第8話 忌まわしき漆黒の城
ザッファの森を抜けると、そこには輝く太陽に照らされた史跡が広がっていた。人間が作り上げた世界は人間の手が加えられ続けないと直ぐに荒れ果ててしまう。そして、ある時期を過ぎると大自然と共存しているかの様に映り、独自の調和を持つ姿に後世の人間は勝手なロマンを個々の胸に抱いてしまう。ある時期とは関心が薄れ、記憶から忘れ去られた時である。それが史跡の定義というものなのかもしれないとユストは思っていた。
トウラドオク城。その名は過去の産物として、歴史の中では暗黒史の象徴として捉えられているが、トウラドオク二世が築き上げた頃は祖国を追われた流浪の民の希望であった。汚れを知らない象牙の様に柔らかな白色で統一された城壁は控え目で美しく、生きる事に疲れた者の心ですら落ち着かせ、癒しを与えてくれたという。だが、世界を手中に納めた覇王ことトウラドオク三世は、この世を去る五年前に象牙色の城壁を全て黒色に塗り替える様に勅令を発した。その真意は謎に包まれたままだが、大半の力無き人間に暗黒時代の幕開けを予想させるには充分過ぎる効果があった。トウラドオク王朝が滅んだ後、この地は誰が管理する事も無く、人間は分裂した近隣諸国同士の戦いに明け暮れた。やがてはトウラドオクの圧制という歴史が一人歩きし、その恐怖と遺恨の念は魔物の巣窟、怨念が渦巻く禁忌の地として人々の心に根付き、空飛ぶ鳥ですらその上空を避けると言われていた。
トウラドオク城下の入口である、大聖門と呼ばれた厳(おごそ)かな門に架けられた橋の前にユストとイルサーシャは立っていた。橋の下には深い碧色の堀が城下を取り巻くように広がっており、外敵の侵攻を妨げる本来の目的とは別に、他との隔離された世界であるという演出を醸し出すのに一役買っていたといえよう。ユストが購入した歴史書の記述が正しいのであれば、この橋は薄緑色の髪をした剣霊が雷で崩壊させた後に造られたものである。建造年月日を記している形跡は見当たらないが、トウラドオク城建設当時のものでは無いにしろ、さすがに二百年以上の歳月を経ているだけに風化は進み、所々に雑草が生え、その端々には崩れかけている箇所が見受けられた。
ザッファの森を抜けるまで二人は気付かなかったが、この日は爽やかな風が吹いていた。太陽の恵みと相まって心地良い空間が形成されていた。ユストが纏うコートの裾が横に流れ、イルサーシャを包む幾何学模様のドレスの裾も同じ方向に流れる。煙草の煙は宙に消え、百年香の匂いが二人を包む。心落ち着かせる空気はトウラドオクの呪いという言葉を忘れさせ、未知の力を持つ敵との戦いに挑む者への一時の休息を与えられている様にも感じられた。
(この堀、底まではいかほどだろうか?)
ユストは足元の小石を拾うとイルサーシャの疑問に答えるかの如く、堀に投げ込んだ。放物線を描いた小石は地の底へと吸い込まれる様に落ちて数秒後に水の中に消える。そして今投げた小石より一回り大きい石を選んでユストは手に取った。訝しげな表情のイルサーシャを気にせずに手許の石を再び堀に向けて投げる。同じ様に堀の底に消えるだろうとイルサーシャは何気なく眺めていたが、二回目は違った。水面が隆起したかと思うと、勢い良く巨大な魚が跳ね上がり、石を銜えて飛沫を伴いながら水面の下に消えていった。体長は二メートルを優に超えていたであろう。
(今の魚、ユストより大きかった。そなた、
目を細めたイルサーシャは堀から視線を外さなかった。
(さぁどうだか。獲物を狩るという点ではどちらも同じだと思うけどね。)
ユストの視線は堀に向けられていなかった。巨大な魚に興味を示し、石で組み上げられた橋の縁に身を乗り出しているイルサーシャを見守りながら言葉を続ける。
(種類は判らないが、凶暴な面構えだったな。ともあれ、あんな魚が悠々と泳いでいるんだ。君も堀の深さを想像出来ただろう?)
遥か過去から生息していたのだろうか、とイルサーシャは疑問に思っていた。トウラドオク王朝末期に於いて、攻め入る反乱勢力を威嚇する為に放たれたのか、あるいは単にトウラドオクの呪いとやらにより凶暴化した生物なのか。答えなど見つからない想像を楽しんでいた中、緑色の瞳の先が初めて堀の中から外れる。重ねていた細い指数本をユストの手の甲から手首に移すと、それを掴むなり大聖門の方へ引張った。
(ユスト、橋の奥まで
イルサーシャの策敵範囲は彼女を中心に放射状にして五十メートルである。その効力が最も優れているのは障害物の有無を関係無しに察する点である。人間では視覚と聴覚、それまでに培った勘で身の危険を感じるが、剣霊は違う。長い年月を経た剣のみが体現出来る、力を感じると刀身が疼く様なものだ、とイルサーシャは以前ユストに語っていた。
戦いを目の前にしたイルサーシャの発する言葉は常に正確であり、予測めいた事は言わない。契約者であるユスト自身がこれまでの経験を含めて最も理解している。手首を掴んだままのイルサーシャの腰を抱えてユストは橋の上を走る。経年劣化が著しい橋の表面は靴の踵が蹴る度にぼつぼつと脆弱な音を発し、土埃を舞い上げた。大聖門までの距離は三十メートル程である。鋼鉄の扉を背にしたユストの前に立つイルサーシャが後ろに手を伸ばした。
(一体…いや二体だ。一体は澄んだ空気の様に冷静だ。その隣は正直なところ、
(君でも判らないとは珍しいな。)
(感心している場合ではない、
呑気な台詞を吐くユストに対してか、まだ見ぬ敵の力量を測れない焦りなのか、イルサーシャの切れの長い目尻がさらに細くなる。
(ザッファの森を抜けた以上、ソロウとペインは使えない。
土埃が徐々に収まりつつある。先程二人がいた位置に人影が映り始めた。
(意思の疎通を図る機会があるかもしれない。イルサーシャ、一歩前に出るんだ。もしもの場合は腰に触れる。その時は剣体に戻ってもらう。)
イルサーシャが一歩踏み出した。橋の向こうにいる二体からユストの姿が確認できない位置に立ち塞がる。剣霊使いの身を護るのが剣霊の役目であり、そこは剣霊使いに対する敵の攻撃を全て受け止める事が可能な位置でもあった。二体の特徴が少しずつ明らかになる。一つは少年の様に小さい。もう一つは成人であり、体の線からして女と思われる。少年の様に小さい方が女の方に何か囁いている。女は頷くとイルサーシャの様に一歩前に足を動かした。優しい雰囲気に満ち、落ち着きのある仕草にユストは敵では無いと確証したが、人間では無いとも感じ取っていた。
「
落ち着きがあり、聞く者の心を和ませる女の声が響く。土埃が収まった。一歩前に出た女は柔らかな緑色をしたドレスを身に纏っていた。優しさが内面から滲み出た端正な顔は万物の母親の様であり、見る者の心を安堵の世界へと導いてくれる。薄緑色の長い髪は幾多にもうねっており、吹く風に身を任せて軽やかに靡いていた。
「
まるで母親に諭された少年の様にシェス・ロウは素直である。栗色の柔らかそうな髪を持つ少年はミゼレレと同じく一歩踏み出すと軽く頭を下げた。
「第六十五剣霊使いシェス・ロウです。お見知りおきを。」
挨拶を終えた少年ははにかむ様な笑顔を二人に向けた。無邪気な笑顔に敵意は確かに感じられない。首元にはユストと同じく剣霊協会から支給された、黒字に金の刺繍が縁に施された布をスカーフとして巻きつけていた。紛れも無く剣霊使いである。シェス・ロウの目は閉じたままであり、それが剣霊障である事を二人は直ぐに理解した。
「
シェス・ロウはまだ十五歳に達していないと思われるが、剣霊協会から任命された数字から判断して剣霊使いとなったのはユストよりだいぶ早い。その驚きと疑問をイルサーシャが言葉に出したのは当然であり、ユストも関心を向けざるを得なかった。
「シェスは生まれて間もなく
嫌味の欠片すら感じられない柔らかな笑みを伴うミゼレレが人差し指の脇を滑らかそうな唇に当てる。人間が他の前で恥じる事柄、つまり生理的な行為というものは、剣霊にとって人間が健全に生きる為に行う単なる現象として片付けられてしまうものである。言うなれば、神剣霊という千年以上の時の経過を知る存在であるミゼレレにとって、七十年余りしか生きる事の出来ない人間はあまりにも儚い。その様な者の我が侭などは些細な出来事なのであろう。ユストがイルサーシャの肩に手を置いた。ミゼレレの言葉通りに警戒心を解く様に指示をする。イルサーシャは何も言わずにユストの後方に並んだ。これは剣霊使いが武器を収めた事を表し、ミゼレレも優しげな笑顔で応えた。
「
「そう。僕は産まれると共に視力を失った。でもミゼレレが良い事を教えてくれたよ。」
「ほう。良い事とは何だ?差し支えなければ教えて欲しいのだが。」
「生まれて間もなく視力を失ったのは怖いし悲しい事だったけど、体で全てを感じる能力をミゼレレは教えてくれた。イルサーシャ、君の容姿もちゃんと判るよ。髪が真っ直ぐで腰よりも長く、両耳に何かをぶら下げている。剣霊で霊体に装飾品を付けているのは剣霊帝様だけと思っていたけど、君もそうなんだね。珍しいな。」
「そうなのか?
ほぼ先天的に視力を失ったシェス・ロウは研ぎ澄まされた感覚を成長と共に昇華し、十歳の頃には周りの状況を理解する能力を身に付けていた。これが後天的であればその能力の会得は不可能であっただろう。
「大変美しいお方だよ、剣霊帝様は。お声も一度聞いたら忘れられないくらい頭の中と体の中に響くんだ。普段は人間にお会いになられないけど、僕の剣霊ミゼレレは剣霊帝様の妹だからね。ちょっと特別なんだよ。」
ミゼレレの優しげな手がシェス・ロウの肩に触れる。必要以上に喋るものでは無いと制する母親の行為であり、シェス・ロウ自身も後悔の念を顔に出し、素直に理解していた。容姿と共に態度も微笑ましい少年である。だが、十二歳の少年がたとえ剣霊であろうとも、女性の容姿を褒めるのに美しいという言葉を使うだろうか。大抵は綺麗という素朴な言葉で済まされるのではないのだろうかと、ぎこちなさをユストは感じていた。年端のいかぬ少年をして美しいと言わせる剣霊帝が、真の孤高の存在である故を垣間見せられた様な気分を拭えなかった。
「そなたの剣霊であるミゼレレも充分に美しいと
「えぇ。遠慮なさらずにどうぞ。」
「そなた、この場に来るのは初めてではないな?」
「今を生きる人間にも物知りはいるのですね。少し驚きました。」
ミゼレレは横に立つシェス・ロウの肩に手を添えたまま、美しい曲線を描いている剣霊としてよりも女らしさを思わせる腰を橋の縁に降ろした。
「
「なるほど。幼き子に剣霊なりの英才教育を施す様に
「これは
心地良い日差しはそのままであった。大聖門は城壁よりも黒い鋼色をしており、その表面に施された彫刻の陰影が時の流れを緩やかである事を表現している。ユストとイルサーシャはシェス・ロウとミゼレレがいる橋の対面まで近寄り、並んで腰を降ろした。ミゼレレがこの場に足を運んだ真意を語る以上、二人もトウラドオクの地にいる理由を伝えなければならない。ダゴウ市街地から剣霊協会への依頼から始まり、ダゴウ市街地に住む者たちの見解、そしてル・ゾルゾアとブリスタンの存在も伝えた。
「あの者達もここに来ているのですか。」
言葉とは裏腹にミゼレレから驚いている雰囲気か感じられない。神剣霊は全てを熟知している様である。
ユストはコートの裏ポケットから茶色の紙で包まれたものを取り出した。先日購入した保存食である。塩分を強めにした羊の肉を香草と共に燻製に仕上げてあり、シェス・ロウに差し出した。十二歳の少年は貰ってよいものかと戸惑い、ミゼレレの表情を確かめる。他人の好意を無碍に断ってはいけないと優しく微笑むミゼレレは母親と言うよりは少し歳の離れた姉の様に見えた。
「それでは、あなた達のどちらかが依頼を達成するまで、
「そなた達、協会からの依頼を放っておいて、ここで道草を食っていて良いのか?」
「十二歳の少年が大人に混ざってする様な事を協会は望んでおりません。」
「それもそうだな。失礼した。」
「加えて言うなら、イルサーシャ、あなたの契約者は今夜中に依頼を終えるつもりでしょうから。それまでの間、シェスにはトウラドオクの歴史から利発な人間と愚鈍な人間、上に立つべき者と立たされる者との違いについて学んでもらいましょう。」
イルサーシャがばつの悪そうな顔をしたが、それは彼女自身の発言から出た結果である。むしろユストは別の考えをしていた。ミゼレレは歴史書に記されていた剣霊に間違いないと公言した。剣霊帝の妹という特別の存在である点を除いても、大気を操る強大な力は剣霊協会では御しきれないのであろう。ミゼレレは剣霊帝の右腕もしくは目ではないのか。奇しくもトウラドオク城に送り込まれた二人の剣霊使いが、どの様な成果を上げるか興味を示した剣霊帝の命により監視の為に来たのではないのか。煙草に火を灯し、揺らめく煙の向こうにミゼレレが映る。向こうもユストを見つめていた。
「勘の働く人間ですね、ユスト・バレンタイン。世の者はあなたをサイレントと呼びますが、なかなかどうして心の内は常に騒がしいようで。」
ユストは煙草を銜えたまま軽く頭を下げた。剣霊の前では心の内は全て読まれているものである。
「あなたがよろしければ
ミゼレレの麗しい口の端が優しさを伴った微笑を象っていた。一方、ユストが口から煙を吐く際に音無き溜息が混ざっていた事を横目で眺めていたイルサーシャは知っていた。
大聖門の前で過ごした時間は二時間余りである。ミゼレレとシェスとの会話に二人は夢中にはならなかったものの、興味が惹かれてなかなか立ち去る事が出来ずにいた。陽も西に傾き始め、足元から伸びる影も長くなる。腰を上げたユストを見てミゼレレが口を開いた。
「
「かたじけない。感謝する。」
ユストがイルサーシャに言葉を言わせたのは礼儀の上であった。ミゼレレにはユストの内心が読める。とはいえ、相手が判りきっている気持ちをそのまま無言で立ち去るは後ろ髪が引かれるものである。
再び橋を渡り、大聖門を二人は見上げた。重厚という言葉はこの扉の為にあるのでは、とイルサーシャは思った。高さ三メートル以上と思われる鋼鉄製の扉に両手を付いて力任せに押す。地響きに似た音を立てて歴史の一片がその姿を露にし始めた。扉の縁が徐々に離れるにつれ、城内の様子が見え始める。ユストは茫然とし、イルサーシャの肩に手を置いた。
(イルサーシャ、これは…素直に綺麗な景色と喜んで良いのか?)
目の前には緑溢れる楽園が広がっていた。城壁の内側には蔓が食い込み、建物の壁面にも蔓が延びている。地には白い小さな花が無数に咲き、かつてのトウラドオク城が人々の恐怖の対象であった事を忘れる程の心和む景色である。イルサーシャは膝を折ると愛らしく咲く白い花の茎にか細い指を添えた。同時に切込みが入り、切断された小さな命をを掌で受け取る。
(死人草だ。切断面が五角形を描いている。)
死人草とはその名の如く、人間の亡骸を糧として成長する多年草である。寄生植物ではないものの、生命力が強い種であり、土の中は勿論、人間の死体の表皮にも根を張る習性によりこの名が付いたと言われている。土壌で育つと白い花、人間を糧とした場合は暗い赤色の花を咲かせ、五角形の花弁が五枚あるのはもとより茎の断面が円形ではなく五角形というのが他種と明らかに異なる特徴と言えよう。
(この城が陥落して暫くは赤い花が咲き乱れていたのだろう。)
足元に視線を送っていたユストは朽ち果てた骨を一蹴りして呟いた。イルサーシャも地面に対して平行にしていた掌を垂直にする。はらりと花が落ちた。
(人間の生業はこの花たちより儚いのかもしれぬ。ユスト、敵の気配が無いうちに先を急ぐのだ。)
肩にあるユストの手に自らの手を重ねた後、イルサーシャは振り払う様に歩き始めた。彼女にとって目の前に広がる風景は馴染めないものであった。人智を大自然が凌駕する有様を感傷的に眺める心の余裕が無かった。いたたまれない想いが徐々に込上げ、逃げ去りたい気持ちに駆られていたのである。ユストは彼女のこの傾向を以前から知っていた。心優しいという言葉だけで片付く感情なのか、あるいは多人数を惨たらしく殺めた過去があり、その呵責が重く圧し掛かってくるのだろうか。この様な問いにイルサーシャは答えないであろう。答えたくても記憶が無い。ただ判っているのは長い時間この場に身を置くと体が拒否反応をするかの様に震え始める事ぐらいだろうか。既に握り締めている手が僅かに震えていた。
辺りに広がる死人草を踏み分けて前に進む。井戸と思しき跡地の周りはひと際多くの死人草が生えており、煉瓦造りの井戸はすでに干上がっているのであろう。朽ち果てて倒れかけた家屋の脇を通る際にユストは立ち止まった。乾ききり、中心から割れが生じている木製の柱に文字が書いてある。刃物で削り取る様に書かれた短い言葉の様であり、先日購入した歴史書に記されていた文字に似ていた。足を止めたユストに気付いたイルサーシャが振り向く。彼が見つめる先を追い、静かに答えた。
「ウーラン…助けて、という意味だ。」
トウラドオク城下に住んでいたと思われる者の最期の叫びであろう。その文字の下も多くの死人草が花を咲かせていた。全ての終焉に記す文字にしては悲しい。ゆるやかに流れる雲に視線を変えたユストは再び歩き始めた。
城下を過ぎるとかつての王の居城が存在する。大聖門から直線で約一キロメートル先である。およそ五割方が崩壊しており、城址と言われる由縁を二人はあらためて納得していた。正門の左右には十二体の黒い石像が対になる形で立ち並んでいる。王の元へと立ち入る者、あるいは立ち去る者を見下ろしていたのであろうとユストは当時の様子を思い描いていた。いたのであろう、と思ったのには理由がある。十二体の石像全てが頭部を失っているからに他ならなかった。勝者となった反乱軍は過去に受けた苦痛を清算する為か、トウラドオクに由来する人間をはじめ彫刻や像に於いてもその頭部を切断していた。石像は黒曜石を削り出して作られており、土埃を払えば大変貴重な代物である。それぞれが違う姿勢をしており、共通しているのは右手に書籍らしきものを持っている点であろう。ユストはイルサーシャに石像について尋ねたが、彼女の記憶に当てはまるものは無かった。それよりも正門手前の石像間に見える人影にイルサーシャは意識を集中し、ユストの体を相手から隠すように立った。
(首から上があるな。)
(ユスト、あれは…ル・ゾルゾアだ。)
(ほう。ブリスタンの気配は感じないのか?)
(感じない。)
そうか、とユストは言うとコートのポケットに両手を入れた。イルサーシャに戦いを委ねるという剣霊使いとしての指示でもある。ブリスタンが確認出来ないのであれば剣霊単体の戦いで充分であり、また戦いとならず会話で事が収まるにしてもユストの声がル・ゾルゾアに届かない以上、その指示は一理あるといえた。
(いつから剣霊使いをやめて城の門番になったのか聞いてきてくれ。)
(
ユストの腕を掴んでいた手を離し、普段通りの歩調でイルサーシャはル・ゾルゾアとの距離を縮める。向こうは二人の存在に先に気付いているものの、動こうとしない。近付くにつれてル・ゾルゾアの姿が明らかになる。彼の特徴である顎髭を携えた精悍な顔はやや俯き加減で平静な表情をしていた。両腕を垂らし、右手には銀色の直剣を握っている。
「ル・ゾルゾア。覚えているか、イルサーシャだ。」
返事は無い。右手がかすかに動いただけである。
「そなた、ここで何をしている?」
イルサーシャの言葉が終わると共にル・ゾルゾアが飛び込んできた。無駄をそぎ落とした素早い右斜め上からの斬撃が繰り出される。咄嗟に体を僅かに傾けてイルサーシャはかわす。空を斬った剣は地面を打つ事無く途中で止まり、刃を返して上へと跳ね上がった。今度ばかりはかわせないと判断したイルサーシャは舌打ちをし、両手首を交差してル・ゾルゾアの流れる様な剣捌きを受け止める。スカートの一部が裂ける程の凄まじい攻撃である。イルサーシャの緑の瞳がル・ゾルゾアの顔を覗き込む。その表情に生気は無く、視線はあらぬ方向を見つめている様子である。
「ル・ゾルゾア…ではないな?」
切り上げる剣を下へ押し戻そうと両腕に力を入れるが微動だにしない。むしろ押さえ込んでいるだけでも必死である。ル・ゾルゾアとイルサーシャの腕力の差は言うまでも無い。触れれば斬れる剣霊にとってル・ゾルゾアの様に鍛えられた肉体は必要なかった。女の細い腕で充分である。肩幅に開いている両足が震え始めた。ル・ゾルゾアの力に抗う限界を知らせている。歯を喰いしばり目を細めるイルサーシャの手首の上にユストの右手が重なった。
(このまま押して相手の切先を砕く。相手はブリスタンではない、無銘の剣だ、安心しろ。痛くはないか、イルサーシャ?)
ユストの言う通り、ル・ゾルゾアが手にしている直剣は確かに長い年月を経ている様に思える。そして鍔の根元にはトウラドオクの紋章が刻まれていた。
(これしきの事で
(良い子だ。砕けると共に抵抗を失った剣がそのまま上に上がる筈。その瞬間、肩から体当たりを食らわせろ。)
横に並んだユストの顔にイルサーシャは視線を向けた。目が合った時に彼は僅かに笑みを作って見せた。いらぬ不安を取り除こうという配慮だろうか。重なったユストの右手に力が加わる。力の拮抗が崩れ始めようとしていた。ユストとイルサーシャの合わさった力がル・ゾルゾアが手にする直剣を徐々に下へと押し戻し、金属と金属が争う音が一瞬消える。その次に片方が大きな音と共に砕け、力の行き場を失ったル・ゾルゾアの直剣は宙を切り上げた。切先を失った剣はユストの右頬を掠めたが、動じる事無くすかさず左手でイルサーシャの背中を突き飛ばす。左肩から体当たりをしたイルサーシャは空いている手でル・ゾルゾアの首筋を薙ぎ、致命傷を負わせた。そのままル・ゾルゾアは仰け反る様に倒れ、勢い余ったイルサーシャはユストに抱え込まれて倒れずに済んでいた。人間の体は外傷を負った場合、数秒も経たないうちに血が流れ出るものである。ましてや頚動脈を切られたこの場合、とめどなく血が溢れておかしくない。だが、ル・ゾルゾアは血の湖を作らずに、風に吹かれた砂の様にその姿を消してしまった。
戦いは終わった。相手は剣霊使いル・ゾルゾアを模した何か、であった。無残にも切先を失った敗者の剣を手に取ったイルサーシャは刀身の中央付近に手刀を放つ。単調な乾いた音と共に彼女を苦しめた剣はその役目を絶たれてしまった。
(ユスト、手間を掛けたな。)
うっすらと血が滲んでいるユストの右頬にイルサーシャは指を重ねてた。
(大丈夫だ。それよりもル・ゾルゾアの安否が気になる。そもそもブリスタンが簡単にやられるとは思えないが…。)
ル・ゾルゾアが倒れた地点をぼんやりと眺めながら答えたユストが膝を折った。
(何か見つけたのか?)
(あぁ。これだ。)
石像と石像の間に舞い落ちた茶色の髪の毛をユストは手に取った。
(おそらくこれが今倒したル・ゾルゾアの正体だ。)
(髪の毛一本からあの者の情報を引き出して複製したというのか?)
(本来の敵が底知れぬ魔力を有しているとしたら、その見解は間違っていないだろうね。)
ユストは親指と人差し指で掴んでいる髪の毛をイルサーシャの掌に落とした。汚れを知らない掌はル・ゾルゾアの髪の毛を触れただけで真っ二つにした。
(何もしなくても人間の髪の毛は抜け落ちるが、もしや…。)
(そのもしや、だ。すまないな。気を抜くなよ。)
正門を潜り抜けると広間へ通じる通路に出た。黒い御影石の上に群青色の絨毯が敷かれている。力無き人間を苦しめた王国の内部は幻想的な空間を醸し出していたが、両手を後ろに回してゆっくりと鑑賞する時間は無い。その先にはイルサーシャがいつも共にしている男が行く手を阻んでいた。黒いコートに身を包み、黒い髪をした男は左手にル・ゾルゾアと同じ直剣を持ち、ただならぬ殺気を二人に向けていた。
(偽者とは判っているが、左手の武器を見ているとたいへん腹立たしくてたまらないのだが。)
剣霊が剣霊使いの前に立つのは戦闘に備えての事だが、この時ばかりはいつもの位置よりも前にイルサーシャは立っていた。
(そういきり立つのはよせ。君の戦意を無視する訳ではないが、ここでは剣体になってもらうぞ。)
自らの影は自らが処分する。仮にイルサーシャに任せても問題は無いが、己が斬られる有様を眺めているのは気持ちの良いものではない。
(いや、
(判ったよ。ただ相手は剣だ。剣体になってから存分にへし折ってくれ。)
肩に置いていた手を腰に移し、半ば強制的に剣体にしたイルサーシャの柄を掴む。通路の幅は二メートル半程度である。四方八方へと展開は出来ない。正面同士の一騎打ちしかないだろう。ユストは煙草を取り出し、火を点けた。相対する男の身長が僅かに低くなる。両足に力を込める事で重心が低くなったからである。上からか、横からか、あるいは正面からか。ユストは自らの腰の高さに左手の柄を揃え、そこから伸びる切先を右肩の位置から頭の高さに合わせ、右手を添える。防御の形である。偽者の目的は本物を倒す事であり、それ以上も以下も無い。ならば初手は必ず攻撃を仕掛けてくるはずだとユストは読んでいた。煙草の先が音を立てて赤く灯る。半ば崩れかけている通路に夕陽が差し込んだ。防御の形のままユストは走り出し、偽者も一撃必殺の技を繰り出そうと呼応する。共にコートの裾をなびかせ、同じ速度で距離を詰める。ユストは愛剣の刃越しに偽者の切先の動きを見逃さんと集中していた。下げていた剣が僅かに上に移動したのと同時にユストの眉間に力が入る。
二人の体が衝突する前に剣と剣が重なった。助走で威力を増した右からの横薙ぎを行った直剣の切先を二匹の蛇が絡み合う剣は根元で受け止めている。すかさずユストは脇腹を目掛けて右足で蹴りを食らわす。偽者は右腕で防御の姿勢を取り、素早い横蹴りの衝撃を軽減させる。技巧と力量はどちらも譲らない。瞬発力と判断力も互角である。だが、対等でないものが一つだけあった。機転である。ユストは銜えていた煙草を偽者の胸元を目掛けて吐き捨てた。辺りが焦げ臭くなり、偽者の腕の力が弱まる。白銀の直剣がトオラドオクの直剣を払い、右手を柄に添えられて必殺の刺突撃を繰り出した。萎縮する様に燃え始めた偽者の胸部を刀身の中央付近まで貫いたユストは愛剣を抜くと偽者の背後に回る。数秒後に膝から崩れ落ちる音が聞こえた。
(イルサーシャ。)
床に愛剣を突き立て、霊体に戻る前の剣霊に剣霊使いは声を掛けた。
(人を殺めるのは極力避けたいものだな。君の誇りが汚れる。)
避けられない道を通る度に後悔の念を抱くものである。剣霊使いユスト・バレンタインとて例外ではない。数歩進み、立ち止まると崩れた壁の先を眺めた。空の端が夜の色に染まりつつある。偽者が手にしていた直剣が砕け散る音が耳に入り、ユストの腕をイルサーシャの手が後ろから掴んだ。
(ユスト、今の一撃はなかなかであったな。)
(そうか。)
ユストの心の声は剣体であったイルサーシャには届いていなかったのであろうか。
(
イルサーシャが横に並び、そのまま前を歩く。剣霊の後ろ姿は二十歳を過ぎた女そのものである。だが、白銀の長い髪の下に隠れている、五百余年を知る背中に迷いや疑問という文字は無かった。
百年香の淡く爽やか香りがユストを幾分和らげた。
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