第3話 勝利の剣霊
サイレントとはいかなる人物なのか。剣霊使いというだけでそれ以外の特徴、外見や剣技の程は誰も知らない。そもそも剣霊使いの戦い方も謎が多い中、個々の戦法は更なる謎であり、それが明白になる事は手の内を見せた事となる。つまり敗北という死と直結した末路を迎える。その様な中、サイレントと名乗る者たちにこれまでに十数人ほどユストとイルサーシャは遭遇している。彼らの共通点は、体格が良い威丈夫であり、荒くれ者風情の外観をし、世俗的に見て淫靡を思わせる艶やかさを前面に押し出した女性を従え、皮肉にもこれまた良く喋る。その口から出る内容は己の強さを誇示する演説であり、法外な報酬をせびる算段しか考えていない様子が伺えた。
イルサーシャは、その様な者は即刻切り捨てるべきだ、と自己の誇りを侮辱された怒りに任せた口調で言うが、ユストはそれに賛同しなかった。彼等とて生きる術として偽者を名乗っており、その戦いに敗れる事になろうとも、直ぐに新たなサイレントが出現するからである。
昨晩辿り着いたダゴウ市街地にもサイレントは現れた。だが、今回は普段とは違う行動を取らざるを得なかった。
剣霊使いが街に着いて宿を決めた次の行動は剣霊協会の連絡所に足を運ぶ事である。連絡所には各地の町という複数の人間が社会を構築する場に必ず存在している。表向きは酒場、花屋、葬儀屋と大衆の中に自然と溶け込んでいるが、連絡所として一目で判る方法があった。それは店先に掲げた紋章である。嘴に剣を咥えた鳩が描かれた紋章は剣霊協会のシンボルであり、世間大衆には明かされていない。一般的には古くから伝わる模様のようなもの、という認識であり、その店のトレードマークといったところだろうか。
ダゴウ市街地における連絡所は両替商の店だった。金色の天秤が描かれた金属製の看板に剣を咥えた鳩の図柄が入っている。イルサーシャが入り口の両開きの扉を開け、ユストは後から中に入った。
店の中は薄暗く、汚れが拭いきれていない小さな窓を通して陽の光が僅かに注がれている。新婚旅行あるいは駆け落ちを思わせる若い男女、近辺の富豪の使用人と思われる、清潔であり質素な服装を纏った中年の男、遠く離れた息子に仕送りをする心優しい老婆。ユストは四人の姿を目だけ動かして確認し、中央の受付カウンターに歩み寄る。幾人もの客が通った床はユストの靴音を心地良く響かせ、先客達は新たな客に視線を注ぐ。その眼差しの行き着く先はイルサーシャに他ならない。
彼女は以前、人前に出る事を拒んだが、人目に晒されるのも少しは慣れろ、というユストの言葉に従い、これを我慢していた。注目を浴びる事で喜ぶ者とそう思わない者という表現をするならば、彼女は明らかに後者で他ならない。
「今日はどの様なご用件で?」
カウンター越しの蝶ネクタイを締めた従業員は二人に一瞥を与え、口元に笑みを湛えて語り掛ける。ユストはコートのポケットから硬貨を二枚取り出し、カウンターの上に並べた。
「西部通貨に両替して欲しいのだが。」
イルサーシャがユストに教えられた通りに話す。
「本日のレートですと、共通金貨一枚で西部金貨八十三枚、そこから手数料で一割頂戴しますが、宜しいですか?」
「問題無い。」
「畏まりました。ところでお連れの方…ご主人は話す事が困難な様で。ご気分でも優れないのですかな?」
平然と立って両替の遣り取りを眺めているユストに従業員は再び一瞥を与えた。少々金を持ち過ぎた感が拭えないのがその理由である。共通貨幣は金銀銅の三種類が、それぞれ一万枚づつ毎年製造される。拮抗する四国の情勢とは無関係である事により、その価値は一定であり、各政府関係の銀行及び各地域の実力者の手に渡るのが通例だった。旅行者風情のこの二人が惜しむ事無く人前に晒せる代物ではないということである。
では、と従業員が共通金貨に手を掛けようとした時、ユストはカウンターに同じものを八枚、さらに並べた。
「お客さん、さらに追加ですか?」
怪訝な表情を隠しきれない従業員に今度はユストが一瞥を投げた。
共通金貨十枚を横一列に並べ、その上を人差し指でなぞる。次に左端の一枚をそこから三つ隣の上側に移し、一番右端の一枚をその対になる様、下側に滑らせる。右から左、上から下へと再び金貨の上をなぞる。剣を模した配列が出来上がっていた。最後に柄と切先となる部分を押さえ、時計回りに三時間分移動させ、鍔にあたる部分を上から三番目の左右に添える。再び右から下へ、上から下へ、となぞり、ユストは手を止めた。
『神は剣を生み、人に剣を与え、人は剣を手にした。我が身我が心、その果てまで剣と分かつ者。』
この一連の所作は剣霊使いが協会内にて自身を示す暗号といえようか。御気分が優れない客が剣霊使いと知った従業員は背中に汗が流れるのを感じていた。
「右手の階段から三階にどうぞ。本日の夕刻頃までには西部金貨は用意しておきますので…。」
ユストは頷き、八枚の共通金貨を再びコートに仕舞い込む。立ち入り禁止のポールを自ら退かし、二人は三階へと足を進めた。
従業員はこれまでに五名の剣霊使いに会っているが、慣れる様なものではない。脇にいた美しい女性は触れるだけで全てを斬る剣霊であったと思うと、物事を凌駕した視線に納得できる。
現在、剣霊協会には二十余名の剣霊使いが所属していると聞いている。白銀の豊かな髪に黒い蛇のピアスが印象に残る剣霊と、無口な契約者の名は何だろう、と従業員は幾多の戦いを切り抜けた二人の背中を見つめ、首元のボタンをひとつ外し、安堵の溜息を漏らした。
剣霊の存在を人間が認めた時の最初の一振りは現在しており、それは今から千年前の話と言われている。その人智を超えた力と美しさは剣霊の絶巓に位置し、人々はその一振りを剣霊帝と呼んだ。現在では一部の人間の崇拝を受けるまでに至っており、今から三百年前に剣霊協会は発足した。剣霊帝の下、剣霊と契約した人間の管理を主とし、人間の生活を脅かす邪剣霊の粛清を始め、世界の秩序の維持を目的とし、ユストは歴代七十二番目の剣霊使いとして登録されてから五年の歳月が過ぎようとしていた。
つづら折の階段は三階まで続いている。壁に装飾品は見当たらず、少々埃っぽい狭い空間をユストは何も言わずに登り、その後ろをイルサーシャは何も語ろうとせずについて行く。階段を登りきると木製の扉が二人を迎えてくれた。その表面には外で見た紋章と同じく、剣を銜えた鳩が描かれている。幾多の人間の手によって握られた真鍮製の取っ手はしっとりと輝いていた。
ユストが扉を開け、イルサーシャを先に中にいれ、自らも中に入り、直ぐに閉める。その中は日差しに溢れた世界だった。まず目に飛び込むのは部屋の左右に設置されたパイプ状の手摺の様な物である。これは鳩が羽を休める場所、いわば止まり木を模したものであった。十数羽ほどの鳩がいた。嘴を羽の中に隠して眠りに就いているもの、体を膨らませて目を細めているもの、二人に気付いて羽をばたつかせているもの、と部屋の中は町の一風景と同じ様な世界であった。ユストは鳩たちに近寄り、その足輪を確かめる。六羽目で七十二と刻まれた足輪を持つ鳩を見つけた。
白に茶の斑点が散りばめられた模様の鳩だった。ユストは右の人差し指に鳩を乗せた。左の薬指で頭から羽の付け根までを数回撫で、コートの内ポケットから昨晩エリーナに用意させた夜食の残りであるパンの欠片を取り出し、他の鳩には見えない様に食べさせる。思わぬ食事にありつけた鳩の首には透明な筒がくくりつけてあり、食事に夢中の鳩から筒を外した。
食事を終えた鳩を元の位置に戻し、透明な筒をイルサーシャの前に差し出した。彼女はその先端を指一本で軽く弾く。ひびが入る事無く筒の先端が床に落ちる。中には一枚の紙が仕込まれていた。ユストはその紙を広げた。中央には剣霊協会の紋章が透かしで施されている任務指示書であった。
(今回の任務は、何て書いてあるのだ?)
イルサーシャがユストの腕に手を添えた。
(ダゴウ市長に詳細を聞けとある。恐らくだが、邪剣霊絡みの依頼であろうな。ここから一番近い遺跡は、トウラドオク城址か…。)
(トウラドオク、狂気に満ちた覇王の居城と聞いてはいるが…。)
ユストは指示書の先端に火を付け、蝋燭が無い金色の燭台に投げ捨てた。イルサーシャに見せる必要は無かった。彼女は文盲では無いが、今の文字を知らない。五百余年の年月は文字を変えてしまった様である。
(君はトウラドオクに詳しいか?)
(いや、知識は無いが、その響きに
(そうか…。)
ユストは腕に触れる手に自らの手を重ねた。剣霊の手の柔らかさは女性そのものだが、冷たくも暖かくも無い。
(そのうち思い出すだろう。無理する必要はあるまい。)
彼が重ねた、柔らかくも冷たい手を握り、そのまま下に降ろす。部屋の隅に佇む机の上には先程の指示書と同じ様式の紙と筆記具が置かれていた。ユストは左手に持ったペンの先を、中身が無くなりつつあるインク瓶に着けた。これまでに何人の剣霊使いがこの机の上で文字を書いたのか、など知る由も無いが、それなりの年月をこの机は知っているのだろう。机の表面は木目の筋が目立っており、経年による風化が見て取れた。
委細承知した、と短い言葉に日付を加え、紙を三つ折にし、筒状にする。机には引き出しがあった。その中には鳩が首に下げていたガラスの筒がいくつも入っていた。その一つを摘み取り、中に返事を記した紙を入れ込む。燭台に火を点し、ガラスの筒の先端を火に近づける。音も無く溶け始めたガラスの筒は差込口が塞がれた状態になった。
この筒状の物体はガラスではなかった。この大陸の北部を除く地域にはソノイという広葉樹が分布している。高さ二メートル前後にしか成長しない低木であるが、樹皮が硬く、その樹液は温度に敏感、という特徴がある。外気に晒すと一時間程度でガラスの様な硬さと透明具合を形成するが、融点が低く、蝋燭の火で炙れば溶け始める。人々はソノイをガラスの木と呼び、その樹液を使って日用品を作り出していた。ユストが手にしている筒もその産物である。
再び七十二と彫られた足輪を持つ鳩に筒を掛け、手首に乗せた。
「協会本部に何事も無く辿り着けるだろうか。」
普段は黙って見ているイルサーシャが口を開く。ユストは視線を鳩から彼女に移し、軽く頷いた。トウラドオク城址の事が気になり、己を落ち着かせようとして喋っていた様に見えた。
開かれた窓から腕を出し、鳩を飛ばす。躊躇する事無く、白地に茶の斑点を持つ鳩は大空の一部となった。二人は踵を返し、部屋の出入り口に向かう。そこには黒ずんだ銀製の盆が高台の上に置かれ、文字が記されている。
『汝の命を受けた小さく従順なる者に御慈悲と哀れみを。』
盆の中には数枚の貨幣が無造作に置かれている。ユストは先程の鳩に与えたパンの残りを取り出し、盆の中央に置いた。
薄暗い剣霊協会の連絡所を後にしたユストとイルサーシャは協会の指示書の内容に従い、市長宅へ向かう事にした。石造りの建造物が立ち並ぶ町並みには多くの人間が社会を形成している。ユストはコートのポケットに両手を入れ、イルサーシャはその腕に自分の手を絡ませる。人目が多いところでは常にそうしていた。恋人同士の様に見せる事で、剣霊とその契約者であると気付かれ難くなるからである。
イルサーシャは歩きながらユストに何度が語り掛けたが、ユストは素っ気無い返事しかせず、やがてイルサーシャ自身、何も喋らなくなった。
市長宅にてどの様な依頼を受けるのかを気にしているのだろうか。
すれ違う人間は見慣れない恋人同士を目で追い、軒先に繋がれた犬は不思議なそうな眼差しを送る。途中、露天商に声を掛けられたがユストは手を横に振っていらない旨を伝えた。一般的な市街の光景だった。
十字路に差し掛かり、右に曲がる。市長宅は先程の連絡所で所在を確認している。やがて鉄壁門記念広場が広がる。三百年前の騒乱期にこの市街地の母体となったダゴウ砦の門が中央に展示されていた。幾度の敵の攻撃に耐え、一度も敗れることの無かった鋼鉄製の扉を讃え、ダゴウ市街地の象徴として、また住民たちの誇りと啓蒙として誰もが触れる事が出来る。だが、この歴史的産物に人々は関心が無いのか、或いは見慣れ過ぎたのか、周囲には誰もいなかった。
(イルサーシャ、この門に見覚えは?)
ユストは四メートルは優にある、鈍い色合いをした門扉の表面をなぞる。多くの人間に触れられたのか、または長い年月風雨に晒された為か、滑らかな表面は陽の光を浴びて独特な光り方をしていた。
(あぁ、確かに破られていないとは思うが…。)
扉の横には、ある歴史研究者が記した年表が掲示してある。この扉が敵の攻撃を防いだ年表である。
(ただ、この門以外の場所、壁面を夜襲によって崩され、陥落の危機に何度か直面している筈だ。)
(なるほど、都合良く歪められた、か。)
ユストの口が苦笑の形をしていた。
(人の心の希望になる様なら、歪められた歴史も、そう悪くは無いな。)
(そうなのか?)
(悲しみを前面に押し出した歴史よりは良いと思う。その悲しみを胸の内に秘めて強く生きるならともかく、弱さを主張して他人に圧し掛かろうと大半はするからな。)
(そうか…。
イルサーシャは懸念交じりの言葉と共にユストの腕を強く握った。
(何か、嫌な気分がしてならない…。)
(思い出した事でもあるのか?)
(違う。これまで知らぬ何かが
周囲に気を張る。ユストを狙う者がいればイルサーシャがいち早く気付くが、今回は違う。むしろ、動揺している彼女の姿は初めて見る。危険を知らせる前兆、未知の敵を感じた恐怖がそうしているのだろうか。左右に視線を送る。左側には絵描きが一人、恐らくこの鉄壁門の写生であろう。右側は露店が幾つか並び、その先に人だかりが確認出来る。
(あれか、イルサーシャ?)
(判らない。だが、人間の命が消えるのが感じられる。)
イルサーシャに鉄壁門の前にいる様に言い残し、ユストは足早に群集へ向かった。
広場には噴水がつきものである。勢い良く吹き出るもの、静かに流れるものがあるが、ここでは後者の方であった。心落ち着かせるせせらぎは日々の疲労を忘れさせてくれる。だが、この場に人々が集まっていたのは、心の救済を求めたのでは無く、一人の男の姿を見る為であった。
男は両端に肩を露にした女二人を従えて何やら喋っている。彼は自らをサイレントと名乗り、両脇にいるのは己の強さに惚れこんだ剣霊だと公言している。
またつまらぬものを見てしまった、とユストは思った。この様な輩は無視する事に決めていた。だが実のところ、群集の中にいた少年が男の演説を言葉一つ聞き漏らすまいと、目を輝かせながら聞きいっている姿を目の当たりにした時、一聴の価値はあるものかと思ったが、イルサーシャを長時間独りにさせておくのも考えものである。演説をしない物静かなサイレントは湧き出た好奇心を振り払うかの如く、コートの裾を翻した。
人の群れから離れ、偽者の得意気な声も聞こえなくなったところでユストは煙草に火を点した。やや俯き気味に足を進める。
イルサーシャにはやや内向的なところがある。五百余年あまりの沈黙が彼女をそうしたのか、または生来の内面が変わる事無く残っているのか。下手に騒がしいよりは良いが、過度に敏感になる事が時折見受けられる。今回は自分の偽者に対して過度に反応したのだろう、とユストは思った。彼女はユストの事が心配だと言っていたが、それは偽者の出現によるものであろう。偽者は大衆に向けて大袈裟に名乗る。名乗ってしまった以上、命を狙われる可能性が飛躍的に向上する。人間と契約を結び、力を与える剣霊と手当たり次第に人間の生命を吸い尽くす邪剣霊という二種類が存在する以上、世間では議論が続いている。剣霊は神か悪魔で片付くが、剣霊使いは人間である。得体の知れない力を備えた人間は、羨望の眼差しよりも嫌悪の視線を身に浴びる対象になる。人智を超えた力を得たのか、あるいはただ単に操られているだけなのか、危険人物扱いされるのは自然の成り行きである事を偽者たちは理解しているのだろうか、とユストは他人事ながら哀れみに似た視線を投げ掛けていた。
ユストの動きが止まった。彼の前に女が立っていたからである。考え事をしていたにしても、その気配に気付かなかった。両肩が露になっている黒い薄絹を身に纏い、腰まで垂らしている黄金の髪は緩やかな孤を描いている。その麗しい口元は笑みが見え隠れしていた。先のサイレントが両脇に抱えていた剣霊と称する女たちとは別格の艶やかさを備えている。
「あら、サイレントには興味がなくて?」
群集から抜けてきたユストを見ていたのだろうか、涼しげであり独特の甘さを有した声で女は語り掛けてきた。ユストは煙草を銜えたまま両手を顔の高さまで上げて首を横に振った。美しい髪と同じく黄金の瞳である。世の中を達観した様な眼差しにユストは素早く視線を逸らした。
「残念ね、そう会える者では無くてよ、彼は。」
女はそのまま歩き始めた。ユストと初めて接する者の大半は彼が無口である事に訝しげな表情をするが、この女は眉一つ動かさずにいた。数歩進んだ後、ユストは振り返り、女の華奢な後ろ姿を見つめる。彼の中でイルサーシャの言葉が反芻し始めていた。
群集とはいえ、二十人程度である。苔がところどころに生えている円形状の噴水の前に立つサイレントを名乗る男を中心に三メートル程の距離を置いてその周囲を覆っている。剣霊使い二十余名いる中の一人を物珍しさで見に来た者、噂に聞く剣霊の美しさをこの目で確かめたいと望んだ者が大半である。
「そこの旦那さん、道を空けなさいな。」
甘い感じのする女の声色である。彼女の前に立ち塞がっていた男たちは面倒臭そうに声の主の方へ振り向くも、その妖しく輝く黄金の髪と見る者を捕らえて離さない艶やかさに茫然としてしまった。女は一歩前へ出る。男たちは彼女の言葉に従った。していた、という表現が正しいのかもしれない。目の前の女の美しさは人間のそれとは異なり、関わらない方が身の為、と危険回避の本能が働いたからである。
女は微笑んだ。満足気な微笑みだった。
「そうねぇ。人間の良いところは素直である事、と
この台詞で何人の者が剣霊が目の前にいると知っただろうか。女は再び歩き始めた。裾の長いスカートの脇に設けられた深い切り込みから女性特有の脚線美が周囲の者たちの視線を集める。やがてサイレントを称する者の視界に彼女は映り込んだ。
「女、俺に何用だ、仕事の依頼か?」
「あなたが、噂のサイレントなのかしら?」
「そうだ。この俺がまぎれも無くサイレントだ。」
女は腕を組み、首を傾げた。
「…冗談でしょう?そもそも、あなたの血、不味そうよ?」
「何かと思えば訳の判らぬ難くせか。俺の剣捌きを目の当たりすれば少しは考えが変わるだろうが、その時点で時既に遅しだ。」
男は腰に携えた剣の柄に利き手を掛けた。重厚というよりは、ごてごてしい装飾の鞘から刀身が見えた瞬間、金属が砕ける音が周囲に響く。彼が握った剣は柄から先が無くなっていた。
「剣霊使いは鈍らな剣を持たないものよ、偽者さん。それに剣霊は鞘が嫌いなの。何故だか判る?鞘の中は狭くて暗いし、心地良くないのよ。」
女は腕を前に出していた。その細い腕を軽やかに横薙ぎさせただけである。
「お前…。」
雲の流れが早い。見え隠れする太陽が女の彫刻の様に整った顔に陰影を与えている。
「
空気が凍り付くとはこの事だろうか。美しいものに触れてはならない、という言葉がその場にいた人間全ての脳裏に浮かんだ。
「安心しなさいな。
ブリスタンの腕が右から左へと空を斬る。女の服は裂け、偽者が身に着けていた鎧に一文字の傷が鮮明に浮かび上がる。両端の女は狂乱の悲鳴と共にその場から逃げ出そうとしたが、走り出して直ぐに不自然な転び方をした。ブリスタンの指が続けざまに二回、横に動き、二人の足の腱を切断したからである。
「剣霊とは誰にも侵されず揺るがない矜持と共にあるもの。あなた達、剣霊を名乗る以上、何もせずに逃亡しては駄目じゃない?」
ブリスタンの冷たい微笑みはその場にいる人間たちを恐怖の入り口に誘う。彼女の言うところの少し痛い思いは少々やり過ぎ感が否めない。群集はこの場を去りたい願望と、この後は何をするのかという危険を覚悟しても垣間見たい好奇心の間に立たされていた。
大空に輝く太陽は完全に隠れてしまった。人間の心を写したかの様な灰色の世界の下、ブリスタンの横顔は冷酷な剣霊のそれであった。剣霊の姿形は人間と同じに見えるが、真の姿は数々の戦渦にて多くの血を吸い、その刀身が人間の脂で磨き上げられた歴戦の名品である。このまま美しき姿を持つ殺戮の化身の気が済むまで傍観している事が最良と誰もが思わざるを得なかった。
鳥の声は聞こえず、風も止んだ。ブリスタンはその足を動かした。偽者に最期の一撃を与える為に他ならない。自らを勝利の剣霊と言い、今まさに勝利直前の高揚のひと時なのか、満足気に口元が緩んでいる。一歩一歩と進むうちに、もう一つの足音が聞こえる。ブリスタンの行動を邪魔する者が一人、その前に立ち塞がった。黒いコートの身に着けた黒髪の男、ユスト・バレンタインは武器を持たずに両手を下に垂らし、自らの肩幅程度に足を開いている。その視線は殺意に満ちた剣霊だけを捉えていた。
「あら、あなたは先程の…。」
ブリスタンの言葉には少々嬉しそうな表情が見え隠れしていた。
「剣霊に挑む勇気は素敵よ。でも、後悔する事になるわ。」
愛しい者を愛でる様な眼差しと共にユストに近付く。細い指がユストの頬に添えられた。触れると共に血が一条、垂れ始めた。その視線をブリスタンから外す事無くユストは左手の手袋を外す。頬から流れた血は下顎の端に溜まり、その後、顎先へと滑る様に移動する。左の中指でそれを拭い、血糊の具合を確かめようと視線を指先に落とした。ブリスタンもユストの視線の先を追い、微笑する。
「痛くは無いでしょう?八百年経た我の切れ味は。」
その時、ユストは自分の血糊が付着した中指をブリスタンの顔の前に素早く突き出した。指先は美女の唇を捕えていた。相手の虚を狙った刺突なのか、やぶれかぶれの打開策なのか、剣霊と武器を持たない男の静かな戦いに群集はただ見守る事しか出来なかった。
男を惑わす、程よい肉付きの唇はユストの指先を拒んだ。食い込む事は無く、その美しい形を保ったままであり、拒まれた指は新たに鮮血を流し始めていた。
ユストは一歩退いた。止血のため、胸の前で中指の付け根を押さえつつもブリスタンから視線を外していない。
「あなた、本物の剣霊使いの様ね。呼吸を乱さず、息の音すら漏らさず、さしずめサイレント本人かしら?でもあなたの剣霊はここには居ないようね?」
思わぬ化粧を確かめるべく、唇に薬指を這わせ、一舐めした。ブリスタンの黄金の瞳が僅かに細くなった。
「思った通りの素敵な血…。それを独り占めしている剣霊の姿、拝んでみたかったわ。」
静かにブリスタンは右腕を上げた。その動作はこれまでは遊びの一閃だったが、相手が真の剣霊使いである以上、次からは渾身の一撃になる事を示唆していた。だが、ユストは身構えず、落ち着いて次の行動に移した。
ブリスタンを抱き締めた。
右手は右肩に添えられ、左手は彼女の腰を周って左手首を掴んでいた。想定外の出来事にブリスタンは困惑する。身体の自由を奪われた剣霊の中で男の声が広がった。
(ブリスタンといったな。愚生はユスト・バレンタインだ。君は愚生の血を舐める事で、一時的に契約を交わした状態になった。二分と満たない短い時間だが、こうして身動き出来ない君を愚生の剣霊が狙いを定めるのには充分な時間だ。)
(あなた、
(君と違って人前に出るのが苦手なたちでね、愚生の剣霊は。だが、合図さえすればこの場に姿を現す。)
(で、
(そうするよりも、ここはお互い身を引かないか?引き分けなら、君の勝利の剣霊という名に傷は付かないと思うが。)
正面を向いたままのブリスタンは目だけ動かし、己の動きを封じ込んでいるユストを見た。
(判ったわ。ユスト・バレンタイン、あなたの言い分も一理あるわね。)
(剣霊同士の戦いは我々人間から見たら女同士の殴り合いにしか見えないからな。愚生はもとより、君の契約者もその様な光景を望んでいない筈だ。理性ある判断に感謝する。)
抱き締めていた手を離した。ユストはそのまま歩き出し、ブリスタンはその場に膝をついた。何も語る事無くして剣霊を御した男の前を遮る者はいなかった。皆、彼が本物の剣霊使いであると判ったからである。この場を去る背中を見送る視線は敬意や羨望は無く、猜疑と恐怖の色しか見当たらない。
雨が降り始めた。今までに見た事も無く、また想像にも及ばない剣霊と剣霊使いの遣り取りに心奪われていた群集は頬を打つ雨垂れに気付き、この場を去る。はらはらと人々が各自の思う場所へ移動する中、ユストは眉をひそめた。彼と契約を結んだ剣霊が立っていた。コートを脱ぎ、彼女の白銀の長い髪が隠れる様に頭から覆う様に被せた。
(ユスト、あれはもしかして…。)
イルサーシャの奥深い緑色の瞳は黄金色の髪を持つ女の後ろ姿を捉えている。
(あぁ、君と同等もしくはそれ以上の実力を持つ剣霊だ。正直、倒されてもおかしくなかったのだが。)
(そうか…。無事で何よりだ。)
ユストは何故ここに来たのかは追求せず、黙って頷いた。イルサーシャはユストの左手の中指に視線を落とし、何も言わず両手で包み込んだ。
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