第12話 新月の夜
「何をしていたのか
衣擦れの音を際立たせているのは真夜中の静寂な空間なのか、それとも後ろめたい気持ちによるものなのか。少なくともユストとル・ゾルゾアは落着いた足取りで近付くミゼレレを正視出来ずにいた。
「それぞれが大事にするイルサーシャとブリスタンをぶつけて何になるというのです?お二人は腕の一時の痛みに耐えれば良いだけでしょうが、剣体となった彼女たちはその身全てに走る痛みに耐え、愚かな意地に固執するお二人の安否に心悩ませなければならないのですよ?」
神剣霊の声は聴覚を介して脳を刺激し、ほとばしる勢いで全身を駆け巡る。反論のしようが無い。母親の前に立たされた兄弟の様な心境のユストとル・ゾルゾアはこれまでに起きた事柄、城内で遭遇したそれぞれの化身、歴代の王が所持した剣が納められた部屋、黄金と白銀の鎧との戦い、この世に蘇らせられたトウラドオク八世と裏で操る創造の剣霊インファンティラとの戦い、そして手合わせに至る経緯について二人はそれぞれの観点を交えながら話をした。ただ、ユストは勿論の事、ル・ゾルゾアはインファンティラの片腕を奪った白銀の蛇とマナエグナという言葉は口にしなかった。
「お話の内容からして、お二人にお伝えしなければならない事が二つ出来ましたね。」
腕に刺さる青白く光る直剣の正体はミゼレレが放った雷である。彼女の言うところの二人の愚行を戒めているかの様にその青白い輝きを保ち続けていた。
「まずインファンティラの件ですが、あの者が発した言葉、その端々に於いて全て事実です。」
「では、神剣霊は二体という概念はいつ生まれたんだ?俺はともかく、ブリスタンすら知らんぞ?」
利き腕に走る激痛は和らぎつつあるが、感覚が麻痺し始めている。麻痺する腕に負けまいとこめかみに力を入れてル・ゾルゾアが心の内を吐き出した。
「千年以上前の話です。剣霊帝様は今少し人間に情けを掛けられる事に決め、インファンティラは大地の意思に反するとそれに猛反対しました。ですが、いつまでに人間を滅ぼすという期限は設けられていない点を理由に剣霊帝様の御心はインファンティラの要望を受け付けませんでした。やがて二つの意思は袂を分かち合う結果となり、残された
「言い難いのだが、愚生としては剣霊帝様とミゼレレ、お二方でインファンティラを討てないのかと思うのですが…。」
「ご最もな意見です、ユスト・バレンタイン。ですが、神剣霊は三位一体であり三すくみの関係も併せ持ちます。このうちのどれかが機能を失った時、それはこの世の全てが瓦解するでしょう。故に剣霊帝様と
人間は弱い。己を害する敵が人間以外であると知ると、底知れない恐怖を生み出し、その中で溺れ死ぬ事となる。身近なところでは邪剣霊が良い例である。悪しき剣霊には善なる剣霊を充てれば事が済み、安堵を得られる。だが神に神を充てられないと知った人間の行動はどうなるのであろうか。最善の策とは言い切れないが、反目する次姉に対して長姉と末妹が選んだ手段は妥当であったのであろう。
「いつインファンティラが現われるか判らんし、そもそも後手に回るのは俺としては釈然としないが、何か策は無いのか?」
「先に話した様に神剣霊は三すくみの関係を持ちます。つまり
「しかし、その力を用いれば俺たち人間は絶滅する。つまり、これまでの時の流れが水の泡という訳だな?」
静かにゆっくりと、揺るぎ無い事実を知らしめるかの様にミゼレレが頷いた。
「お二人の話からして、インファンティラはユスト・バレンタイン、あなたに興味を持った様子がうかがえますね?あの者を退かせたのは何なのです?」
ミゼレレの視線とル・ゾルゾアの視線がユストに向けられた。何を答えるかという純粋な期待といかに答えるかという思惑、異なる二つの眼差しに身を晒されたユストは左手に持つ白銀の直剣を見つめるしか術がなかった。
「愚生はただ…イルサーシャに祈っただけです。」
「何を祈ったのです?」
「誇りを貫け、と…。」
「それだけ、ですか?」
「えぇ、それだけです。」
ミゼレレの目尻が僅かに細くなる。口から発する言葉と共に心の内で語る言葉を同時に聞き、精査した結果として柔らかな笑みを漏らしたのであろうとユストは直ぐに理解した。
「あなたの中を駆け巡るインファンティラが残した言葉について、
「後者を選びます。今の愚生には素直に受け止める心構えが無いでしょうから。」
「判りました。ユスト・バレンタインとイルサーシャの仲を覗き込むのは止めましょう。ただインファンティラがあなたを付け狙うのは必定であり、次もその誇りを貫く一撃で退けられれば良いのですが…。」
「善処します。」
奥歯に物が挟まった様な表現をわざわざ用いてい語るミゼレレの、全てを包括せんとする瞳を直視出来ないユストはただ頭を下げる事しか出来なかった。
「次にトウラドオク八世についてですが、その前にお二人は彼の名をご存知ですか?」
ユストとル・ゾルゾアは共に首を横に振り、真夜中の冷たい風がミゼレレの豊かな髪を掬う。緩やかになびく薄緑色の髪の持ち主は多くの歴史を知り、その事実を見つめ続けてきたのであろう。
「ルウエ・トウラドオク。これが十四歳にてその身全てに過去の贖罪を背負った、愛すべき尊い少年の名です。何故お二人はルウエ・トウラドオクの名を知らないのでしょう?」
何故と言われても二人は回答に困った。知識が貧困なのではない、口伝や記録に残されていない以上、知る手立てが無いからである。青白く光る直剣で動きを封じられた二人を尻目に玉座の横にミゼレレは足を運んだ。インファンティラとは玉座を挟んで反対側に立ったその姿は、創造を語る神剣霊とは対照的であり、その名の如く全てを哀れむ心優しき神剣霊に他ならなかった。
「ルウエ・トウラドオクはその名を歴史から抹消されたのです。彼は人々の気持ちを汲む事が出来る優しさと賢さを持ち備えた若き王でした。トウラドオクの兵士は彼を慕い、民は彼を敬いました。ですが時代の流れを変えるのは難しいものです。改革という名の底知れぬ暴力はトウラドオクという血を渇望しました。攻め入る反乱軍は城内はもとより城下の者も理性を失った刃で
白い人差し指がルウエ・トウラドオクの首筋に触れた。半ば凝固し始めている血をミゼレレは口に含み、眉間に力を入れて咽返った。インファンティラと同じく口に合わないのであろうが、優しさを常に持ち合わせている瞳には確固たる使命と決意がうかがえる。口を押さえていた手をルウエ・トウラドオクの頬に重ね、付着した汚れを拭い始めた。
「兵士は彼をよく守りました。民は彼を裏切りませんでした。そしてこのトウラドオク城に残ったのは無数の屍と若き王の為に流された涙。人間が己の過ちを知る時とは取り返しがつかなくなってからなのはどうしてなのでしょうか。反乱軍はルウエ・トウラドオクに関する記述を禁じ、その名を語る者を闇に葬りました。彼らが滅ぼしたのは絶対の悪であり、ルウエという善良な少年ではなく、トウラドオク八世でなければならないのです。」
「では、愚生たちが目の当たりにしたルウエ・トウラドオクは…別人なのでしょうか?」
「インファンティラの使命は創造であり蘇生では有りません。しかも契約者を得ていないあの者の力は不完全であり、失った命が過去の肉体に戻るのは理に反します。その行為は彼の善良で見識のある精神を蘇生の途中で崩壊させてしまったのでしょう。」
頬の汚れを拭い終えた手を頭部に移し、少年期特有のしなやかな髪に手櫛を数回入れるとミゼレレは慈愛に満ちた手を離した。それは血を一舐めして得た、亡き王に触れられる時間が終わった事を意味していた。
「御覧なさい、ルウエ・トウラドオクの利発そうで穏やかな顔を。」
ミゼレレの語る歴史は真実なのであろうとユストは思った。城下に咲き乱れる死人草は彼を愛した民の成れ果てであり、黄金と白銀の鎧も若き王に対する忠義を忘れていなかった。
「もしや…七世王の時代に橋を壊されたのは、トウラドオクを孤立させて他との干渉をさせない為ではなく、後に王となるルウエ・トウラドオクを守る為だったのでしょうか?」
「ユスト・バレンタイン、もう過ぎた事です。そもそも人間はいつの時代でも流れというものを他に委ねようとしない生き物なのですから、
優しさと悲しみが同居する瞳は亡き王を見守っている。いや、亡き王を通してこれまで彼女が見つめてきた人間の有様を思い浮かべているのだとユストは感じていた。
「インファンティラに弄ばれたその魂、お詫びとして同じ神剣霊である
祈りとは彼の偉業を言葉にして讃え、認める事である。目を細めて死者に語り掛けるミゼレレの横顔は眠りに付いた子供を見守る母親の様に柔らかい。
「あなたは失った肉体を使って剣を手に取る必要は無いのです。安らかにお眠りなさい。」
最後の言葉を終えるとミゼレレは数歩下がり、死者の頬を撫でていた手を上にした。一条の巨大な光が雷鳴と共にルウエ・トウラドオクを射抜く。あまりの眩しさは二人の剣霊使いの視力を奪わんとばかりに凄まじく、激しい怒号に似た雷鳴は三半規管に狂いを生じさせたのか、腕に刺さる直剣はそのままにして二人は膝を着いた。真っ白という簡素だがその表現が最も適切である世界から徐々に現実に戻る。ミゼレレが放った雷によって生じた眩惑から回復しつつある。そこにルウエ・トウラドオクの亡骸と玉座は存在しなかった。
「お二人が手合わせを始めた理由はあの剣を巡ってでしたね?」
持ち主を失い、淋しそうに床に転がる剣を指差し、ミゼレレは二人の同意を求めた。
「いかにも。二つに割れば良いと提案をユスト・バレンタインはしてくれたが、そうも巧く等分に出来る訳ないだろう?彼も承知の上だ。」
「等分に、ですか。では、
疑問を紐解く時間をミゼレレは二人に与えなかった。無数の青白い光を発する直剣がルウエ・トウラドオクの剣に向けて空から降り注ぐ。雷という強大な魔力の塊たちが亡き王の剣を次々と穿ち、瞬時に消える。剣が剣に新たな生命を吹き込んでいる様な光景にユストとル・ゾルゾアは己を忘れて見入っていた。
「無意味な装飾も無く、血抜きに文字も刻まれていない、素晴らしい剣ですね。ルウエ・トウラドオクはこの剣の様に虚栄に身を包まずにまた踊らされず、全てに於いて平等に物事を見つめる賢明な王としての生涯を望んだのでしょう。さて、手合わせを行った件ですが…。」
彼女の言うところの素晴らしい剣からユストとル・ゾルゾアに神剣霊の瞳が動いた。
「協会の規則では厳罰に処すとありますが、
ミゼレレの言葉に従って二人は手にする剣を離した。剣は床に転がる事無く淡い光と共にそれぞれの霊体を形成し始める。同時に腕に刺さる直剣が強い光を発して姿を消した。腕にはまだ痺れが残るが機能的な損傷は見受けられない。そして操る糸が切れた人形の様に二人は床に力無く伏せてしまった。
「ブリスタン、イルサーシャ、共に無事ですか?」
ミゼレレの問い掛けに呼び掛けられた剣霊たちは周囲に目を走らせる。
「…インファンティラは?ミゼレレが倒したのか?」
「あなたの契約者が撃退しましたよ、イルサーシャ。」
「
「お久しぶりですね、ブリスタン。お二人には
「それって腕を押さえて気を失う程、壮大無比で劇的な内容だったのかしら?
「
人差し指をしなやかな唇に当てたまま微笑を漏らすミゼレレに悪意は全く感じらず、またその姿にさすがのブリスタンも次の一手を見つけられなかった。ミゼレレは腰を折り、ルウエ・トウラドオクの剣を両手に持つと剣霊二体の前に見せた。
「今回の戦いの証です。どちらも同じです。お好きな方をどうぞ。」
「どちらも同じと言われても…
「
「そう?じゃあ遠慮なくお先に頂戴するわ。」
言われた通りにブリスタンが柄の手前側に可憐な指を触れさせる。素朴な剣はその身を縦に二つに分かれさせた。上下左右全てに於いて均等を築き上げている剣に表裏は無い。正に等分である。次にイルサーシャへ残された半身を受け取る様にミゼレレが優しく笑みを送る。
「ミゼレレ、そなたがユストを守ってくれたのではないか?」
「いえ、
「そうありたいのだが、ミゼレレ、そなたの様な美しさと強さを兼ね備えた者を前にすると
「この剣と一緒です。片方だけでは何も機能しない。剣霊と契約者は二つで一つ。互いが互いを思い遣る。難しく考える必要はありませんよ。」
イルサーシャの指が残された剣の柄に触れる。剣体となった自身の柄を手にする時、ユストは常に何を思っているのだろうか、と彼女は思った。相手に打ち勝つ絶対の勝利なのか、この世の平和なのか、それとも剣霊の矜持を守ろうとする想いなのか。様々な思惑が交差する中、その答えを見つけられないまま女の細い指は柄を握り締めた。燭台の火も所々が燃え尽きて消え始めている。火が消えれば星々が良く見える様になる。揺らめく大まかな明かりの世界から瞬く清々しい明かりの世界へと移り変わる中、神剣霊の瞳は迷える剣霊の姿を黙って見つめていた。
「戦いもひとまず終わりました。幸いにして城内には休める部屋がありますし、陽が昇るまで休養を取ると良いでしょう。
「そうね。お子様の夜更かしはいけないわ。この二人の様に癖のある人間に育ってしまうわよ?」
「お二人はシェスの良き手本だと
「ミゼレレ、一つ聞きたいのだが…。」
「何でしょう?」
「新月でも神剣霊は力を失わないのか?」
「神剣霊とて例外ではありません。そうですね…剣を等分する事は出来ても橋は壊せないといったところでしょうか。」
手に持つ剣の片割れを不思議そうに眺めるイルサーシャを目の当たりにしたミゼレレは再び人差し指を唇に当てた。踵を返したミゼレレの姿が見えなくなり、残された剣霊二体は意識が遠退いているそれぞれの契約者に視線を落とした。月の無い夜は暗い。だがその暗さ故に契約者の顔の陰影が鮮明に判る。緑色の瞳に映るユストの横顔は眉間に皺を寄せていなかった。守るべき契約者が剣霊障から開放される唯一の日であるとイルサーシャは実感していた。
静寂とイルサーシャに見守られる中、ユストは意識を取り戻した。肌寒く感じる夜の空気が長年慣れ親しんだ百年香の爽やかな香りを運んでくる。
「ユスト、大丈夫か?脱力したそなたの頭、剣霊の
冷たくて固い床から冷たくも軟らかいイルサーシャの膝にユストの顔は移っていた。目を閉じていた契約者の黒髪を撫でる手を動かしたまま、剣霊の覗き込む動作は彼女の白銀の長い髪に様々な模様を床に描かせる。両手にはめている手袋を外したユストはそれを指に取って弄び始めた。
「ル・ゾルゾアとブリスタンは?」
「二人なら先に部屋に行った。ブリスタンたちは王族の寝室で休むから
「彼女らしい言い草だな。ともあれ皆が無事で何よりだ。」
苦笑を漏らし、指に絡みつかせた白銀の髪はそのままにして、ユストはうつ伏せから仰向けへと姿勢を変えた。澄み渡る夜空が飛び込んでくる。時間にして一時間ほどであろうか。ル・ゾルゾアと手合わせを始める頃より星の傾きが僅かに進んでいる。彼の言う様に今後は懐中時計が必要なのかもしれない。視線を澄み渡る夜空から手前へと移す。そこにはイルサーシャの顔がある。契約者の一挙一動を見守る剣霊の緑色の瞳は穏やかな水面の様であった。
「
「理解している。ミゼレレにもそうしろと言われた。」
「左様か?
「それは延長線上の話だよ。」
「実は
髪を撫でるか細い手はいつもの様に冷たいものの心地が良かった。
「無論、
「君と同じだよ。そこでお願いがある。」
「何だ?このままの姿勢で子守唄を歌えと言うなら
ユストの右の人差し指と中指がイルサーシャの剣霊らしく冷たい色の唇を押さえた。
「今夜は愚生を癒してくれ。」
黒い髪を撫でる女の手が止まり、静かに頷く。その動作から意思を確認し終えると白銀の長い髪を弄ぶ男の指は動きを止めた。
剣霊の手は女の柔らかさを持ち、そして冷たい。これは契約者側の見解であり、その逆はどうなのか。イルサーシャにとってユストの手は優しい。優しさとは様々な要素を包括した表現ではあるが、彼女をそう思わせる一番の要因は温かさであった。熱過ぎず冷た過ぎず、彼女に触れる事が出来る唯一の手は常に心地良い温度を保ち、それを実感する度に心が安らぐ。この安らぎはいつまで保てるのだろうか。剣霊は剣としての機能を失った時が最期であるが、屈強な誇りがそうである様に、その剣体は容易に折れたりはしない。だが人間は違う。寿命という概念もさる事ながら、その身体はいとも脆く傷付き命を失う。
儚いという言葉が彼女の脳裏に浮かぶ。儚さと優しさは比例している。
召使用の寝室はその名の如く調度品は質素であり、下手に畏まる必要も無かった。ベッドシーツの上にうっすらと積もる埃を払い落とし、埃の代わりに剣霊と契約者の身体が横になる。明り取りで灯した蝋燭の芯の先を剣霊は一本の指で薙ぎ払った。周囲に焦げ臭さと薄闇が瞬時に広がり、衣服を纏わない二人は幾分の高揚を覚える。重ねる唇に剣霊は自然と目を閉じ、上になる契約者の背中にしがみ付く。絡まる舌の感触はしがみ付く指に力を入れさせる。唇同士が離れ、汚れを知らない首筋に契約者の吐息を感じると剣霊は虚ろに口を開く。首筋から肩、そして胸に吐息が移る毎に閉じる事を忘れた口から雌の声を漏らした。霊体の全てで契約者の手を感じ、彼女が思うところの優しさが余す事無く全身を駆け巡る。馬乗りになった剣霊の身体が反り、星々の輝きに呼応したかの様に白銀の長い髪が宙を舞う。両耳にぶら下がる黒蛇のピアスは何も言わずにその身を揺らしながら主の姿を静かに眺めている。艶やかに目を細め、遠退く意識を繋ぎ止めようと女の両手が男の両手を捜す。繊細な指と頼れる指が交差する。女は強く握り締めるとその優しさに安堵を感じたのか口元を僅かにほころばせ、羞恥と歓喜が織り成す感情に身を任せた。
新月の夜、白銀の長い髪を持つ剣霊はその麗しい身体を弾けさせた。
トウラドオクの呪いが消え去ってから二ヶ月の月日が流れた。幾つかの依頼を終えたル・ゾルゾアは比較的近くにあったダゴウ市街地に立ち寄った。彼の中で完成させておきたい絵が一つあった為である。久々に訪れた町は以前よりも人々の往来が回復しつつあった。ダゴウとムカサの依頼を受けた二名の剣霊使いそれぞれが持ち帰ったトウラドオク八世の剣は完全に二分されており、依頼主であり市の代表である市長たちは共に優劣について語らなかった。下手な競争心が挫かれると、これまでの経緯を省みるのか、お互いは手を取り合い始める。その方が双方にとって利益に繋がる。先月からはダゴウとムカサを結ぶ幹線道路の整備事業も両市の共同出資にて着工が決まったと聞いている。事業を推し進めるには人手が必要となる。数ヵ月後にはダゴウとムカサを出入りする人間が増え、活気に満ちた場となるであろう。人口が多い場所は犯罪や争い事といった問題が生じやすいが、喜ばしい出来事も必ずある筈だ。そう思うと、トウラドオクの呪いに於いて協会からの報酬も剣と同じく二等分されたが、悪い気はしなかった。
幸いな事にダゴウ市街地の象徴である鉄壁門の周囲は閑散としていた。元から寂れていた、と言っては元も子もないが、今は皆がトウラドオク八世の剣の片割れに関心を寄せている為、無理も無い。前回座っていた位置に再び腰を降ろし、画材道具を広げる。天候は幸いにして曇りであり、明るさが織り成す陰影の具合は下書きを終えた頃とほぼ同じである。人間の有様を見つめてきた鋼鉄製の門の表面を色彩で表現するのは感慨深くなる趣が生じる。
ミゼレレが語ったルウエ・トウラドオクの真実に偽りは無いのだろうが、世に公表するのは控えた。ミゼレレの口から聞いた者だけが知り、理解すれば良いと二人の剣霊使いは思っている。ただ、後世には彼を侮蔑する認識を極力控えさせたいという想いを込めて、両市に飾られた剣の片割れに対する銘文は『亡き王の魂、安らかに』とさせた。
風の悪戯か、混ぜ合わせた画材の独特の匂いの中に覚えのある香りが混ざる。絵の中で鉄壁門の横で佇む女と同じ香を嗜む者がいるのか、とル・ゾルゾアは関心を覚えた。先程から背後に気配は感じていたが、敵意は全く感じられなかった為そのままにしていたものの、少なからずの興味が彼を振り返させた。
「おじさんが描いている絵の中の人、イルサーシャだよね?」
百年香を嗜む女はあどけない少女であった。肩まで伸ばした髪はしなやかであり、その内面に似て愛苦しさに一役買っている。家の者に買い物を言われたのか、両腕で大事そうに購入品が入った紙袋を抱えていた。
「ほぉ。君はイルサーシャを知っているのか?」
少女の問い掛けは筆を動かす手を止めた。見ず知らずの大人に声を掛けるにはかなりの勇気が必要であったであろうと思い、彼なりの笑顔で応える。強面ではないものの、生と死の狭間を渡る者の雰囲気は少女の脚を一歩後ろに動かした。だが、イルサーシャについて知りたいという欲求は理知に富んだ男の瞳によって警戒心を和らげ始めた。
「わたしの家、青い狐って宿なんだ。イルサーシャはうちに泊まったんだよ。」
「なるほど。おじさんは…旅をしながら絵を描いているが、彼女とは数回話をしたかな。」
「本当?」
「本当だとも。でなければ君の百年香の匂いに気を留めないさ。」
「でも、イルサーシャには無口な男の人がいつもに横にいたけど…。」
「彼とは煙草を貰う仲なんだ、おじさんは。彼は無口という時点でぶっきらぼうに思われるが、心優しい男だよ。」
百年香という言葉の響きは少女を喜ばせた。無口な男の件も当てはまる。彼の優しさのおかげで少女は剣霊に触れる事が出来た稀有な人間になれた。
「おじさん、イルサーシャは何処に行ったの?トウラドオク八世の剣を自警団の副団長さんに渡したままダゴウには戻って来なかったんだよ?」
「さらに西へ行くと聞いてはいるが、詳しい事は判らないな。」
インファンティラを退けた翌日、ユストはザッファの森にて迎えを用意してあるとル・ゾルゾアとシェス・ロウに声を掛けた。四人乗りの馬車なので剣霊を剣体にすれば全員が乗れるという計算であったが、神剣霊とその契約者は彼の好意に甘んじなかった。トウラドオク歴代の王の剣全てに結界を張り巡らせるという理由である。その方法や手順は謎のままだが、歴代の王がルウエ・トウラドオクの様に禍根を残した魂であった場合、神剣霊としての祈りを捧げるのであろう。ダゴウ市街地の門扉の前でユストとイルサーシャは馬車を降りた。トウラドオク八世の剣の片割れを押し付けられた御者のテギーユ・オローは市長に会わないのかと困惑を顔と口に出したが、剣霊使いは依頼を終えたら速やかにその場を立ち去るのが常である。今回の依頼についても例外ではなかった。ただ強いて言うなれば、ありがとう、とユストの声を聞けたテギーユ・オローは幸運な男なのかもしれない。
「お嬢ちゃん、名前は?おじさんはル・ゾルゾアだ。」
「エリーナ。青い狐のエリーナってこの街の人は呼んでいるよ。」
「将来美人になる良い名前だ。エリーナはイルサーシャから百年香を貰ったのか?」
「うん。わたしもイルサーシャみたいになるのが目標なんだよ。」
「剣霊になるのか?それはちょっと難しいとおじさんは思うが?」
「違うよ。イルサーシャみたいな綺麗なお姫様の様になりたいの。髪の色は違うけど…。」
あどけない願望はル・ゾルゾアの心を温めた。肩までの髪が腰まで伸びた時、少女は淡い恋を覚え、淡い恋が色濃くなった時、新たな生命を授かる。腰まで伸びた髪を無造作に束ね、新たな生命を育む事に苦労と幸福を感じる。そして月日の経過と共に髪は艶を失い、彼女が育んできた多くの愛する者たちに見守られながら息を引き取る。その時まで彼女の中で白銀の長い髪を持つ剣霊は変わらぬ姿を保ち続けているのであろう。剣霊の姿は男が求めた容姿と言われるが、実のところは女の憧憬を具現化したのかもしれない。
「剣霊というのは何があっても絶対に折れ曲がらない心を持っているんだ。エリーナ、君にもそれが出来るといいね。」
「出来るかな?」
「出来るさ。そうだな、もう少しでこの絵も完成するから、そうしたらエリーナにプレゼントするよ。その方が絵の中のイルサーシャも喜ぶだろうし、君の励みにもなるだろう。」
「貰っていいの?でも…おじさん、絵を描いて売っているんでしょ?」
「まぁ実は、別の方法でも稼いでいるから気にする必要は無いよ。」
ル・ゾルゾアは懐から鈍い金色をした六角形の物体を取り出した。見覚えのある物体である。最近、戦争相手の東国から輸入された持ち運びに便利な時計だとエリーナは気付いた。祖父と街を歩いていた時に時計屋の前でこれを一目見ようと人だかりが出来ていたのを覚えている。綺麗に整えた顎鬚が印象的な画伯は高額な商品を持っている。良い身形といい、紳士的で物腰が柔らかい人柄は悪い人ではなかろうと幼心ながらに感じていた。
「おじさん、イルサーシャの話、他に無いの?」
「あるにはあるが、買い物の途中じゃないのか?あと二時間も経たないうちに日が沈むぞ?」
「あとは帰るだけだから大丈夫だよ。」
「だが、早く帰らないと家の者が心配するだろう?絵は完成したら君の家まで届けるが…。」
「そうだ、折角だから、うちに泊まってお話聞かせてよ?剣霊が泊まった宿だよ?」
「なるほど。」
新たな依頼の指示もまだ出ておらず、また新月の日はやたらと動かない方が良い。剣霊が泊まった宿から剣霊御用達の宿といった謳い文句に明日からなるのだろうなとル・ゾルゾアは内心で微笑した。
「では、おじさんと連れの二名分で用意してもらおうか。」
「あ…おじさん一人じゃなかったんだね。その人の意見、聞かなくても大丈夫?」
「問題ない。彼女も剣霊に興味を持つ少女に会えた事を喜ぶと思うよ。」
「おじさん優しい人だから、お連れの方も優しくて綺麗な人なんだろうな。」
「うちのは…お姫様というよりは女王様の趣だが、綺麗かどうかは見た者の感性次第だよ。」
吹く風がエリーナの肩まで伸びた髪をさらう。頬に辛く当たる風が秋という季節ももう終わりに差し掛かっている事を知らせていた。
「ところでエリーナ、君の宿では台帳にサインするのは入館時のみかい?」
「うん、そうだけど…?」
「ならば問題ない。今の質問は忘れてくれ。」
不思議そうに首を傾げる少女の姿を目の当たりにしたル・ゾルゾアは、自身の剣霊にもこの様にあどけない時期があったのかと思うと吹き出さずにはいられなかった。
久しぶりに声を出して笑った。喜ばしい出来事とは、この様なものなのかもしれない。
<トウラドオク城址編 完>
語らずの剣霊使い 花輪 類 @hanawa
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