 空がうっすらと明るくなり始めている。高速道路を降りるため、ナオはウィンカーを出した。

「だったら出ていかなくてもよくない?」

「万が一家族や警察が探しに来て、ナオちゃんに迷惑かけるといけないし」

「生首のリリースもまあまあリスクあるんだけど」

「ほんとごめん」

「浪人中に免許取っててよかった。生首抱えて電車乗り継ぐとかほんと無理」

「ごめんって。高速代、いつか必ず返すから」

 心底申し訳なさそうな声に、ナオは首を横に振った。

「要らない」

「迷惑?」

「それ言い出すと今までの電気代とか請求しなきゃいけないじゃん」

 料金所を通り過ぎる時は少し緊張したが、助手席の毛布の下に生首が隠れているという状況を普通は想像しない。車中泊用とでも思われたのか、特に怪訝な顔もされなかった。

「それよりさ、気が済んだらさっさと帰ってきてパフェ奢ってよ。新京極しんきょうごくのチョコレート専門店のやつ」

「青い外壁の?」

 うん、とナオは頷いた。短い沈黙の後、カオルの声はやや上ずっていた。

「それってデートのお誘い?」

「まあね」

 努めて平静に応じて、ナオはハンドルを切った。

「ほんとは女子会ってやつを体験してみたかったんだけど、女友達とかいないし。まあデートでもいいや」

「譲歩の末のデート!?」

 カオルは憤慨したようだった。初めて聞く拗ねた声音に、ナオは声を上げて笑った。

 駐車場にレンタカーを停めて、タオルを敷いた紙袋にカオルを入れて降りる。目的地までは一キロメートルもない。少し歩くと、薄暗い中でも特徴的な形の湾が見えた。内海と湾を、白い砂浜と青松の一本道が隔てている。

 海に放してほしい、というのがカオルの要望だった。お墓参りに行きたいから、と。相手が誰かは、死人に妬くのも癪なので、あえて聞かなかった。

 ナオにとっては修学旅行ぶりの一大観光地ではあるが、日の出前ということもあり、人影はほとんどない。紙袋を胸元に抱えて、ナオは片道一時間弱の自然歩道を歩き始めた。釣り人の姿はぽつぽつと見受けられるが、距離があるので互いに声は聞こえないだろう。

「ナオちゃん」

「なに」

「嫌じゃなかったら名前教えてよ。手紙書くから」

直人なおと宮嵜みやざき直人」

 答えてから、ナオは首を傾げた。

「腕もないのに手紙?」

「愛の力でどうにかするよ」

「チャラい」

「チャラくないです」

 無人の砂浜を見つけて、ナオは歩道を外れ、白い砂浜に向かって歩き始めた。

 今日は少しだけ風が強い。脚にまとわりつくスカートを蹴るようにして歩いた。

 仮に釣り人が遠くからこちらを見たとして、今の自分はどう見えるだろう。背の低いナオは、今の髪の長さと服装ならきっと女性に見える。それは少しだけむずがゆく、少しだけ歯がゆいことだった。

 タオルで包んだカオルを取り出して、視線の高さに持ち上げる。もの言いたげな美しい顔の額に、ナオは己の額を合わせた。心臓のない生き物は不思議と温かく、耳を澄ませれば鼓動さえ聞こえそうだった。

「カオル。あのさ」

「うん」

「実はさ。ぼく、女の子になりたいわけじゃないんだ」

 至近距離で眼を合わせて、ナオは微笑んだ。

「男にも女にもなりたくない」

 黒目がちの眼が驚いたように見開かれる。それをじっと見つめながら、ナオは言葉を続けた。

「実家を出て、19年分の直人からやっと解放された。それで多分、たまたま女性側に傾いているだけなんだ。ぼくの身体は男だから、そうしたほうが自分の中で釣り合いが取れるような気がして」

 カオルは恐らく女性が好きなのだろう、とナオは思う。ナオに向けられた優しさの幾ばくかはきっと「ナオちゃん」に対するもので、未知の扱いが嬉しかった反面、騙しているようで少しだけ後ろめたかった。

「可愛い女の子じゃなくてごめん。だけど、男じゃないぼくを初めて見つけたのがカオルでよかった」

 その人がふさわしいと思ったなら、それでいい。自分に言い聞かせるような切実な叫びを思い出して、目を伏せる。

「色々教えてくれてありがとう」

「ナオちゃんは可愛いし、カッコいいよ。女の子じゃなくても、男の子じゃなくても」

 大真面目に言い切って、カオルは甘やかに笑った。

「俺もナオちゃんに拾ってもらえてよかった。イケメンって言ってくれて嬉しかった」

「心配しなくても、初めて会った時からむかつくくらいイケメンだよ」

「むかつかなくてよくない!?」

 朝日が昇ろうとしていた。

 白み始めた空に眼を細めて、ナオは波打ち際へと歩き出す。わざと遠回りをして、波を踏むスレスレで足を止めた。

「ナオちゃん」

「なに」

「俺以外の男を簡単に部屋にあげちゃダメだからね。たとえ生首でも」

「バーカ」

 他の生首なんていてたまるか。

 ナオは笑って、沖に向かってカオルを放り投げた。放物線の頂点でカオルは楽しげに笑って、唇の形だけで「またね」と囁いた。

 海は波紋さえ起こさずにカオルの首を受け入れた。艶やかな黒髪に縁取られた美しい顔は、幻のように水面に溶けて消えた。




 カオルからの手紙が届いたのは、その年の十二月のことだった。「近々会いに行きます」と手書きで添えられた葉書には、美しい沖縄の海が印刷されていた。

 人が心配している間になぜバカンスを楽しんでいるのか。凄まじい丸文字は代筆なのか直筆なのか。代筆だとしたら相手は誰なのか。様々な疑問を抱えつつ葉書を手帳に挟んだ数日後、大学から帰宅したナオは自室の前に女性が立っているのを発見した。

 見た目の性別は違えど、それは確かに待ち望んだ人の横顔だった。

「カオル!」

「ナオちゃん、久しぶり!」

 喜色満面で駆け寄ってくるカオルには明らかに首から下がある。

 デートに誘った以上、一緒に外出する方法を考えなければと思っていたが、まさか自発的に身体ごと戻ってくるとは。

 努めて驚きを隠しつつ、ナオはカオルを部屋に招いた。さすがに廊下で首の継ぎ目を検分するわけにはいかない。

 玄関の扉を閉めて、カオルの姿を確認する。身長はナオと同じくらいだろう。懐かしい顔から生えているのは、肉付きのよい女性の身体だった。

 生首の頃には気にもしなかったのに、触れることが今更躊躇われて、ナオは恐る恐る尋ねた。

「その身体、どうしたの」

「ナオちゃんにパフェを奢るために頑張りました」

 カオルに手を引かれるまま、ナオは姿見の前に立った。

 薄化粧にコーラルピンクのマニキュア。セミロングの髪はバレッタで纏めている。冬服は身体の線を隠しやすいのもあって、「ナオちゃん」の姿に不自然なところはない。

 隣で「佳織さん」が微笑んだ。

「これなら文句なく女子会でしょ?」

「でも、あの、嫌なんじゃないの」

 首だけすっぽ抜けるくらい、カオルは自分の身体とそりが合わなかったはずだ。ナオの問いに、カオルは爽やかに断言した。

「俺とのデートでナオちゃんに妥協される方が嫌」

「ごめんって……」

「だから、デートは別で行こうね」

 ちゃっかりそんなことを言って、カオルは視線だけで首から下を指した。

「それにこれ、俺の身体じゃないから。借りるだけなら意外と気にならない」

「え?」

「紹介するね。こちら、沖縄で知り合った首なし系女子のユーコちゃんです」

 カオルの身体はスマホを取り出すと、恐ろしく素早いフリック入力で打ち込んだ文面をナオに見せた。

『ユーコです♪ よろしくね( ´ ▽ ` )ノ』

「まさかの別個体!?」




 三人で食べたチョコレートパフェは美味しかった。

 店へ向かう道中、カオルの頭が二、三回ユーコの身体から落ちそうにはなったが──まあ、今となっては笑い話でいいだろう。

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ちょっと身体と喧嘩しまして 千鳥すいほ @sedumandmint

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