第9話 人間の在り方
漆黒の城壁に斜陽が圧し掛かっている。空から落ちた恵みを受け止めている部分は僅かに明るい色となり、見る者を懐古の世界へと誘う。幼き剣霊使いシェス・ロウは視力で物事を捉えられないものの、自らの出生の地であるコノリギス市街地を思い浮かるには充分な雰囲気が醸し出されていた。
「シェス、どうかしましたか?」
幼き剣霊使いの横に並ぶ様に腰を降ろしているミゼレレは優しさに満ちた手を彼の肩に置いた。その動作は意識を彼方へと飛ばしていた少年を現実へと連れ戻す。
「西部の夕日って暖かいんだなぁ、て思っていたんだよ。」
「コノリギスの町が懐かしいですか?」
「うん。だけどまだ世界の半分以上を知らないから、懐かしんでばかりもいられないよね。」
「そうですね。」
吹く風に身を任せている薄緑色の豊かな髪を押さえ、ミゼレレはトウラドオク城址にその優しさに満ちた顔を向けていた。
北部王立国家と東部帝政国家の境界付近にコノリギス地区が存在する。この地区は剣霊が管理する土地として特殊な扱いを受け、隣接する北部東部は勿論の事、四大勢力の干渉を受けずに独自の経済と文化を築いていた。生産性に特出した工業や無駄の無い流通、豊潤な資源があるという訳ではないが、経済都市としての顔を今日まで保っている。他の都市と明らかに異なる点を挙げるならば、極めて平和的であると言える。先に述べた四大勢力の干渉が無い以上、兵役の義務というものが存在せず、有事に備えて食料の蓄えは用意しているものの、侵略とは無関係であり、堅固な防壁は必要としない。また、剣霊が管理する土地と言うだけに魔物と遭遇したという報告もこれまでに受けた事が無い。つまり三年に一回選出されるコノリギスの行政担当官は軍事費の捻出に頭を抱える必要が無かった。しかもコノリギスの住民は一切の争い事を好まず、日々穏やかな日々を送っており、人間の理想の地と称される事も度々である。その様な地区の頂点に立つのは、言わずもがな剣霊帝に他ならなかった。
「ミゼレレはさっきの二人が気になるの?」
ミゼレレの見つめる先を感じ取ったシェス・ロウは肩に置かれた繊細な手を小さな両手で包んだ。
「正確には城にいる四名ですよ。ところでシェスは先の二人に対してどの様な印象を持ちましたか?」
「ユスト・バレンタインとイルサーシャだね?」
「そうです。」
上手い表現を探しているのか、シェス・ロウの重ねた指がもぞもぞと動く。ミゼレレは急かす事無く、黙って眺めていた。
「お互いに何かを探している様な雰囲気を感じたよ。」
「それは不完全な回答ですよ。人間とは常に探し求め、満足を得る生き物。夢や希望、その日の食事までもです。捜し求める過程を楽しむ者、結果のみに満足する者と個々の性格によって重きを置く場所が違う様ですけどね。二人は具体的に何を探しているのですか?」
シェス・ロウはミゼレレの声が発する方へ顔を向ける。閉じた目の先にある整った睫毛は彼が利発的で素直な少年である事を印象付けるのに一役買っていると言えた。
「ユスト・バレンタインの笑顔は見えないけど、切なさに溢れている感じがしたんだ。多分、大切にしていたものを失った人かもね。」
「剣霊イルサーシャは?」
「彼女は…自分自身を探している様だよ。答えはどうなの?」
ミゼレレは微笑し、人差し指の腹を柔らかな唇に添えた。
「ユスト・バレンタインの件は、次に出会った時に直接聞いてみると良いでしょう。人間が人間の心を覗くとは大変なものですよ。」
「イルサーシャの件は?そう、彼女について疑問を感じたんだ。」
「疑問とはなんでしょう?」
「彼女には称号が無いの?ミゼレレは天恵の称号、あと、僕の苦手なブリスタンにも勝利の称号があるでしょ?」
「おや、ブリスタンが嫌いですか?」
ミゼレレの口が僅かに開いたままになり、唇に添えていた人差し指が顎先へと移動した。彼女なりの驚きの表現である。
「嫌いって程じゃないけど…。ただ五年前にコノリギスで初めて会った時、お子様お子様ってやたら言われたのが忘れられないんだ。確かにブリスタンの言う事は正しいし、ブリスタンの様な大人びた剣霊にはル・ゾルゾアの様な大人の男の人が似合うんだろうね。」
「つまり、このトウラドオクの地にてブリスタンと遭遇する事に対し、気が引けるという訳ですね?」
シェス・ロウは黙ったまま頷く。自尊心を傷つけられた少年の沈黙の動作は心の蟠りを吐き出した様に見えた。
「思いつめる必要はありませんよ。五年の歳月はシェスを逞しくしましたし、あれは彼女なりの愛情表現であり、優しさに満ちた目をしておりました。あの者には人間の記憶の中で母親であった時期が残っているのでしょうね。」
「ふうん。ブリスタンに育てられたら、我侭言いたい放題の自由奔放な人間になるだろうね。ところでミゼレレには母親の記憶は無いの?」
「
「そうだったね。ごめん。」
シェス・ロウらしい素朴で明快な言葉はミゼレレの表情に微笑を再び与えた。
「ですが、人間の母親に似た境遇というものを今は感じていますよ。」
吹く風が徐々に冷たくなってきた。ミゼレレの手に重ねていた小さな手は滑らかで肌理が細かい。故に僅かな気温の変化に敏感なのか、上着のポケットに身を隠そうとした。だが、先客がその場を占めていた。先程、ユストから貰った羊の肉を乾燥させた保存食である。思い出した様にそれを取り出したシェス・ロウはミゼレレの前に見せた。
「これ、食べていいかな?」
ミゼレレの二本の指が保存食の表面をなぞる。その軌跡を抗わずに保存食は二つに分断された。
「シェスには塩分が強いでしょうから半分にしました。あと、ソノイのグラスを用意出来ますか?」
ミゼレレはシェス・ロウの肩に置いていた手を下へと滑らす。その先にある空いている小さな手を握った後に掌を上にする様にと促した。切断された保存食の片割れを受け取ったシェス・ロウは自分の脇に置かれた皮製の鞄にしまい込み、ミゼレレの言葉通りにソノイの樹液で作られたグラスを手にした。細長い円筒形のグラスの注ぎ口がどちらにあるかを敏感な五本の指は確かめつつ、ミゼレレの前に差し出した。
「そのまま動かないで下さいね。」
大気が歪んだ。厳密にはソノイのグラスの上部のみである。空気が収縮すると共に膨張しようとしている様な有様は人間の為せる業ではない。球状の不思議な空間に針を刺す様にミゼレレは人差し指をためらいも無く差し込む。大気を操るミゼレレの能力は水を作り上げた。夕日を浴びて透き通る様な色合いをした指の先から水が滴り落ちる。グラスに水が満たされる心地良い音色はシェス・ロウの一日の疲労を潤した。
「この城の付近は数多くの怨念が渦巻いていますが、大気までも侵されていなくて安心しました。保存食と一緒に召し上がれ。」
遠慮なくシェス・ロウは保存食を噛み切る。好みの味では無いと数秒後に彼は知ったが、少しでも大人に近付きたい少年は不平を漏らさずにいた。
「ミゼレレ、さっきの話の続きだけど、イルサーシャに称号が無いのは何故なの?」
口を動かすシェス・ロウを見つめていたミゼレレの柔らかな表情は変わらないが、少しの沈黙が続いた。
「イルサーシャは、
「特殊って他の剣霊と何が違うの?」
「剣霊は自我の覚醒をする際に己の称号が自然と言葉に出るものです。神剣霊は大地の意思そのものですが、他の剣霊は人間として生前に思い描いた自らの望みや夢、或いは自らが歩んできた道を短い言葉で表したと言えるでしょう。ですが、イルサーシャにはそれが出来ない。それは彼女が剣霊として些か特殊である証でしょうね。」
「特殊といえば…彼女の耳飾り、僕には彼女を護る動物…そうだね、蛇に思えたよ。」
「なるほど。彼女は蛇の加護を受け、ユスト・バレンタインに支えられて幸せな剣霊の様子ですね。」
シェス・ロウは保存食を残さずに食べ、グラスの水を飲み干すとミゼレレの前に差し出す。再びグラスに水を満たすようにお願いをした。ミゼレレの言葉通り、彼には塩分が強かったのであろう。
「
剣霊が自らの脆弱な部分を語る事は滅多に無い。己が抱く誇りが最も尊く、他の追従を許さないと信じているからである。弱い部分は迷いを生み、陰りが生じる。契約者はそれを素早く見抜き、弱い部分を如何に補うかで剣霊使いとしての質が問われると言えよう。
シェス・ロウが二杯目の水を飲み終えるのを見届けたミゼレレは立ち上がった。
「折角トウラドオクの地に来たのですから、城下にも足を伸ばしましょうか。」
ミゼレレはシェス・ロウの手を取り、歩き始めた。空の一部が夜の色に染まりつつある。外の世界は闇に包まれれば魔物が跋扈する時間を迎えるが、その前に大聖門の内側に入ればシェス・ロウを四方から狙われる心配は減り、人間にとって体温を奪おうとする風を凌げる場所もあると保護者は考えていた。
早くも遅くも無い歩行速度で二人は橋を渡りきり、半開きの大聖門を潜る。黄昏時の死人草の花々は美しさよりも儚さを見る者に訴え掛けている。ミゼレレの足が止まり、慈愛に満ちた目尻が細くなった。
「どうしたの、ミゼレレ。悲しそうな様子だね?」
「かつてこの地は戦いで生まれた地を追われた人間たちが築き上げた希望の象徴でした。ですが権力を手にした王とそれを取り巻く幾ばくかの者たちが最善では無い政策を執ったばかりにこの様な姿になってしまったのです。
「ミゼレレにとって人間の一生は一日の出来事の様なものなんだろうね。」
「その言葉に反論は出来ません。とはいえ、シェス、少なくともあなたと過ごす日々は
「嬉しいな。だけど、それを自慢できる友達がいないのが残念だよ。」
「喜ばしく感じた思いは誰かに語る事無く、自らの胸に秘めて育むものですよ。」
足元に咲き乱れる死人草の淡い香りを堪能しつつ、二人は朽ちた家屋に身を預ける事にした。朽ちているとはいえ、屋根があり、柱もしっかりと地に落ち着き、傾いてもいない。出入り口の扉が半分欠け、窓ガラスが数箇所割れている程度である。砂埃を素手で払い、独り掛けの椅子にシェス・ロウは腰を降ろす。今も昔も椅子というものにたいした変化は無いのだな、と幼い剣霊使いは触れた際に思った。板貼りの床、採光用の天窓、間取りに応じた燭台の数、どれも彼が知っているコノリギスの一般的な家屋と似ていると雰囲気で感じ取れる。一方のミゼレレは暖炉の前で腰を屈めていた。乾ききって痩せた薪に触れる指先から煙が立ち昇り、やがては煌々とした火が廃屋を一晩過ごせる場所として成り立たせた。
「シェス、こちらにいらっしゃい。」
ミゼレレの声の方へと椅子を抱えながらおもむろに歩み寄ったシェス・ロウは暖炉の火に冷えつつある両手をかざした。
「ミゼレレは城の方がまだ気になるようだね。」
「どうしてそう思いましたか?」
「考え事をしている様子、僕には直ぐに判るよ?」
シェス・ロウはミゼレレに椅子を譲ると、自らは床に腰を降ろしてミゼレレの両足にもたれ掛かった。体温の無い剣霊とは言え、暖炉から発する熱は彼女が纏う布を温め、女性特有の軟らかさも相まって少年に安堵を感じさせる。ミゼレレも手を伸ばし、小さな頭を撫でる。それは一日の終わりを堪能する母子の光景の様であった。
「トウラドオク城内にいると思われる敵というものを
「ミゼレレでも判らない敵、イルサーシャとブリスタンで大丈夫なの?」
「二人にはそれぞれ優秀な契約者がいますから心配する必要は無いでしょう。ですが、懸念すべき事は契約者同士が争う事です。」
「あの二人、共にプライドが高そうだから反発しそうだし、ブリスタンがけしかけそうだね。」
「どちらにせよ、ユスト・バレンタインとル・ゾルゾア、片方でも失うのは協会はもとより
休んでいろ、とは体裁を繕った言葉である事をシェス・ロウは良い意味で判っていた。自分が足手まといという解釈では無く、危険な目に合わせたくないと願うミゼレレの親心として汲んでいた。暖炉の薪がはじける音と共に頭を撫でるミゼレレの手が徐々に温かくなる。実の母親を知らない少年にとって、夢心地のひと時であった。
「城に行くのなら、ミゼレレも食事をしておく?」
「そうですね。少しだけ頂きましょう。」
頭を撫でていた手が後頭部を経て首元の黒地に金の刺繍をあしらったスカーフに移動する。結び目を片手でいとも容易く解くとミゼレレの食痕が露になった。
「ミゼレレ、ちゃんと戻ってきてよ?」
「心配しなくても大丈夫です。」
「ほんとに?」
「
「そうだったね。」
揺るぎ無く且つ誇り高き事実を悟ったシェス・ロウは立ち上がるとミゼレレに背を向けた。彼女の食痕は左首筋の上部にある。背面から顔を近付けて摂取するのが常であった。
「ミゼレレでも倒せない敵っているの?」
「どうでしょう?今まで遭遇した事がありませんから。」
「その時は剣霊帝様が倒してくれるのかな?」
首元に近付いていた端正な顔が僅かに曇ったのをシェス・ロウは判ったのだろうか。ただ彼は食事をする際に両肩に置かれる手がこの時ばかりはいつもより冷たく、そして重く感じた。
「先程の件も併せて良い機会です。シェス、あなたは
「知らないよ。剣霊帝様としか教わっていないから…。」
シェス・ロウが恐れるものの一つにミゼレレの無表情がある。これまで彼女には数え切れないほど怒られたり諭されたりしたが、それよりも恐ろしく感じていた。無表情で語るミゼレレの姿は常に親しく接し心を通わす存在が剣霊という人間を凌駕する存在であったと思い知らされる。この時の彼はそれを肌で感じていた。
「絶望の剣霊サリシオン。これがこの世の生物が崇める剣霊帝様の本来の名です。絶望とはその言葉の通り、
「絶望か…今度、剣霊帝様にお会いするのが怖いよ、ミゼレレ。」
「これからの行動において
「出来れば新月の日にしてよ。目が見える時なら、剣霊帝様の表情がすぐに判るから。ね?」
「そうですね。その点は考慮するとしましょう。」
右肩に置かれた手が僅かに離れ、再び元の位置に戻った。微笑の際に口元に指を添えていたのであろうとシェス・ロウは思った。よかった、いつもと変わらないミゼレレだ、と幼心が確信すると共に、首元の赤黒い部分に柔らかい感触が伝わる。ミゼレレが食事を始めた。普段であれば表現し難い心地良さを感じつつ意識が遠退くが、今回はその様にはならなかった。コノリギスの住民の顔が脳裏から離れないでいた。彼らは剣霊帝の真の名を知らない。絶望の上に築き上げられた平和な街並みとは誰も知る由も無かろう。それとも剣霊帝という存在を言葉では無く、自然と肌で理解しているのであろうか。剣霊の思惑が反映された人間の世界、それが人間にとって理想の世界なのだろうか。いくら考えても明瞭な回答は見つけられないものである。シェス・ロウの中で自身と最も近い立場にいる人間であるユスト・バレンタインとル・ゾルゾア、両者の趣は異なるが常に落ち着いた表情をしている剣霊使いの名が頭に浮かぶ。二人がこの事実を知ってどの様に理解するのだろうか、と救済を求め、それを期待する様な感情が湧き上がっていた。
目を閉じているミゼレレの両手か肩から滑り落ち、胸の前で交差する。抱き締める様な形になったのは、様々な思いを巡らせているシェス・ロウを少しでも落着かせようとする親の愛情に似たミゼレレの配慮である。剣霊の手は細く、美しく、そして冷たい。だが今のシェス・ロウは人間の温かい手を望んでいる。少年の想いに応えるかの様に暖炉の薪が弾けた。
トウラドオク城は地上五階建ての建造物であり、王朝時代としては唯一無二の規模であった。黒の御影石を貼り巡らせた床には群青色の絨毯が中央に敷かれ、落着いた色合いの壁面には豪華な装飾が掘り込まれた額縁を伴った風景画が所々にアクセントとして飾られていたのであろう。
既に半分以上が崩れ去った今となっては空想もしくは予測という言葉でしか当時の様子を表現できない。数分後に陽が沈み、その反対の空にはうっすらと星が瞬き始めていた。
(ユスト、恐らくこの先が謁見の間だ。)
(何かしらの気配は感じるか?)
イルサーシャは横髪を耳に掛け、数秒の間、清廉な緑色の瞳はユストを見つめていた。
(全く感じない。そもそもトウラドオクの呪いとやらは人間の恐怖心が生み出した迷信ではないのか?今回の任務、
(出来る事ならそう願いたいが、剣霊と剣霊使いが三組もここにいるんだ。歴史の重みを感じる遺跡でした、という訳にもいかないだろう?)
(まぁ、確かにこの扉を見る限り、不吉なものを感じるが…。)
無数の人間が踏みにじられ、死体の山の上で胡坐をかく不敵な表情の悪魔と牙をむき出しにした澱んだ目許の龍が争っている。目の前の人間の肉体を争っているのか、あるいは魂を奪い合っているのか。地獄絵を刻んだ扉を眺めるイルサーシャの華奢な指が龍の顔を無造作になぞっていた。
ユストの前にイルサーシャが重なる様に立ち、その後ろからユストが謁見の間の扉を開ける。敵対する者の気配を感じないとは言えども、仕掛けにはさすがの剣霊も経験値で判断するしかない。以前、敵が仕掛けた矢が扉を開けたほんの僅かな隙間から飛び込んできた経験から学んだ行動である。
謁見の間はイルサーシャの言葉通り、何の気配すら存在しなかった。崩れ去った壁面の奥では明り取りの様に星が輝いている。
(
(その点は愚生も考えたが、結論から言えばそれは無い。新月の日は剣霊の力が弱まるが、相手は邪剣霊もしくはそれ同等以上と考えれば条件は同じだろう。だがこちらには剣霊障から開放された剣霊使いがいる。恐らく相手には剣霊使いとなる者はいない筈だ。)
(数で勝る、という事か?それではかなりおざなりな戦いではないか。)
玉座と思わしき椅子には砂埃がうっすらと積もり、肘掛に施された豪奢な装飾は色褪せ、王朝が過去の産物であると物語っている。
(それだよ、イルサーシャ。)
ユストは玉座の後ろに回り背もたれに手を置いた。
(君たち剣霊にとって戦いとは尊いものだ。尊いと意識するまでも無く、自然とそう思い込んでいる生まれながらの在り方だ。相手もそうならば、おざなりな戦いは好まないと見るべきだ。今ある力を最大限に出して挑むだろうね。)
(では、この無意味な時間は何なのだ?)
(愚生たちを焦らせているだろう。新月になる前に倒さなければならない、とね。だが、愚生の考えが正しければ日が変わる前に敵は必ず現われる。)
やや楽観的な考えではないか、とイルサーシャは感じたが、ユストの言葉にも一理あると契約者の思慮に従う事にした。重厚であり威厳に溢れる雰囲気を常に保っていたであろう謁見の間に二人しかいない。人間の様々な思惑、感情が入り乱れたと思われる場所であり、時の流れを知るには贅沢な空間であった。ユストは星の位置を確認し、あと四時間以内に事が収まると判断した。だが、このまま謁見の間で惰眠を貪る訳にもいかない。
(イルサーシャ、暫くは城内探索だ。念の為にソロウに守りを任せる様、出来ないか?)
(判った。ソロウには言い聞かせておくが…今の発言は城内観光の間違いであろう?)
(探索だよ。戦いを有利に運ぶきっかけが発見できる可能性も捨てたものではないからね。)
ユストの諭すような返事を理解した後にイルサーシャは左耳のピアスを取り外した。鎌首をもたげている黒蛇のピアスを二本の指でなじる様に触れる。
「
剣霊特有の形が整った唇がピアスに口付けを行った後、床に落とす。硬く乾いた音を立てて跳ね返ると思いきや、自然と吸い込まれる様に鎌首をもたげた黒蛇は消えていった。
(今回も何か言われたか?)
(日が変わるまでの間、だそうだ。それとだな…。)
(それと?)
両手を上着のポケットに入れたユストの素っ気無い顔を一瞥した後、イルサーシャは彼の腕を掴む指をいたずらに動かした。
(新月の夜は百年香の炊き過ぎに注意しろ、との事だ。ユストから人間の女の匂いがするのは寒心に耐えないらしい。)
(まぁ、それは任務が無事に終わってからの話だ。ご配慮にユスト・バレンタインは感謝すると後で伝えておいてくれ。)
イルサーシャは再び視線をユストに合わせる。音無き苦笑を漏らす剣霊使いの姿はこれから起きるであろう戦いを幾分忘れさせてくれた。
謁見の間を後にしたユストとイルサーシャは城内を歩き回った。二階は城内に使える者たちの寝室、調理場、簡易的な食堂と思われる空間が広がっていた。三階は王族の寝室や食事の間、といった王とその一族の為の部屋が配置されていたと思われる。四階は王の執務室と歴代の王が所持していた剣が安置されている霊廟的な扱いをされていたであろう部屋が確認できた。足早に部屋を回っていたユストはこの霊廟で足を止めた。他の部屋とは違い、装飾が皆無で落着く空間は無傷で残っている。人間の管理が途絶えて久しいはずだが、木製の壁面は建設当時の姿を保っていた。
(この場は他とは少し違う様だな。)
永年の防腐処理が施されているのか、神聖な場所として何かしらの加護を受けているのか、ユストのみならずイルサーシャも関心を向けた。
(愚生もそう思うよ。落城時に荒らされなかったのが奇跡的だ。)
(奇跡的?)
(そう、ここは歴代の王を祭るトウラドオクの歴史そのものだ。)
ユストが指差す先には小さな塚が八つあり、その塚に突き刺す様に立てられた剣が六本ある。つまり二本足りない。剣が突き刺さっていない二つの塚は左から三番目と八番目のものである。最も左にある剣は直型で華美な装飾は一切無いが人間の真摯な想いを封じ込めたかの様に格調高く、自らの誇りを至上と自負する剣霊であるイルサーシャもその点は認めざるを得ない程であった。その隣の剣も同じく直型で柄の部分から使い込まれた様子が見て取れる。刀身の中央に施された血抜き部には文字が刻まれ、イルサーシャの解読によりトウラドオク二世の所持していた剣と判った。
(ユスト、先に言っておくが、そこの剣を手に取ってみたいのなら正直に言ってくれ。今回は目を瞑るつもりだが、
(いや、これは歴代の王が所持していた剣を用いた位牌だ。位牌に触れて良いのは親族だけだよ。)
(そうか。そなたが常に理性ある人間で
ユストの言う位牌が歴代の王のものであれば、覇王と呼ばれた三世と王朝最後の王である八世の位牌が何故無いのか。覇王ノイ・トウラドオクはその身を北の海に投じた際に生涯を共にした剣を携えていたのか。最後の王八世は十四歳とは言え王である以上、権力の象徴として当代の名工による剣を帯佩(たいはい)していた筈である。彼が処刑されると共に、失われた逸品となってしまったのであろうか。初代レイ・トウラドオクの剣を見つめつつ、ユストは黙々と考えた。悠久の時の流れの経緯を思い巡らす中、イルサーシャがユストの斜め後ろに立つ。閉めた部屋の扉が再び音を立てて開いた。
「気配を消すのはそう難しくはない筈よ。油断していたのかしら?」
肩を露出した黒い薄絹を纏い、豊かな黄金色の髪を持つ女は甘くも涼しげな声を出した後、首を傾げつつ不敵な笑みを湛えていた。その後ろには形の整った顎鬚を携えた男が控えている。勝利の剣霊ブリスタンとその契約者ル・ゾルゾア。ついに二組の剣霊と剣霊使いが顔を合わせる事となった。
「ユスト・バレンタイン、ご機嫌いかが?あなたの偽者、髪の毛のくせになかなか手強かったけど、
やはり二人はユストの化身と刃を交えていた。彼女は嬉々として戦いに挑み、自らの化身は無残にも斬り刻まれたのであろうとユストは思いつつ、その手をイルサーシャの肩に乗せた。言葉を介する為ではなく、揶揄された彼女のいきり立たつ思いをなだめる為に他ならない。
「ル・ゾルゾア、先日は失礼した。そなたの剣捌きは剣霊が認めるだけの事はあるな。」
イルサーシャはスカートの切れ目を指差し、ル・ゾルゾアに敵意の無い証として優しげな眼差しを送った。
「ところでブリスタン、村娘の
「あら、こう見えても一途なのよ、
腕を組んだブリスタンの端正な顔から笑みは消えない。五百年と八百年の年季の差であろうか。見た目もブリスタンの方が年上でもある。口で負ける分には一向に構わないが、イルサーシャの心を揺さぶられては困る。ユストの手に自然と力が入った。ル・ゾルゾアも彼女の悪癖を見抜いてか、それ以上喋るのを止める様にと制した。
「イルサーシャ、そしてユスト・バレンタイン。俺の剣霊は言葉遊びが趣味なのだ。それにつき合わせて申し訳ない。」
「そなたのその心使い、
部屋を歩き回り始めたブリスタンはユストとイルサーシャを横目に見つつ、関心を持って六本の剣に細い指で触れていた。何かを懐かしむ様な仕草と心の内で溜まった思いが湧き出ている様な眼差しを送るブリスタンの姿を知ったユストは彼の言う位牌に対する意向を無碍にされた事など、どうでも良くなっていた。
「ル、二人とお話は構わないけど、それ以上近付いては駄目。得体の知れない何かが足元で待ち構えているわ。」
左から四番目の剣を塚から引き抜き、柄の装飾に指を這わせつつブリスタンは再び歩き始める。
「ほう。何かとは君らしくない抽象的な表現だな?」
「さぁ、何でしょうね?あなたの言葉が救いの剣霊さんに直接聞いてみては?」
今回はイルサーシャを村娘と悪態をつかなかったのはル・ゾルゾアの制止が巧を奏した結果であろう。さすがは勝利の剣霊を自負するブリスタンならではと言えようか、確かに塚に突き刺された剣の元へ足を向ける際もブリスタンは二人に道を空ける様に言わず、わざわざ大回りで壁伝いに歩いていた。勝利への布石としての警戒心は彼女の発する言葉とは裏腹に、鋭く無駄が削ぎ落とされているとユストは感じた。
「警戒しなくとも良い、ル・ゾルゾア。そなたら人間に危害を及ぼす事は無い。」
「そう。じゃあ、人間以外はどうなるんでしょうね?」
「ブリスタン、止めろ。君の敵はイルサーシャじゃない。」
「残念だけど、自制心よりも興味の方が
艶やかな目許に鋭さが加わる。黄金の髪をした剣霊が手にする四本目の剣が白銀の髪を持つ剣霊を捉えようとしていた。装飾の度合いは異なるが、この剣も形はイルサーシャと同じ直型である。ブリスタンが一歩踏み出すと共に衣擦れの音が張り詰め始めた空気の間を縫って聞こえてくる。緑色の瞳と同じ高さで床と水平に構えている。鍔の根元から徐々に薄くなり、左右の刃が規則正しい曲線を描いて交わる先には全てを貫かんとばかりに鋭利な切先が存在する。その様な直型の剣を向けられた者の気持ち、言い換えればユストの手によって己の剣体は敵にはこう映るものなのか、と心地良いものではない事をイルサーシャは初めて知った。ブリスタンがもう一歩近寄り、衣擦れの音がイルサーシャに身の危険を知らせる。これ以上見るなと言わんばかりにユストの体がイルサーシャの目の前を遮る。同時に二人の足元に一匹の大蛇の影が浮かび上がった。体をうねらせて二人の周りを廻り、危害を加える者の一撃を呑み込もうと待ち構えている姿を目の当たりにしたブリスタンは苦笑と共に構えていた剣を下ろした。
「あら、単なる村娘ではなかったのね、あなた。さしずめ世間知らずの蛇姫様ってところかしら。」
「蛇姫とはなんだ、
「おとぎ話にむきになるところが可愛らしいけど、ちょっと興醒めだわ。」
下ろした剣を再び塚に戻したブリスタンは嫌味の無い笑みと共に黄金の瞳をユストに向けた。
「ユスト・バレンタイン、あなたの剣霊をからかってごめんなさいね。お詫びとしてあなたの知りたい事、
ユストは頷くとコートの内側から紙と携帯用の羽根ペンを取り出した。ユストがこの場で求める知識は極めて素朴であり明確である。本来ならばイルサーシャの口を介して質問をしても良いが、憤慨の真っ只中に身を置いている世間知らずの蛇姫様は感情に任せて質問の意図を湾曲させる可能性も充分考えられる。特に文面を考える様子も無く手短に記した文字をブリスタンに向けて見せた。
『覇王の剣は何処(いずこ)に。』
四本目の剣、つまり覇王の甥であり四代目の王ロア・トウラドオクの剣を手にしたブリスタンはわざわざ元の塚にその実用に不向きな装飾を施した剣を戻した。彼女は並べられた剣の意味するところを知っているからこそ自然とその場所に剣を突き刺したのだとユストは確信していた。
「中央王政国家だったかしら。その文字、久しぶりに見たわ。」
「いや、今は中央行政府だ。五六年前の内部抗争で王政国家ではなくなったと聞いている。」
顎鬚を撫でながらブリスタンに補足を入れるル・ゾルゾアは中央での出来事を気にするユストの身の上を知らない。だが、この場ではユストは平静な表情を保っていた。自らの過去の苦い思いよりも壮大な歴史を紐解く知識への欲求が彼の心の内を占めていた。
「で、気になる答えだけど、覇王の剣は元から無いわよ。」
怪訝な表情のユストを横目にブリスタンは覇王のものと思われる塚の前で膝を折り、盛り上がった頂点を指差す。絶妙な曲線を描く太腿が僅かに姿を現し、イルサーシャは目を逸らした。
「ノイ・トウラドオクは剣を持たなくなったのよ。若かりし頃は前線で士気を鼓舞する者として剣技に磨きを掛けていたが、ある日を境に戦場を共にした剣を自らの手で折ったと言われているわ。もっとも覇王と言われた彼にとって、絶対の忠誠を誓った強大無比の軍隊が剣そのものであったでしょうし、彼自身は睨む事で人間の命をどうにでも出来た。その力は魔物による恩恵ではないかと影では囁かれたけど、後々の彼の所業からして、案外外れてはいなかった様子ね。」
ブリスタンに指摘を受けてユストは初めて気付いた。確かに覇王のものと思われる塚の頂点には剣が刺しこまれていた形跡が見当たらない。しかも昨晩の歴史書の内容とブリスタンの言葉を摺り合わせると納得が出来る内容である。再びユストが文字を記そうとするとブリスタンの言葉が先に制した。
「ある日、というのは
最後の塚に目を遣る。剣が差し込まれた痕跡が鮮明に残っている。つまり極めて最近に引き抜かれたと判断出来る。倒すべき敵がトウラドオク八世の剣を所持する者であるとユストは確証を得た。
「覇王から始まった暴政の代償をその小さな体一つで払った可哀想な少年ね、八世は。でも、人間は時代の流れに逆らえないものだから、仕方ないわよね。彼を安らかに眠らせるのは今を生きる人間の義務なのかもしれないわ。」
時代の流れとは何なのか。時代とは独りの人間が思い浮かべ、それをその独り以外の人間が賛同し、賛同しない者は理由も無く抵抗出来ずに呑み込まれる事なのか。この一括りを何度も繰り返すのが人間の在り方なのか。ユストは剣霊使いとなる前の姿、中央王政国家に身を置いていた頃が脳裏に浮かび始めると共にイルサーシャの手がユストの腕を掴んだ。過去の蟠りを捨てきれないユストを現実の世界へと呼び戻すかの様なイルサーシャの緑色の瞳は冷静で曇りが無かった。
(ユスト、敵だ。敵が
「お迎えが来た様子ね。」
ル・ゾルゾアはブリスタンが傍らに戻るまで待ち、その後に木製の質素な扉を押し開ける。星明りに照らされた崩れた回廊に等間隔で備え付けられた燭台の一つに火が灯り、ゆっくりと次の燭台にも火が入る。その光景はイルサーシャが言う様に剣霊と剣霊使いたちを手招きしている様に映った。
「さて、トウラドウクの呪いとやらも今晩で終わりの様ね。問題はどちらが終わらせるか、かしら。」
ル・ゾルゾアの腕に抱き付く様に両腕を絡ませたブリスタンは振り向きながらイルサーシャに向けて呟いた。
「
「そう。ならばお互いに良い結果が出せると良いわね。」
先程とは明らかに異なるブリスタンにユストは感心した。揶揄する様な言葉を発しないのは、戦いを前にした剣霊の精神を乱さない様にする、イルサーシャに対する敬意と言えようか。常に全力を持って戦いに臨む剣霊の姿をユストは自分が契約したイルサーシャしか知らない。ル・ゾルゾアの剣の力強さと技巧は先の化身との戦いで朧気ながらも判ったが、ブリスタンの実力は予測で量る様なものではない。恐らくル・ゾルゾアもイルサーシャに対して同じ様な気持ちなのであろうと、ユストは彼の凛々しい後ろ姿を眺めつつ思った。
(ユスト、正直に答えて欲しいのだが…。)
ユストは視線だけではなく顔をイルサーシャに向ける事で彼女の問い掛けに答えた。
(
人間の頃の記憶が無いイルサーシャにとって、もっともな不安である。それよりも剣霊が心の内を語る姿は下手に強情を張る人間よりも人間らしくユストには映った。
(変わらないよ。ずっと変わらない。)
短い言葉は正直で力強い。その意図を汲み取ったかの様に、ユストの腕を掴むイルサーシャの手に余計な力は入っていない。落着いているのであればそれでよい。
燭台から放たれる哀しげな光は夜の世界を幻想の世界へと溶け込ませている。ユストが星の位置を確認してから二時間が経過していた。
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