02_コーラルピンクと勝負服
一日目。
「新歓アフターが手厚いサークルってどれ?」
「二ページ目右下の合唱サークル。奢ってくれるし勧誘も良心的」
三日目。
「腕時計壊れた」
「川沿いに北に行くと右手に総合スーパーあるでしょ。地下一階に安く直してくれるとこあるよ」
一週間目。
「近所にやたら警察の人いたんだけど」
「皇族の方でも来てるんじゃない? このへんだと偶にあるよ」
二週間目。
「この辺、大きい本屋ってないの?」
「大学から北に直進。ドーナツ屋の向かいが夜十二時までやってる」
確かに役に立った。二、三日の期限はあっという間に過ぎたし、カオルは出て行く気配を見せなかった。
相手が生首だったとしても、着替えや風呂、寝起き等々、見られたくないシーンは日常に多々ある。引っ越し直後で物がほとんどなかったこともあり、ナオは初日のうちにドアボックスの一角をカオルの部屋として明け渡していた。
下半身と共に性欲ともおさらばしたのか、カオルは予想以上に紳士的な性格だった。友好的ではあるが、ナオのプライベートに必要以上に踏み込むことはない。生首なりに随分気を使っているようで、ナオが風呂に入ってから朝身支度を終えるまでは姿を見せない。気が向けば──そしてナオが応じれば、ドアボックスから顔を出して他愛のない会話をする。奇妙な共同生活は意外にも快適で、無理に追い出そうという発想はずっと前にナオの中からは消えていた。
「ただいま」
「おかえり、ナオちゃん」
朗らかな声に微笑みを返して、ナオはカオルの視線の先に目をやった。
留守中はチャンネル権を譲ってあるテレビには、夜のニュースが映っている。
「何観てたの?」
「桜散っちゃったんだなーと思って」
「ああ。川沿いの桜並木、あっという間だったね。ちょっとびっくりした」
三月に桜が咲くのはフィクションの中だけだと思っていたが、この街ではそうでもないらしい。桜並木を散歩するのも楽しそうだと思っていたら、一瞬で緑のほうが多くなってしまった。
「ナオちゃんの地元ってもっと北のほう?」
「うん。北信」
カオルが全く心当たりのない顔をするので、言い直した。
「長野県の北側四分の一」
「山のほう?」
「長野は全部山だよ」
適当な暴論を返しながら、ナオは薬局のビニール袋をローテーブルに置いた。転がり出た小さな容器を、カオルが目ざとく見つける。
「ベースコート買ったんだね」
「うん、まあ」
「よしよし。綺麗な爪なんだから大事にしなきゃ」
嫌みのない口調で言って、カオルが微笑む。いっそ輝いて見えるほど美しい顔から目を逸らして、ナオは自分の爪を眺めた。
細いがやや節の目立つ指の先、楕円形の大きな爪は母親譲りだ。もっとも、ナオの母親は日常的にマニキュアを塗れるタイプの職業ではなかったし、はるか昔に従姉妹のラメピンクの爪が羨ましくて同じものをせがんだ時は叱られた。
トイレットペーパーを買いに立ち寄った薬局で、記憶に近いコーラルピンクのマニキュアを発見して衝動買いしたのが二日前。直塗りは色素が沈着するからやめろとカオルに止められ、ようやく念願が叶う時が来た。
来たのだが。
「ねえ」
「どうしたの、ナオちゃん」
「これなんで気泡入るの? 安物だから?」
「いや、初心者だから」
練習あるのみと諭されて、ナオは唇を尖らせつつ、失敗した左の人差し指の爪を除光液で拭った。今度はベースコートを厚く塗りすぎて乾く前に色を乗せてしまい、もう一度やり直す羽目になった。
左手の五本指を塗り終えるのに一時間かかった。利き手で筆を握ってさえこれなのだ。とても右手の指まで塗る気力がなく、ナオは左手でどこにも触らないよう注意しながらゆっくりとベッドに倒れこんだ。
「正直ナメてた」
「俺が初めて塗ったときより上手だよ」
「むしろなんで塗ったことあるの?」
「趣味。彼女ちゃんの爪を塗ってあげてた。あ、いや、元カノちゃんか」
ナオは思わずカオルの顔を眺めた。悪巧みとは縁のなさそうな好青年の面をして、その実とんでもない男なのではないか。思えば初対面の時も、ナオを女と認識した上で持ち帰りを要求してきたのだ。害意のあるタイプでないことはこの数週間でわかっていたが、首から下があったらと思うと薄ら寒いものがないではない。
「チャラ男か」
「チャラくないよ!?」
わざと憤慨してみせる顔にさえ愛嬌がある。イケメン恐るべし、とナオは内心で危険度判定を改めた。
危険度大のイケメンは、無邪気な笑顔でナオを見上げた。
「ナオちゃん、この前はメイクの練習してたよね。デートの約束でもあるの?」
「そんなわけないじゃん」
「俺と初めて会った時も可愛い服買ってたじゃん。勝負服じゃないの?」
「忘れといてよ……」
咄嗟にカオルを突っ込んだ紙袋は、確かに駅ビルの服屋のものだった。ナオにとっては渾身の勇気を振り絞って買った袋の中身は、未だに一度も袖を通さないままクローゼットで眠っている。
ナオは自分の身体に視線を落とした。厚手のパーカーに、サイズに余裕のあるスラックス。部屋着ではなく、大学に行った格好のままでこれだ。体の線を隠すことだけに重点を置いた服装は、マイルドな表現をすれば純粋に地味である。ハーフアップにしたそう長くはない黒髪だけが、わずかに女性らしいと言えるだろう。
「着ればいいのに。似合うよ」
気負いもなく言い切ったカオルに、ナオは唇を歪めた。
「適当言いすぎ。イケメンだからってなんでもは許さないから」
カオルはきょとんと目を瞬き、それからいたく感激した様子でナオを見つめた。
「ナオちゃん、俺のことイケメンだって思ってくれてたんだね……!」
「顔はね」
「性格は?」
「チャラい」
「どのあたりが!?」
「そのまま女子会に混ざれそうで妬ましい」
それから、とナオは努めて穏やかに、感情のざわめきを舌にのせた。
「褒めすぎ。思ってないことまで言わなくていいよ。別に追い出したりしないし」
角をとったつもりの言葉は、それでもちくちくと口の中を刺激する。カオルは今度こそ驚いたようだった。
「そんなつもりで言ったんじゃない」
「でも本気でもないでしょ。普段こんな格好してる奴が急にあんな服着たら変じゃん」
「そんなことない!」
急に声を張り上げたことに、カオル自身がナオより戸惑ったように見えた。「ごめん」と小さく呻いて、もう一度同じ言葉を言い直す。
「そんなことはない。誰にだって好きな服装をする権利があるよ。そりゃ道端で全裸とか、お葬式でウェディングドレスとかはダメだろうけど、ナオちゃんが可愛い格好しちゃいけない理由なんてないよ。その人が自分にふさわしいと思ったなら、それでいいに決まってる!」
カオルの滑らかな頬が紅潮している。不思議なほど必死に言い募られて、ナオは少しばかり泣きそうな気分になった。無意識に噛み締めていた歯の隙間から、無理やりに声を絞り出す。
「本当に? そう思う?」
「思うよ」
カオルの返答を確認して、ナオはパーカーの裾に手をかけた。腕をクロスさせて頭から引き抜くと、カオルが素っ頓狂な声で自分の名前を呼んだ。無視してその下のハイネックを脱ぎ、最後に体型補正用の厚手のヌーブラを剥がした。
カオルと視線が合う。
驚愕を浮かべた黒目がちな眼を見つめて、ナオは膨らみなんてない、今後も乳房ができることはない自分の胸板を乱暴に叩いた。
「これでも?」
はっきりと声が震えたのがわかった。
カオルが動揺を露わにしたのは一瞬だけで、叫ぶようにナオの言葉の続きを遮った。
「それでもだ!」
ひどく切実な叫びだった。赤の他人の説得にしては異様なほどに。
気圧されて腕を下ろしたナオをじっと見つめて、カオルは縋るように繰り返した。
「それでもだよ、ナオちゃん……」
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