A面二曲目 第一回講義 三
弥生は差し出された絵を見つめて当惑した。
思わず素直な感想が口から出る。
「あの……確かにこの絵が裸体に見えないと言われればその通りですが、表現として正しいのではないでしょうか?」
篠島教授は嬉しそうに眼を細めた。
「よくその点に気が付きましたね。その通りなのです。デュシャンは裸体の移動を連続する線の移動として表現したのですから、裸体に見えないのは当然なのです。ちょっと貸して頂けますか」
彼は弥生から画集を受け取ると、彼女の目の前に持ち上げた。弥生は真っ直ぐに絵に対峙する。
「むしろ、現代の感覚からすればデュシャンの見方のほうがよほど客観的に思えますね。連続写真であればこう見えるでしょうから」
弥生は頷いた。篠島教授が彼女の感じた点をうまく言葉で表現してくれたからだ。
「先生の仰る通りです。物体の動きを連続撮影した時の感じが、とてもよく表現されています」
弥生を見つめる篠島教授の瞳が、今度は僅かに大きくなる。彼は絵を降ろして言った。
「しかし、この時代にはまだ連続写真は一般的ではありませんでした」
「えっ!?」
「だから、一般大衆にはこれが何であるのか理解が出来なかったのです」
*
今日、『階段を降りる裸体.No2』は、後のキュビスムや未来派に通じる「運動」の表現を、先取りして絵画の中に反映した作品として知られている。
しかし、当時はまだ「連続した残像から運動を類推する」という発想はなく、デュシャンの革新的な表現はなかなか理解されなかった。むしろ表題にある「裸体」という言葉の官能性ばかりが強調されてしまい、「裸体には見えない」という批判を惹起することになった。
デュシャンはその点を意図していたらしい。
彼は「視覚的な快楽を得られる絵画」を否定しているから、あえて「裸体」という言葉から生じる刺激だけを鑑賞者に提示した上で、それを直接的に表現しなかったのだ。
そして、当然のことながら官能性を期待した鑑賞者の批判を浴びることになった。
*
弥生はもう一度、絵をつぶさに眺めようと考えた。
画集は篠島教授の手元にある。それに対して前かがみになったために、二人の感覚は急に狭まったが、そのことに弥生は気がついていなかった。
「デュシャンは連続写真を見たことがあるのですか?」
「時代を考えれば、あっても不思議ではないでしょうね。一八七八年にイードウィアード・マイブリッジが、ギャロップする馬の足がすべて地面から離れる瞬間はあるのか、という議論を終わらせるために、競馬場でカメラを十二台並べて撮影を行なったのが、連続写真の始まりです。その後、マイブリッジは人間の連続写真も大量に撮影し、一八八七年に写真集『動物の運動』を出版しています。この時点では別々の写真を並べたものでしたが、フランスの生理学者エティエンヌ=ジュール・マレーが、被写体の動きを一枚の原板上に多重露光するクロノフォトグラフィを九十四年に考案したことで、今でいう連続写真に近いものが視られるようになります」
「では、自分の眼で見た事実だけで、この残像のような絵画を描いたということではないのですね」
「そうですね。それでも、デュシャンは世界の新しい見方を提示したと言えます。なぜなら本来は動かないはずの絵画の中に運動を閉じ込めた訳ですから」
「ああ――」
弥生は圧倒されて、一瞬言葉が出なくなった。
それでは同時代の人間に理解されるわけがない。弥生は映像に慣れた時代の人間であるから、彼の絵に運動を見出すことが出来るし、理解も出来る。
その前提がなかったとしたら、たしかに抽象的な図形の重なりにしか見えないかもしれない。そこには時間の経過はなく、ただ位置関係があるだけである。
碩学篠島教授の私的美学講義 阿井上夫 @Aiueo
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