花盗人は罪に非ず

三ツ沢ひらく

はなぬすびとはつみにあらず

 想治郎そうじろうくんはわたしのものを盗むのが得意だった。


 盗む、というのが正しい表現かは分からない。例えばわたしのペンをいつのまにか想治郎くんが使っている。


 誰も何も言わない。想治郎くんはそれをわたしのものだと言わないし、わたしもまたそれはわたしのものだと言わなかった。言えなかった。想治郎くんは特別な子だから。


 わたしの住む小さな町の不思議なしきたりで、想治郎くんは生まれながらに特別な子になった。みんなが想治郎くんを特別に思う。尊敬や羨望の眼差しで想治郎くんを見る。


 わたしも例に漏れず想治郎くんを特別に感じようとした。けれど、想治郎くんはわたしのものを盗む。他の誰のものでもなく、わたしのもの、それも無くなってもさして影響のないような、少し不便に感じる程度のものをさり気なく盗っていくのだった。


 わたしはそれを嫌がらせだと思っていたし、子供のわたしはたかが一本のペンでも盗られたらそれなりにショックを受けていた。


 つまりわたしは想治郎くんのことが嫌いだった。特別だから何をしても許される子。わたしにだけ嫌がらせをする子。それでもわたしは何も言わなかったのは、想治郎くんが誰にも疑われない存在だからだ。


 煩い男子たちと違って想治郎くんは穏やかで賢くてみんなに好かれていた。そんな想治郎くんがわたしのペンを盗んでいるなど誰が信じるのか。しかも一本ではないし、それこそペンだけでもない。


 想治郎くんはさも自分のもののようにわたしのペンを授業中に使っている。もう慣れてしまって、何の感情もなくその様子を横目で見ると想治郎くんはわたしを見て笑った。


 ペンで済まなくなったのはわたしたちが中学校に入ってからだ。田舎の小さな町の子供は大抵が同じ中学校に通う。けれど想治郎くんは町から少し離れた私立中学に電車で通うことになった。


 わたしは歓喜した。もうこれであの嫌がらせを受けずに済むのだ。毎日毎日、今日は何を盗られるのか考えなくて済む。ただ嬉しかった。


 それがただのぬか喜びとも知らずに。


 ある日傘が無くなっていた。休みの日に図書館へ来たわたしは、夕立の予報を見て傘を持ってきていたのに。図書館の入口の傘立てに立てかけておいたはずのお気に入りが無くなっていた。


 ピンクと水色の混ざった傘は、紫陽花あじさいのようで好きだった。きっと傘を持って来なかった人に盗まれてしまったのだろう。わたしは久々のショックに落ち込みながら雨の中を濡れて帰った。


 家の近くまでたどり着くと、見慣れた傘を差した人物が交差点の向かいに立っていた。あ、と声にならない声をあげると、その人物は楽しげに口元を吊り上げる。少し背の伸びた想治郎くんが、わたしの傘を差して立っていた。


 わたしは動けずにいた。信号が赤だからというのは関係ない。例え青に変わってもわたしの足は動かなかっただろう。想治郎くんはびしょ濡れのわたしをみて笑っている。穏やかな表情の中に恐ろしいものを飼っているような気がして、わたしは思わずその場から逃げた。


 わたしは想治郎くんから解放されたわけではなかった。中学が別になろうと、わたしが想治郎くんの標的であることは変わっていなかったのだ。それからしばらく想治郎くんは姿を現さなかったけれど、わたしの頭の片隅にはずっと想治郎くんのあの恐ろしい笑顔が焼き付いていた。


 想治郎くんの姿はみなかったけれど、想治郎くんの仕業と思われる事はわたしの身の回りで時折起こっていた。家の前の小さなスペースでわたしが育てていた鉢植えが無くなっていたり、コンビニに寄った一瞬で、自転車のカゴに入れていたお菓子が消えていたり。


 もちろん全てが想治郎くんの仕業ではないかもしれない。でもそうかもしれない。わたしの心を蝕んでいくその疑念は晴れる事はなかった。


 次に想治郎くんが姿を見せてわたしのものを奪っていったのは、わたしが高校生になってからだ。


 女子校に進学したわたしは電車通学をするようになった。周りの子たちは男の子の話に夢中だったけれど、わたしはあまり興味を持たずに適当な相槌を打つだけだった。


 しかし、たまたま同じ電車に居たらしい想治郎くんには、わたしも男の子の話をしているように聞こえたのかもしれない。最寄りの駅で肩を掴まれ、振り返るととても背の伸びた想治郎くんがわたしを見下ろしていた。


 わたしのからだは振り返った体勢で硬直し、想治郎くんは穏やかな造りの顔を不機嫌そうに歪めてわたしの唇を奪っていった。わたしは何が起こったか分からずに去っていく背中を眺めることしかできなかった。


 わたしのファーストキスはこうして呆気なく奪われてしまったのだった。



 想治郎くんのことが嫌いだということは、わたしの町では珍しい事だ。


「この前久しぶりに祭主さいしゅさんとこの想ちゃんに会ったのよ」


 母の言葉にわたしは胸の辺りが重くなる。祭主さんというのは想治郎くんのお家がこの町の祭りを取り仕切っているからそう呼ばれている。それが想治郎くんが特別である所以だった。


「今年のお祭りはあんたも行きなさいね」


「嫌よ」


 わたしは祭りが嫌いだった。小さい頃に一度だけ家族で見に行ったことがある。一ツ目の牛のような被り物をした大人が火に囲まれて狂ったように舞うのを、町のみんなで見るのだ。


 幼いわたしにはそれが恐怖に感じたし、何より必ず想治郎くんが居ると分かっているから二度と行かなかった。


「今年から想ちゃんが御神楽を舞うんですって。あんたも是非来て欲しいって言ってたわよ」


 何でもこれまでは想治郎くんの父親が舞っていたが、腰を痛めて引退したそうだ。つまり、想治郎くんはわたしに、母を通して祭りに絶対に来るように言っているのだ。母には是非、とか来て欲しい、という言葉を使ったかもしれないけれど、結局は母が断れないのを見越してわたしに直接語りかけてきているのだ。


 祭りに必ず来いと。わたしは長い溜息を吐き、自分の不運を呪った。



 わたしがこの祭りに参加したのは実に十年ぶりだ。小さな町で毎年行われる小さな祭り。山の中に小さな舞台を建てて、御神楽を捧げる。終わった後は舞台を燃やすのだ。


 火祭とも呼ばれるそれはわたしにとっては気味の悪さしか感じられなかった。舞台がぎりぎり見える隅の方に立っていると、不気味な衣装を身につけた想治郎くんが舞台に上がった。


 頭からすっぽり被った布は真っ黒で、顔の部分に目のような模様がひとつ描かれており、牛を思わせる二本の角が頭から生えている。布の下には上等そうな袴がちらりと覗いていた。


 顔も見えないその状態で想治郎くんであることが分かるのは、布の下からわたしのことを見るその視線を感じたからだ。その姿は想治郎くんに似合っていた。


 いや、わたしは想治郎くんのことをずっと化け物のように思っていたから、今の姿の方が納得がいくのかもしれない。同じ人間ではないと言ってもらった方が楽だった。


 想治郎くんは炎に囲まれて立派に舞った。わたしはなんの感情もなくただそれを眺めていた。


 祭りが終わるとわたしはひとりでさっさと踵を返した。他の人は片付けを手伝うのだろう。言われたとおりに見に来たのだから、文句もあるまい。


 山からの帰りは一本道だ。緩やかな下りを歩いていると、ふと背中に冷たいものが駆け抜ける。嫌な予感がして恐る恐る振り返ると、そこには化け物姿の想治郎くんが立っていた。


 叫び声をあげそうになる喉を何とか抑え、想治郎くんを黙って見る。想治郎くんも布の下からただじっとわたしを見ていた。笑っているのかもしれない。


 きっとわたしが言う通りにのこのこと祭りに来たのを見て楽しんでいるのだ。けれどわたしもただ言いなりになっているだけでは終われない。いつか言ってやろうと思っていたことを、震える唇を必死に動かして発した。


「わたし、高校を卒業したら都会で一人暮らしをするわ。この町には戻らない。だって貴方がいるもの。貴方はこの町にずっと居るんでしょう。だってここでしか、貴方は特別じゃないものね。都会に行ったら貴方より立派で特別な人なんてたくさんいる。ずっとこの町でいい気になっていればいいのよ!」


 ひと息に吐き出した言葉は目の前の化け物に伝わっただろうか。この十数年間で言いたかったことはこんなものではないけれど、わたしから奪ったものを全部返してと喚き散らすかわりに、もう関わるなと言いたかった。


 想治郎くんは少し肩を揺らした。笑っている。こんな時にもわたしを笑うのだ。悔しさで滲む視界の真ん中で、想治郎くんは被っていた黒い布をばさりと脱ぐ。その顔は愉快そうに歪んでいた。わたしはその不気味さに、思わず背を向けて走り出す。


 その歪んだ笑顔はわたしにしか見せないの? さざ波のように穏やかな顔はわたしひとりに向けられることはない。


 山道を転がるように走ると、すぐに息が苦しくなる。わたしはこんなに体力が無かっただろうか。それとも後ろから近づいてくる気配かそうさせているのか。わたしの足はとうとうもつれた。


 地面に倒れこむ前に後ろから抱き込まれる。すっぽりと体を覆われてしまったわたしはその体格差と腕の力に戦慄いた。「はなして、」今にも泣きそうな情けない声しか出なかった。けれどそれが想治郎くんのお気に召したようで、くすくすと耳元で笑ったあと、強い力で顎を掬いまたわたしの唇を奪った。


「ん、んー!」


 呼吸まで奪うようなそれにわたしの目から涙が溢れる。がくりと膝が折れても腰を引き寄せられてしまう。わたしは堪らず歯を立てた。がりっという嫌な音が口内で鳴り、鉄の味が広がる。


 わたしはようやく解放され、涙を溜めた目で想治郎くんを睨みつけた。想治郎くんはもう笑っていなかった。口の端に血を滲ませて、わたしを見下ろしている。


「ペンの一本取り返せないくせに」


 わたしは久しぶりに聞いた想治郎くんの声に胸をナイフで刺されるような痛みを感じた。想治郎くんはずっとわたしを試していたのだ。一体何を奪えばわたしが躍起になって自分に向かってくるのか。


 結局されるがままのわたしが、先程切った啖呵などなんの効果もなかった。この町から出たって、わたしはペンすら取り返せないのだ。


 ずるずると崩れ落ちるわたしを想治郎くんは冷たく見下ろして、それから自分が被っていた黒い布をわたし頭に被せて去っていった。化け物め。わたしは必ず逃げてみせる。


 高校を卒業してわたしは宣言どおり都会に出た。短大に通いながらバイトをし、時々友人と遊ぶという普通の暮らしを手に入れた。あの町には戻らない。


 母には盆と正月くらいは帰るように言われたが、わたしはそれもしなかった。一人暮らしの母が心配でない訳ではなかったが、小さな町は全体が家族のようなものだ。わたし一人いなくてもどうにでもなる。


 母が言うには、想治郎くんはあの町からどこかの大学に通っているそうだ。自由を手に入れたわたしは優越感に浸っていた。わたしはもうあの町に戻らない。想治郎くんは特別な子だからあの町から出られない。これで全て解決した。もうわたしの人生にあの子が関わることはない。わたしは、解放されたんだ!


 短大を卒業するころにはすっかり一人暮らしも板につき、まじめに就職活動をした結果無事に職も決まった。そうして社会人になったわたしは社会の荒波に揉まれながらも少しだけ恋愛をしたり、想治郎くんの事は記憶の奥に追いやって新たな人生を歩んでいた。


 そう、母が死ぬまでは。


 わたしはろくに里帰りもしない悪い娘だった。母の体調が悪いことにも気づかなかった。母が息を引き取ったのは、入院の知らせを受けてすぐのこと。最期に顔を合わせたのはいつだろう。都会に出ると言ってはしゃいでいた自分が恥ずかしかった。


 通夜には町の知っている顔が並ぶ。わたしはずっと顔を伏せて自分の浅はかな考えを悔やんでいた。ふと列席者からの強烈な視線を感じ、わたしはゆるゆると顔を上げる。


 そこには美しい青年に成長した想治郎くんがいた。元々穏やかな顔つきは少し凛々しさを含み、真面目な顔でただわたしを見ていた。


 そんな顔をしていても、どうせ内心わたしのことを笑っているのだ。想治郎くんがわたし以外の人前で良い子を演じている事は百も承知だった。今回だってわたしのこの後悔にまみれている姿を見に来ただけに違いない。


 都会に出ると言って息巻いていた奴が、結局こうなるんだな。


 言われなくても想像できる台詞だ。わたしは虚しさで胸がいっぱいになり、母の妹である叔母にその場を任せて外に出た。


 室外に出て町の空気を吸い込むと、少しだけ頭がすっきりした。わたしの事を応援してくれていた母。わたしが仕事を頑張る事が母への恩返しになると思っていた。でももしかしたら違う方法があったかもしれない。


 わたしがベンチに腰掛けていると、背中からぞわりと纏わりつくような視線を感じた。もう誰だかはすぐに分かってしまう。わたしが振り向かないことを気にもとめずに、黒い革靴が俯くわたしの視界に入る。


「この度はお悔やみ申し上げます」


 二人きりの時でも、最低限の常識は守るようだ。わたしはその声に答える気にもなれなかった。想治郎くんのどんな言葉も信じられない。わたしは小学生の頃からずっとそう思ってきた。だんまりを決め込んでいると、想治郎くんはしばらく間を置いて、思いついたように呟いた。


「都会は楽しかった?」


 想治郎くんの言葉にわたしはカッとなる。病気の母親を放っておいて過ごした都会は楽しかったかと、想治郎くんはそう聞いているのだ。


 頭が沸騰するとはこのことなのだろう。わたしは立ち上がって想治郎くんの頰を思い切り叩いた。人を叩くなんて初めてで、親指の付け根が当たってしまい、殴ると言った方が正しかったかもしれなかった。わたしは肩で息をして、殴られたまま顔を伏せる想治郎くんを睨みつけた。


「楽しいでしょうね。親を失ったばかりの幼馴染に追い打ちをかけて、笑っているんでしょう。あなたはただの化け物よ! 人に紛れて息をしていても、わたしは絶対に騙されない!」


「僕は君に救われていた」


 いきなり何を言い出すのか。ペンや傘を黙って差し出していたことに対する感謝? わたしは煮えたぎる怒りを何とか抑え込み、大きく深呼吸する。


「意味のわからない事を言わないで」


「わからなくてもいいさ。でも君が悪いんだよ。君が町を出るからいけないんだ」


 一体何の話だと、わたしは言いかけて口を噤む。想治郎くんの目が暗く淀んでいた。いつもわたしを馬鹿にするように細まるその目がまっすぐにわたしを射抜いていた。


「せっかく君のお母さんは僕たちのことを応援してくれていたのに。残念だよ」


 わたしは背筋が凍りついたかのように立ち竦むしかなかった。戦慄く唇を無理矢理に動かす。


「まさか、お母さんに何かしたの、」


 医者から病気の説明は受けた。それで悔しながら納得もしたはずだった。けれど想治郎くんの言い方がどうしても引っかかる。


 僕たちとはわたしたちのことで、応援とは何か? わたしが悪いというのはわたしのせいで母が死んだような言い方だ。混乱するわたしに想治郎くんは「何も」とだけ言う。


 そうだ、母は病気で死んだのだ。例え想治郎くんが特別な子でも、なんの干渉もできない。例え特別な子でも……。


 わたしの脳裏に、黒い布を被った化け物の姿の想治郎くんが過った。目の前の想治郎くんはまだ暗い目をしている。わたしはふらふらする足取りでその場を去った。頭が痛い。目を閉じてもあの一ツ目の化け物が瞼の裏に焼き付いていた。


 母の死から少し経ち、わたしは勤めていた会社を辞めて母と暮らした実家に戻ってきた。叔母に任せきりだった残された家のことを、少しずつ考えていかなければと思ったのだ。


 わたしは最寄り駅の近くでパートを始めた。母が長年勤めていた本屋の仕事を始めたのだ。少しでも母の面影を感じられるようにと、わたしはこの小さな町でせっせと働いた。


 不思議と都会で働いていた頃よりも心の余裕がある。仕事は力仕事が多いし、忙しいのに何故なのだろう。わたしは初めてこの町を好きだと思えるようになっていた。


 ある日、同じ町に住む叔母がわたしを訪ねて来た。その嬉々とする様子に首を傾げながらも迎え入れると、お茶も出させぬ勢いで居間に座らされる。


「あんた今いい人いないんでしょ」


「そうだけど」


 都会で付き合った人とはすぐに別れた。わたしは恋愛に向いていないのかもしれない。叔母はわたしの顔を嬉しげに覗き込む。


「祭主さんとこの想ちゃんが! 見合い相手にあんたをご指名なんだって!」


 わたしは襲いかかる眩暈をなんとか耐え、叔母に向き合う。


「お断りします」


「何言ってんの! あんな良い人逃したら一生後悔するよ」


 わたしの人生一番の後悔は想治郎くんと出会ってしまった事だ。


「ごめん叔母さん」


 祭りの時に学んだのだ。あの時は母を通して言われたが、今度は叔母まで使ってくる。卑怯な手口だった。想治郎くん相手に叔母は断る事が出来ない。きっと強行してくるだろう。


 それでもわたしの心は何も変わらない。想治郎くんが嫌い。大嫌い。わたしのものを盗んでいく彼が、すべてを奪っていく彼が許せなかった。


 その日の夜からおかしな夢を見るようになった。あの一ツ目の化け物が暗がりからじっとわたしを見つめているのだ。歪んだ二つの角を微かに揺らしながら、黒い布の下で笑っている。わたしは段々とその夢に侵されていき、夜眠る事が出来なくなっていった。


 ふらふらしながら仕事をするわたしを体調が悪いと勘違いした店長が、わたしを早退させた。それほど酷い顔をしているのだろう。元々あまり夢を見ないわたしが、毎日毎晩同じ夢を見ることは、偶然であるわけがない。けれど、そんなお伽話のような事があるとも信じられない。想治郎くんが毎日夢で会いに来ているなど、そんな空想話一体誰が信じる?


 今目の前にいるのは本物の想治郎くんか、それともわたしは夢を見ているのだろうか。


「酷い顔だね」


「…………」


「叔母さんに聞いた? 見合いの日取り決まったこと」


「馬鹿じゃないの。するわけないでしょ」


 想治郎くんはふうん、と言って続ける。


「僕のことそんなに嫌い?」


「世界で一番嫌いよ」


「でも君は帰ってきた」


 この町に、と想治郎くんは一歩わたしに近づく。わたしはその分後ろに下がる。


「この小さな町じゃあ大した恋愛は出来ない。ずっと一人で生きていくのかい」


「あんたと結婚するより百倍マシだわ」


 一歩、また一歩。想治郎くんはどんどんわたしに近づき、とうとうわたしは壁際に追い詰められた。


「クマができてる。眠れてないの?」


 まるでその答えを知っていて、勿体ぶらせている態度にわたしは苛つきを隠さずに吐き捨てる。


「迷惑なのよ。わたしに構わないで」


 わたしなんかより良い人が居るだろう。その美しい顔と得意の猫かぶりで、女はころっと騙されるのではないか。想治郎くんは聞いてもいないのにわたしとの昔話を喋り出す。


「昔は文句ひとつ言ってこなかったね。僕がペンを盗ってもなんの反応も無し。気味悪がってた表情も可愛かったな」


「……やめて」


「傘を盗った時は凄く良かった。雨で濡れた君が恨めしそうに僕の事見てさ。綺麗だった」


「やめてよ!」


 想治郎くんはわたしの手を撫で、腕を伝い、わたしの頰に手を触れる。


「都会で付き合ってた男、別れて正解だよ。すぐに死ぬ」


 限界だった。想治郎くんはわたしのことを全て見ていた。見えない事も見えていた。わたしが想治郎くんから解放されたと思っていた間も想治郎くんはじっとわたしを監視していたのだ。夢ですら逃げられない。文字通りの八方塞がりだった。


 壁に背を預けそのままずるずるとしゃがみ込む。想治郎くんは嬉しそうにわたしの目線に合わせるように屈んだ。


「見合い、来るよね」


 見合ってどうするのだ。これ以上、知る事など何も無いのに。三度目の口付けは長かった。わたしが抵抗しなかったからかもしれない。今日はきっと夢を見ない。そんな気がしていた。






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