第6話 ザッファの森
剣霊が自らを
彼は傭兵出身の剣霊使いであった。七年前に東部帝政国家の傭兵部隊に入隊し、日々訓練という生活を送っていた。もともと世間に対して客観的な視点で接する性格であり、武器の扱いに一喜一憂するよりも、絵画を楽しみ、詩の奥深さを追求したりと、内面の世界に身を置く方が性に合っていた人間である。その様な楽観主義者が傭兵募集のチラシを手にした際、捨てずに上着のポケットに仕舞い込んだのは、一人身であった事、その報酬が高かった事、東部帝政国家は他国と比べて侵略戦争に於いては消極的な傾向があると判断しての事である。だが、いくら国家が消極的立場であろうとも他国が攻めてきたら防戦せざるを得ない。ル・ゾルゾアが所属する傭兵部隊は南方との国境付近に配属された。前線に送り込まれた訳である。支給品である軍服に身を包み、自己の命を守り武勲を立てる為に必要とはいえ、出来合いの品というのが少々頼り無いサーベルを腰にぶら下げ、腕には画材を抱えて彼は任地に赴いた。
前線とはいえ、両軍共にいたずらに兵力を削ぐ事を嫌っていた。彼が赴いて以来、毎日が睨み合いの連続で、小競り合いも特に無く、頼り無いサーベルを手にする必要がある状況には遭遇していない。二ヶ月ぶりの非番の日、彼は国境付近のフロシーム山脈に画材と共に軍服姿のまま足を伸ばした。この地には三連の滝があると聞いており、その姿を題材にしたいと考えていたからである。三連の滝までの道のりは商人の往来で作られた山道をそのまま進むだけであったが、途中で敵の斥候二名を目撃した。引き返しては折角の非番の楽しみが台無しになる。彼は脇に逸れ、そのまま道なき道を勘頼みで進んだ。生い茂る草を払い、前を塞ぐ蔓をサーベルで切る。戦いでは無く、この様な場面で初めて使用するとは、と苦笑を浮かべずにはいられなかった。
木々が広がる薄暗い世界が途切れると、そこには家屋があった。石では無く木製で造られており、所々に経年劣化が見られ、廃墟であると判るのに、そう時間は要さなかった。朽ちた扉はいとも簡単に開き、思わぬ来客を迎え入れてくれる。建物の中は草が生え、木の根が床を突き破っている有様だったが、生活していた者の名残が見て取れた。食卓と思われるテーブル、四脚揃った椅子は共に遠い過去に流行ったと思われる模様が飾りとして脚部に彫られている。テーブルには彼の中指の先端から手首の付け根まで程度の大きさの肖像画が中央に佇んでいた。二十歳前後の青年の横顔である。この家に住んでいた親が戦地に赴く息子を偲んで用意したのだろうか。蔦が伸びている壁面には食器を収める飾り棚が一つあり、その脇にはこの家の家宝を思わせる曲剣が掛けられていた。
武器というものにそれほど興味を持たないル・ゾルゾアだが、その姿に魅力溢れる美しさを認めざるを得なかった。絶妙な孤を描く刀身は鈍い黄金色をしており、並みの一振りでは表現しきれない気品を漂わせている。無駄な装飾を省いた鍔は黒く光り、幾多の戦場を駆け抜けたと思われる重厚な雰囲気を物語っている。彼はその剣を手に取って鑑賞したいという衝動に駆られた。床の軋む音も気にせず、壁に近寄る。蔦もこの曲剣に敬意を払っているのか、恐れをなしているのか、その身を避けて壁面に貼り付いている。黒曜石の象嵌が施された柄に手を掛け、己の体の前で構える。握り具合は太くも細くも無く、重量も全く気にならない。角度を変えて眺める。程好い厚みの刀身は彼の期待を裏切らず、その輝かしさを失わない。心と興味を惹き付けて止まない美しき曲剣は、黄金に輝く刀身に直に触れろと誘惑しているのでは、とル・ゾルゾアは思った。そして、抵抗も無くそれに従った。何という金属で出来ているかは判らないが、思っていたよりも表面は滑らかな肌触りをしている。触れている指はやがて刀身の端、つまり刃の方へと誘われた様に流れた。
ル・ゾルゾアが内なる鑑賞の世界から我に返ったのは、触れていた指を切った後である。痛みがそうした訳ではない。むしろ痛覚を失ったかと疑うほどの切れ味であった。黄金色の刀身に赤い点が付着し、それが徐々に広がっていく様を目の当たりにした時、初めて彼は気付いたのである。
美しいものには触れるなとはこの事か、と独り納得し、軍服の袖口で刀身の血を拭う。人様の物を汚してしまった罪悪感と共に曲剣を元の位置に戻し、テーブルに寄り掛かった。指の先から血が滴り、床に落ちる。脈打つ音が聞こえ始め、痛みも伴ってくる。上着のポケットからハンカチを取り出し、巻きつけて止血する。薄汚れた窓の外の景色はのどかそのものである。先程見かけた敵兵はル・ゾルゾアの姿を見ていないはずである。なんとか逃れられた、という安堵感と共に、何処にいるのか判らなくなった以上、無事に帰れるのか、無事に帰る為にこの休日を費やしてしまうのか、という気だるさが込み上がってきた。
「まいったな。」
思わず声に出してしまった己の心境を耳にし、彼は自身の滑稽さを鼻で笑った。
「あら、そこまで悲観しなくても良くてよ。」
女の声がした。落ち着きがあり、女特有の甘い声色である。ル・ゾルゾアは腰にぶら下げたサーベルにこの身を託さなければならないのか、とこの時ほど思えた事は無かった。ゆっくりと女の声がした方に体をねじった。声の主は腰より下まで伸びた豊かな金髪を持ち、両肩が露出した黒い服は彼女自身が持つ洗練された艶やかさと女性らしい曲線美を見事に表現し、その魅力を最大限に引き出していた。
「すまん、敵兵の眼をくらます為に逃げていたのだが、住んでいる者がいないと思い込み、勝手に上がってしまった。」
「えぇ。それはいいのよ。ところで、幽霊か魔物かって疑わないのかしら?」
ル・ゾルゾアはテーブルから数歩進んで何も無い壁に背中を着け、女のスカートに施された深いスリットに指を差した。
「幽霊にしては魅力的な女の脚だ。それに魔物だったら、こうして人間と会話を楽しみはしないだろうね。何も声を掛けずそのまま襲うはずだ…と言いたいところだが実のところ、問われるまでは、君の姿に見とれていて、そう考える余裕は無かったというのが本音だ。」
「お上手なのね、あなた。」
女の口元が微笑の形に歪む。女性らしく両肘を手で包む腕組みをしつつ、首をかしげながら再び口を開いた。
「そうね。確かにあなたが
何が言いたいのか、ル・ゾルゾアには彼女の言葉の意味が判らなかった。それよりも、彼女の金色の瞳がこちらを捉え、その奥深い輝きに吸い込まれそうで正視できずにいた。金色の瞳から逃れるために壁に視線が移る。先程手にした曲剣が姿を消していた。
「俺はただの傭兵だ、これといった取柄は無いよ。ところで、君は何者だ?壁に掛けられた剣が見当たらないが、護身用に隠し持つにしては、たいそうな代物だと思うぞ?」
警戒するル・ゾルゾアの言葉の真意を察したのか、女はテーブルの下の椅子を引き出し、腰を降ろした。脚を組み、スカートのスリットから滑らかな脚が露になる。女の目尻が僅かに優しさを伴う。彼女の一連の動作はすぐには動けないという敵意が無い事、さらには武器を隠し持っていない事を証明する行為であった。
「
「あぁ、聞いた事はある。」
「良かったわ、通じて。ところで剣霊についてご存知?」
「俺には無縁と思っていたから、たいした関心は持ち合わせていなかったが…つまり君は壁に掛かっていた剣そのものなのか?」
ル・ゾルゾアは喉の渇きを覚えた。緊張の表れであった。剣霊という、話でしか聞いた事が無い未知の存在に出くわし、こうして会話をしているという事実が彼をその様にしたのである。
「そう、呑込みが早いのね、あなた。剣体のままではお話が出来ないから、こうして霊体になっている訳。
「ル・ゾルゾアだ。先程言ったように、東の傭兵だ。ところで、水筒の水を飲んで良いか?剣霊に初めて会って、落ち着いていられる者などいないだろう?」
「どうぞ、遠慮無く。」
「ブリスタン、君も飲むか?湧き水を一度沸かしてあるから腹に来る事は無い筈だ。」
「剣霊は水を飲まないの。それに、あなたの血を頂いたわ。ほんの少しだったけど、素敵な血だったわよ。」
どうも調子が崩れる。ブリスタンと名乗る剣霊は何故現れたのか。先程壁に掛かっていた彼女自身である曲剣に触れた事に対し、怒っているのか。それとも単に迷い込んだ人間と一時の会話を楽しみたいだけなのか。ル・ゾルゾアはサーベルとは反対側の腰にぶら下げた細長い水筒を手にし、その中の一口分だけ口に含んだ。喉は幾分潤い、その姿を見ている金色の瞳は優しくも冷たくも無く感じられた。
「さて。ル、あなたの血は
「何だ、勝利とは?」
「思ったことを言葉で言えば良いのよ。剣霊の前に体裁を繕うのは無意味よ。」
今度は問答が始まったのか、とル・ゾルゾアは眉をひそめたが、この際は彼女の言うがままにしてみようと思った。別にブリスタンに悪気は無い様である。
「二つある。一つは社会秩序の範囲内で個々の自由を得て、それを継続するだ。もう一つは克己心を維持することだ。まぁ、なかなか実行できない精神論だが、その心意気を忘れずに生きているよ。」
ブリスタンは再び首を傾げてル・ゾルゾアを眺めている。眺めるというよりは鑑定という言葉が合っているのだろうか。言葉そのものと、味わった血から得た情報、彼の風貌から伝わる人柄を精査し、結論を見つけ出している様子にも見える。
「悪くないわ。ル、腰のなまくらを外して、上着を脱ぎなさいな。」
「何をする気だ?」
「
「おい、俺は剣霊使いになっても剣の腕などからっきしだぞ?君の期待に応える自信は無いに等しいのだが。」
「
契約とブリスタンは言っているが、何か儀式的な事でもこれから行うのだろうか、とル・ゾルゾアは思った。状況からして紙切れ一枚にサインをしろ、という様子でもあるまい。彼はサーベルの鞘を掴み、ベルトから固定具を解除する。そのまま腕を伸ばし、ブリスタンの顔の高さに掲げた。
「その契約とやらを、俺が拒否したらどうするんだ?」
言葉を発し終わると共にブリスタンの右腕が素早く上下した。研ぎ澄まされた何かが、サーベルの柄と鞘に収めた刀身を二つに引き裂かれた。無粋な金属音が床から響いた時、それに気付くと共に、前に突き出していた腕に気だるい衝撃が走り、ル・ゾルゾアは片膝をついた。頬を掠めた風圧により、血がうっすらと流れ始めている。
「殺すだけ。剣霊の矜持を侮辱した者に情けは無用よ。」
金色の瞳の奥にあるものは、怒りと悲しみが混ざり合わさった表情をしている様にル・ゾルゾアは思えた。彼は手にしていたサーベルの鞘を離し、立ち上がると上着の前ボタンを外した。
「判った。これも何かの縁だろう。後は君に任せる。」
「素直なのね。人間は素直が一番よ。
ブリスタンの目元が幾分柔らかくなった様にル・ゾルゾアは感じ、彼女の指示通りに椅子に腰を降ろした。
天よ、剣霊ブリスタンその唯一の誇りに於いて身を預けし者ル・ゾルゾアを願わくば守り給え。天の御使いたる者たちよ、猛る火は雄強を、嘶く水は真理を、囁く木は慈恵を、育む土は叡智を、煌く黄金は尊厳を。各々の片鱗をかの者に献上し、剣霊たる
ブリスタンの唇がル・ゾルゾアの左肩に近付く。初めて剣霊という存在を目の当たりにし、人間の姿をしてはいるものの何処と無くかけ離れた雰囲気を感じていたが、この時に呼吸をしていない事に気付き、その理由を理解した。
「
左肩に冷たいものが走る。半開きにしたブリスタンの唇からは温度は感じられない。体内の血を摂取されて体温が低下したのである。しなやかな指がル・ゾルゾアの後頭部をなぞる。生物は全て切り裂くといわれる剣霊の肌が触れている。その感触は人間の女そのものであり、動き方は恋しがれる乙女の様でもある。ル・ゾルゾアもブリスタンの頭に手を置いた。意識が遠退くのを感じつつ、滑らかな黄金色の髪を撫でた。僅かに首を動かし、左肩に顔を埋めたブリスタンを見る。豊かな黄金色の髪の奥で、何事にも精通していそうな目を閉じて血を摂っている。恍惚に似た剣霊の横顔に契約者は目を細めた。その先に映るテーブルの上に置かれてた肖像画がいつの間にか裏返されている。ル・ゾルゾアは微笑をすると共に思った、ブリスタンという剣霊は女そのものであると。
ル・ゾルゾアが目を開いたのは、気を失って椅子の背もたれに身を預けてから、およそ二十分経過した後である。右手でブリスタンの髪を弄んでいた覚えがあったが、今は自分の膝の上にある。
「契約時に人間が気を失うのは良くある事よ。恥じる必要は無いし、普段よりも多めに血を頂くから無理も無いわ。それにしても穏やかな顔をしていたわね?」
ブリスタンは血の摂取を終えた後、ル・ゾルゾアの横でその顔を眺めていたのだろう。彼の右耳に顔を近付けて悪戯っぽく囁く。
「喜びなさい、ル。この勝利の剣霊ブリスタンに唯一触れる事が出来る存在になったのよ。」
「今ひとつ実感が湧かないが…俺に何か見せて証明してくれないか?」
「あら、疑い深いのね。ちょうど良いわ、今から三つの出来事を目の当たりにしてもらおうかしら。」
まず一つ目と、ブリスタンが左肩を指差す。指摘されて気付いた様にル・ゾルゾアは右手を左肩に置いた。ブリスタンが口をつけた辺りが赤黒く腫上がっていた。痛みも無く化膿している様子も無い。ただ、自分の体とはいえ、長い間見つめるのは少々気が引ける有様である。
「この腫上がったのが、契約の証なのか?」
「簡単に言えば、
「なるほど、契約とは上手い表現だ。人間で言うところの結婚だな。」
「そうね、あなたの命の灯火が消えるまで
「その灯火が消えたら君はどうするんだ?剣霊は不老不死と聞いているが。」
「だいぶ先でしょうけど、消える一日前に教えてあげる。それまで
ブリスタンはル・ゾルゾアの手を取り、人間の女より表情豊かな唇に当てる。
「普通の人間なら、剣霊の唇に触れるなんて出来ないのよ?」
二つ目として、ブリスタンは膝を折り、床に這う草の根に指を当てた。草の根は何の抵抗もせずに綺麗に二つに切断される。次に床板を押し上げてその姿を露にしている木の根に指を当てる。特に力を入れている様子も無く、彼女の指は木の根を切断し始めた。
「この辺りでもう良いかしら?これ以上切ったら、この木が枯れるわ。」
「そうだな、悪かった。」
他の剣霊や人間にはやや強い感情を示すブリスタンだが、彼女の優しさを垣間見たと言おうか、意外な面もあるのだな、とル・ゾルゾアは今後の人生を共にする剣霊の姿に感心し、契約の為に脱いだ上着の袖に腕を通していた。胸元のボタンを合わせ終わると共にブリスタンが口を開く。
「三つ目は、実戦になるわね。」
「どういう意味だ?」
「そうね、あと数分でここに邪剣霊が来るわ。恐らくあなたが途中で見かけた敵兵さんの変わり果てた姿でしょうね。」
「何故そんな事が判るんだ?」
「あら、剣霊の索敵能力はなかなかのものよ?多少の距離があっても敵意があるものを肌で感じる事が出来るのよ。」
「つまり、俺のサーベルを真っ二つにした様に、邪剣霊も君が腕一本で片付けるのか?」
意志の強さを表していると表現しても過言ではないブリスタンの一直線の左右の細い眉が僅かに動いた。
「嫌よ。」
ブリスタンは腕を組み、テーブルに寄り掛かった。
「久しぶりに霊体になって、疲れたわ。それに今、俺のサーベルなんて言ったでしょ?ル、あなたにとって剣は
これは人間の女より扱い難いな、とル・ゾルゾアは内心で溜息を吐いたが、外の物音が彼の気を張らせた。ブリスタンの言った通り、先程見かけた敵兵の片割れである。ル・ゾルゾアの記憶と違うのは、生気を失った青白い顔と虚ろな目元、そして装備品らしくない剣を手にしている点であろうか。どちらにせよ、相手は言葉の通じる相手では無く、そして倒さなければこちらがやられてしまうのは楽観主義の男でも直ぐに判った。
「確かに俺が見かけた敵兵だ。二人いたのだが、もう一人はいないのか?」
「いないわ。同僚が邪剣霊に襲われたのを知って逃げたか、あるいは、そのまま斬られたのかしら。ともかく、
「その前に、邪剣霊について教えてくれ。」
「誇りを失った剣霊よ。」
「いや、もっと具体的に。弱点とか行動癖とか知らないのか?」
ブリスタンが再び首を傾げる。彼女のこの行動は何かに興味を持った時に行う癖なのだろうとル・ゾルゾアは思った。
「誇りを失った剣霊は血に飢えて相手の見境無く手に掛けるけど、その最たるが獣なのよ。獣の血を摂った剣霊は人間の言語を失い、獣の能力を身に付け、本能の赴くままに行動するわ。ところで、人間が他の動物より優れいている点は何かしら?」
「知性だ。」
「ではその逆で、劣っているのは?」
「知性以外だ。敏捷性に始まり、体力、攻撃力…きりないな。」
「まぁ、そういうこと。並みの人間では勝てないわね。」
外の動きはどうなっているのか、邪剣霊に操られた敵兵がこちらに来ないか、と実戦経験の無い剣霊使いル・ゾルゾアは気を揉んでいた。だがその様な不安など気にせず、ブリスタンはル・ゾルゾアに近付くと、その首に両手を廻した。
「だけど、あなたたち人間がいうところの良き剣霊である
落ち着きに満ちた剣霊の足元には二つに分かれたサーベルが転がっている。まさに一刀両断という言葉にふさわしい切れ味であり、並の人間が出来る技ではない。これが可能になるのか。
「
ル・ゾルゾアは言われた通りに右手をブリスタンの滑らかな腰に当てた。一瞬にしてブリスタンの姿は消え、腰に添えていた手は壁に掛けられていた曲剣の柄を握っていた。悩んでいる余裕は無い。彼は右手に力が入るのを感じつつ、外に出た。ブリスタンが口にした、人間の想像を超える剣圧が出来るならば、この建物の中では充分に発揮出来ないと感じたからである。
敵兵だった者もル・ゾルゾアの存在に気付くと共に切りかかって来た。人間の速さではない。ブリスタンが言った通り、獣並みの速度がある。だが、右手で斜め上に剣を構えている。振り下ろすしか出来ないはず、とル・ゾルゾアは判断し、防御の姿勢を取った。彼の考えは間違っていなかった。日差しが豊かな森の中、刃と刃がぶつかり合う。邪剣霊の手先となった敵兵の瞬発力を得た一撃は力強く、ル・ゾルゾアは歯を喰いしばって受け止めるものの、負ける気はしなかった。黄金の刀身は鈍く輝いており、重厚さと他の何者にも属さない威厳を備えている。一方の邪剣霊の剣体と思われる方の刀身は刃こぼれをしており、輝きは失われていた。度重なる打ち合いの末の姿なのであろう。疲れ果てた姿は所有者の死を表し、その怨念が邪剣霊となったのか。ならば尚更ここでやられる訳にはいかない、とル・ゾルゾアは更に歯を喰いしばった。先程ブリスタンに勝利とは何なのかを述べたばかりである。また、ル・ゾルゾア自身は気付いてはいないが、邪剣霊自身とそれを手に握る人間であった者を弔うのも剣霊使いの役割でもあった。
ル・ゾルゾアは両足に力を込めた。大腿筋が外側から内側に巻き込む様に動く。上半身の安定を図ったのである。そして渾身の力と気合の声で敵の剣を押し上げる。敵兵が後ろに飛び跳ねると共にル・ゾルゾアは左から右へと横薙ぎの一閃をした。空を斬ったのは判っている。何かを切り裂いた感触や抵抗は微塵も無い。しかし彼はブリスタンの言葉を信じていた。そのまま上段に構えて真下に振り下ろす。敵兵は着地と共に両膝から崩れた。その身体には曲剣の軌跡が鮮明に刻まれている。両膝を衝いた衝動で上半身が僅かにずり落ち、そのまま前のめりに倒れた。力任せの横薙ぎによる剣圧は敵兵の身体は勿論、その後方の広葉樹の樹皮にも及んでいた。
初めて人間を斬った。ル・ゾルゾアの脳裏にこの言葉が浮かんだ。だが、視界に映る光景はその事を事実として受け入れるには不十分であり、罪悪感が生じなかった。相手は邪剣霊に血を全て奪われた者である。つまり斬撃を喰らおうとも血は出なかったからであった。
彼は家屋に戻ろうと振り返るなり歩き始めた。あの敵兵は血を吸い尽くされて動く屍と化していたのであろう、と思うと共に疑問が一つ生じた。邪剣霊そのものは斬っていいないのでは、と。足が止まり、曲剣を握る手に自然と力が入る。日差しを受けた曲剣の刀身が輝いている。ブリスタンが何か言っている様に思えた。
振り向き様に曲剣が黄金色の孤を描いた。ためらいの無い、優雅な軌跡の先には女が立っていた。線の細い美しい女ではあるが、憔悴した表情の中で赤い目が爛々と輝き、腰まで伸びた髪は乱れている。ブリスタンの剣圧は女の胸元を裂いていた。女は右腕をル・ゾルゾアに伸ばし、声が出ない口を開いたと思えば、霧の様に消えていった。これが邪剣霊なのか。再び敵兵の亡骸に歩み寄る。彼が手に握っている名も無き剣はいつの間にか剣先から握り拳一つ置いた部分で二つに折れていた。
戦いは終わった。ル・ゾルゾアは目を閉じ、事の事実を受け入れると共に深い溜息を漏らす。彼が迷い込んだ森は、その思惑とは関係無しにのどかであった。
霧深い中、足元に二体の屍が横たわっている。それぞれが手にしている剣に向けてル・ゾルゾアは右手に持つ曲剣を振り下ろす。金属同士が擦れる音が短く響き、それは彼の手で葬られた亡骸に対する哀悼の鐘の音にも聞こえた。彼は周囲の安全を確信したのか、黄金の刀身を持つ曲剣を地面に突き刺すと手頃な高さの岩に腰を降ろした。
「朝早くから大変ね。もう少し横になっていたかったのではなくて?」
艶やかであり、悪戯好きそうな女の甘い声が朝方の森に響く。首元に流れた汗を拭うル・ゾルゾアの前に黄金色の絶妙な孤を描く髪を持つ勝利の剣霊、ブリスタンが姿を現した。
「まぁ、昨日から歩き尽くめだったからな。」
「剣の速さに曇りは無かったけど、何を考えていたのかしら?気持ちが別の方向に傾いていたのは剣体の
「ブリスタン、君と初めて出会った時の事だよ。その時も森の中だった。」
二人はザッファの森と呼ばれる場所にいる。かつてのトウラドオク城を取り巻く天然の要害としてその名を留めている。昨日、それぞれがユストとイルサーシャに遭遇した後、依頼主であるムカサ市街地の意向に従ってトウラドオク城址に赴き始めていた。昼過ぎにダゴウ市街地を後にし、道中で遭遇した人食い狼の群れのうち五体を倒してザッファの森に足を踏み入れたのは日が落ちてだいぶ過ぎた頃であった。夜間の移動は日中と比べて体力の消耗が激しく、魔物との遭遇率が非常に高い。ほど良い大きさの岩穴を見つけ、剣霊使いはそこに背を付けて休息を取る。その間、剣霊は霊体のままその美しい身体で剣霊使いを覆いかぶさり、外敵からの危険を守るのが定石である。そして、陽が昇ると共にブリスタンは二体の敵を感知し、ル・ゾルゾアと共に対処した次第であった。
「そうね。あの頃に比べて剣技も素早さに磨きが掛かったし、剣霊使いらしい鮮やかさが備わったわ。」
「振る剣の質が良いからだよ。」
ブリスタンは首を傾げた。
「ついでにお世辞までも上手くなったわ。あの時、
「おかげで字が書けなくなるとは知らなかったけどね。」
「剣霊障の話をして怖気つかれたら、折角の良い男を斬らなければならなかったのよ。だから割愛させてもらったわ。ねぇ、それよりも食事にしたいの。ムカサに到着した晩以来だし、今の戦闘で疲れたわ。」
「俺が寝ている間に摂らなかったのか?」
「寝込みを襲うみたいで嫌。それこそ今倒した二体と同じで優雅さに欠けるわ。それにどうせなら、あなたの表情の変化を見て楽しみたいの。」
ザッファの森はその大半が針葉樹である。互いに競うように伸びた枝は陽の光を遮り、地面には苔が広がっている。薄暗さと朝霧が似合う風景は剣霊の神秘的な美しさを更に映えさせる。だが、剣霊とは武器である。武器が最も輝かしく見えるのは戦場であり、この地もその昔は戦場であった。トウラドオク打倒の信念の下、度重なる攻防が繰り返され、多くの命が散り、その同じ数の信念が消え去った。先程倒した二体は邪剣霊本体では無かったものの、その強力な魔力で復活した過去の兵の亡骸であろうとル・ゾルゾアは推測した。だが、共に頭部が失われた状態であった事に対しては特に気を留めていなかった。仔細は気にせず、向かって来る者は切り伏せる。それが勝利の剣霊ブリスタンとその契約者たる剣霊使いル・ゾルゾアの信条である。
「さ、早く肩を出しなさいな。」
ル・ゾルゾアは気侭な気質がある人間であるが、ブリスタンも彼に負けず劣らずといった具合である。出会ってからの七年間、揉める事無く過ごせたのも、似た者同士で呼吸が合っていたのであろう。無論、言いたい事を遠慮無しに語るブリスタンに対し、ル・ゾルゾアが男らしく懐の深さを見せているとも言えるが。
急かすブリスタンの言葉の通りにコートを脱ぎ、シャツのボタンを上から三つ目まで外す。ブリスタンはル・ゾルゾアの両肩に手を置き、その顔を覗き込んだ。
「そういえば、ル。あなたも
「この依頼が完了したらその好意に甘えるよ。」
「あら、気に障った?」
「正体不明の敵と同業者が待っている。腑抜けている場合ではない。お預けだ。」
「もしかして、ユスト・バレンタインが気になるのかしら?」
「サイレントの異名を持つ男だからな。剣霊使いという同じ立場であろうと無かろうと、意識せざるを得ないだろう?」
「向こうも同じ事思っているでしょうね、恐らく。」
ル・ゾルゾアの片足にブリスタンは腰を降ろし、自らの食痕を華奢な人差し指で弄び始めた。剣霊に人間の体重という概念は無用である。彼女の重さは本体である曲剣の重量に他ならない。
「剣霊使いというのは剣霊の能力をどれだけ使いこなせるか、という点で優劣が決まるでしょうけど、我(あ)からしたら人間の能力に限りがある以上、そんなのはほんの誤差程度の話よ。要は剣霊の能力次第という点が重要でしょうね。」
「俺とユスト・バレンタインは同等という事か?」
「えぇ、そうよ。能力はもとより、見た目勝負も良い感じだわ。」
ル・ゾルゾアが苦笑を漏らした。
「彼の剣霊、名前はなんて言ったかしら?どの様な攻撃をするのか気になるわ。」
「イルサーシャだ。以前、君が言っていた、剣霊は髪型で剣の種類が凡そ判るという説を信じるなら、彼女は直剣タイプだ。白銀色のストレートだったからな。」
「剣霊で直剣タイプは、そうそうあるものではないわ。」
「ほう?」
「直剣は古いタイプよ。
「なるほど。だが、曲剣が苦手とする事を直剣は楽にこなせる。刺突撃だ。」
膝の上にあるブリスタンの露な肩を目掛けてル・ゾルゾアは先程まで彼女の剣体を握り締めていた右の人差し指の先端を突き立てた。
「刺突は局所狙いの必殺技という点では有効でしょうけど、斬撃の様に咄嗟の行動は出せないし、なにより動作が幾分大きくなるわ。今のあなたなら見て回避できる筈よ。」
突き立てられた男の人差し指をそれまで食痕を詰っていた剣霊の白いそれが下から撥ね退ける様に弾いた。
「だと良いのだがな。霊体の彼女は見た目から判断して、恐らく二十歳を過ぎたぐらいだろう。緑色の瞳をした、なかなかの美女だが、会話した限りでは、根は真面目なものの少々不器用な感じがした。」
再び簿食痕をなぞるブリスタンの指が止まり、ふふと悪戯な笑みが零れる。
「可愛らしいこと。彼女、おぼこのまま剣霊になったのかもしれないわ。ユスト・バレンタインもおぼこの扱いには手を焼いている事でしょうね。『ユスト、
「それはそれで剣霊使いとして冥利に尽きるってものじゃないか。」
「あら、
「そうだな、これは俺の直感だが、普通の剣霊とは異なる何か…そう、神々しい何かを感じた。神剣霊のはずは無いのだがな。あとは両耳に蛇を象った左右非対称のピアスをしていたのが印象的で、人間の記憶は殆ど失っている点ぐらいだ、特徴があったのは。」
「神剣霊と呼ばれているのは剣霊帝様と、その妹にあたるミゼレレの二体のみよ。それは昔も今も変わらないわ。人間の記憶が有る無いというのは個体差だと思うわ。」
「確かに君にはそこそこ記憶があるからな。今度、君の記憶をゆっくり聞かせてくれないか?」
「そうね。子守唄代わりに話してあげるわ。」
ブリスタンの指が食痕からル・ゾルゾアの耳たぶに移る。数回撫でた後に再び口を開いた。
「その蛇の形をしたピアスに何かが隠されていそうね。」
ル・ゾルゾアは久々に真面目なブリスタンの表情を見た気がした。
「どうした、ブリスタン。君らしくないな。」
「そうかしら?」
「変な事を聞くが、イルサーシャに勝てるか?」
ブリスタンの視線がル・ゾルゾアの肩から顔に向けられた。黄金の瞳に曇りは無い。
「
ブリスタンは身を乗り出し、食事を始めた。ル・ゾルゾアの手が彼女の頭に置かれる。その表情にはブリスタンの言葉に対する安堵と、もう一人の剣霊使いとその剣霊に対する疑問が入り交ざっている。
二人はトウラドオク城址から一キロの距離にいた。
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