第7話 悲哀(ソロウ)と苦痛(ペイン)
青い狐を出て左に数メートル進んだ先に二頭引きの馬車は停まっていた。早朝なだけに街路の往来は無く、ユストとイルサーシャは自分たちを乗せる馬車を直ぐに見つける事が出来た。十年程前からどの地域でも見る事が出来る、ありふれた木製の車体である。扉にダゴウ市街地の紋章が刻まれている以外、過度の装飾は見当たらない。公用馬車を用いる事で周囲からの無用な詮索を避けるダゴウ市長の計らいであろう。
御者と思われる男は馬のたてがみを撫でながら二人を待っていた。馬は二頭共に青毛であり、朝もやが濃い中で白い息を吐きつつ、その場で前脚を交互に動かしている。石を敷き詰めた街路にユストの靴音が響くと男は迎えるべく客の下に近寄った。
「お二人が市長に馬車の依頼をされた方ですかね?」
「そうだ。」
黒いコートを身に纏った男は何も言わず、白銀色の長い髪をなびかせている女の方が短く答えた。市長より大事な人物と御者の男は聞いていたが、国の要人という雰囲気は感じられず、そもそも少人数過ぎる。また旅行者にしては荷物を持っておらず、しかも女の方は軽装である。
御者の男はテギーユ・オローと名乗った。ダゴウ市街地の自警団を十年以上勤めており、副団長を拝命して今年で三年になるという。身長は百八十センチを越え、日に焼けた肌をしている。自警団の訓練で得た鍛えられた肉体を持ち、いかにも健康的で頼れる青年であり、彼自身もその様な自らを誇りにしていた。
「この者はユスト・バレンタイン。剣霊使いだ。他言無用でお願いしたい。」
テギーユ・オローの細い目が幾分大きく見開いた様に見えた。
「では、あなたが剣霊そのもので?」
「いかにも。
この時間は喋ると吐く息が白くなるが、剣霊と称する女は白い息を吐いていなかった。
「いえ、家内が昨晩、剣霊が現れたと言っていましてね。それが黄金色の髪をした艶やかな女性との事だったものですから…。」
「その話、単なる噂話に過ぎないのでは?現にそなたの前にいる
言葉を発した後、イルサーシャはテギーユ・オローからユストに視線を変えた。六キロ四方の市街地とは言え、この手の話は直ぐに広まるものである。ブリスタンとユストの遣り取りを一部始終を見ていた者が複数いた以上、無理も無い。視線を向けられたユストはイルサーシャの後ろで煙草に火を灯した後、彼女の手を取った。
「挨拶はこの辺にして、早速馬車を向けて欲しいのだが…ザッファの森というのを知っているか?」
「えぇ。確か、トウラドオクの城の周りを囲っている森と存じてはいますが。」
「そうだ。そこまでお願いしたい。」
テギーユ・オローは唾を飲み込み、喉を鳴らす。喉仏が上下する様をユストは眺めていた。
「市長が自分を選んだという事は何からの危険を伴う故と思っておりましたが、まさかトウラドオクの呪いの元凶の地に赴くとなると、正直なところ、お二人の安全を保障出来かねます。」
体の良い断り文句であり、テギーユ・オローなりに考えた言葉なのであろう。彼の気持ちも判るが、それよりも、この街の住人がトウラドオクの呪いという目に見えぬ恐怖にどこまで怯えているのかがユストは気になった。煙草の煙が朝の空気に掻き消される。呪いとは無縁に思える清々しい朝である。ユストはイルサーシャにある事を一つ頼んだ。
「テギーユ・オローと言ったな。現地にてそなたの身の安全はユスト・バレンタインが剣霊使いの名に於いて約束する。この街を出て街道を西に進み、ザッファの森の入り口で
イルサーシャは二頭の青毛の馬の前に立った。後ろに立つのは勿論の事、見知らぬ者が馬の前に立つのも危険な行為ではあるが、二頭は静かにしていた。
「右の方が姉で雪の降る日に生まれた。左の妹はその一年後の同じ日に生まれたが、雪は降っていなかったと言っている。二頭とも同じ色の毛をしているものだから厩舎では時々姉と妹を間違える者がいるらしいな。手首を軽く噛まれたら間違えている証拠だ。ここ一ヶ月は厩舎の周りを散歩するだけだったので早く走りたい、もし街道で魔物に遭遇しても全力で逃げる。そもそも走る為に生まれたのだから問題無い、との事だ。」
確かにテギーユ・オローは一昨日の夕方、飼葉を与える際に手首を噛まれていた。この二頭の出生についても天気までは記憶に無いが、作り話を即興で行うには出来が良過ぎる。彼女の言葉に間違いは無いのであろう。
「まさか、剣霊は動物と会話が出来るのですか?」
「会話ではない。この姉妹が思い描いていたものを読み取っただけの事。馬がやると言っているのだ、その手綱を握るそなたが気後れしている場合ではなかろう?」
煙草を吸い終えたユストはイルサーシャの言葉を聞いて茫然とするテギーユ・オローに近付き、彼が着ている自警団制服の胸ポケットに西部金貨を一枚入れ、筋肉質な肩を二回叩いた。
「では、頼んだぞ。」
白い息を吐きながら馬達が嘶く。ユストの行動を見届けたイルサーシャの言葉に反応したのか、単なる偶然かは定かではないが、テギーユ・オローに拒否する権利は無くなってしまった。
「判りました。ところでお迎えはいかがしますか?」
イルサーシャがユストを見つめる。彼女では判断し兼ねる内容である。ユストは馬車の扉に手を掛け、その内側を覗き込む。木製の腰掛が向かい合わせになっており、外装と同じく質素な内装である。
「明日の正午に
「二人用ではご満足いただけないという事でしょうか?」
いや、そうではない、とイルサーシャは答えたものの、次の言葉を失っていた。美しい白銀の長い髪を持つ剣霊は声に出さなくても考えを理解する能力に長けている、とテギーユ・オローは思っていた。一方の剣霊使いは話さないのでは無く、何かしらの理由で話せないのであろう。首にスカーフを巻いているのは首の傷を隠す為と思われる。物言わぬ男を見つめている女のすらりと伸びた目尻の切れが多少鋭くなったのをテギーユ・オローは見逃さなかった。それは剣霊と剣霊使いが口論している様子に思えた。
ユストは平然と馬車に乗り込み、中からイルサーシャに手を差し伸べる。
「帰りは四人になる予定との事だ。まぁ、
「判りました。理由はどうあれ、その様に致しましょう。」
イルサーシャが椅子に座るのを見届けてからテギーユ・オローは馬車の扉を閉める。馬車の前に座り、手綱を一振りする。さすがに姉妹だけあってなのか、足並みを揃えて二頭の馬は動き始めた。
果たしてザッファの森に何事も無く辿り着けるのであろうか。道中はともかく、ザッファの森は近付いてはならない禁断の地と彼は小さい時から教わっていた。成人して多少の分別がつくようになって久しいが、今もその言いつけを疑う事無く守り、ダゴウ市街地に住む全員がそうしている。ユスト・バレンタインと名乗る剣霊使いは身を守ってくれると言っていたが、その時にならなければ真実かどうかは判らない。見た目ではテギーユ・オローよりも背は低く、身体の線も細い。少なくとも腕力で負ける気はしないが、剣霊使いユスト・バレンタインの戦闘能力は如何なものか。しかもぱっと見た限りでは武器となるものも備えていない。剣霊と称する女はどうだろう。剣霊使いユスト・バレンタインの身体を護るかの如く常に一歩前に立ち、趣のある目許は意志の強さが滲み出ていた。涼しげであり触れてはならないと思わせる美しさは、まさに彼女が剣霊そのものである証なのであろう。だが剣霊の戦い方がトウラドオクの呪いに通じるのだろうか。一般に語られる剣霊の強さは人間に対してであり、未知の外敵に打ち勝てるのか。浅はかな部外者でなければ良いのだが、と思いつつも市長の信頼を得ている人間でもある。テギーユ・オローが自警団の副団長になれたのも市長の推挙があった事を彼自身は忘れていなかった。ここは剣霊使いと剣霊の言葉を信じるしかない。
市街地出入り口の門に差し掛かる。門番を務める自警団員二名が敬礼をした後に重厚な扉の片側を開ける。自警団の詰所には誰もいない。うっすらと曇る窓の奥には先日ユストとイルサーシャが倒したメガロ三兄弟の似顔絵に二重線が大きく引かれているのが見えた。ダゴウ市街地の公式記録によると死体が発見された時点で長兄ガズ・メガロは体の一部を失っており、残る二人も同じであった。喰いちぎられた痕から判断して人食い狼の集団と思われる獣に襲われ、血液が極端に減っていたのは夜行蝶に摂取された可能性が高いと、この日発刊となる新聞に掲載される予定である。あえて言うならば、その記事は彼らが所持していた曲刀が二つに折れていた点には触れていなかった。
朝焼けを臨む山脈が飛び込んでくる。外の世界は美しい朝を迎えていた。危険であり生きて帰れる保障は何処にも無い、人間の叡智が及ばぬザッファの森へ繰り出そうとしている。それでもテギーユ・オローは美しい世界に魅せられた様に馬の手綱を捌き始めた。
(なぁ、ユスト。
ダゴウ市街地を後にし、イルサーシャの方が沈黙を破った。狭い馬車の中、足組をしているユストの膝に手を置き、静かに語り始めた。
(なんだ、ル・ゾルゾアとブリスタンの事か?)
窓縁に肘を乗せて頬杖を付いるユストは視線を窓の外からイルサーシャへは移さなかった。
(そうだ。
(現時点ではその心配は無用だ。お互いに共通の獲物を狙っているが、得体が知れない獲物である以上、我々を先に襲う事は無いだろうね。)
(獲物を倒した後はどうするのだ?奪い合いになるのではないのか?)
(まぁ、多少の手合わせはするかもしれないが、殺し合いにはならないよ。剣霊使い同士の果し合いは協会の規律で厳罰に処される。分別無き寧猛さは禍根を残すという理由で剣霊を取り上げられるかもしれないな。イルサーシャと離れ離れになるのは愚生としても心残りがあるから、それは避けるつもりだよ。)
イルサーシャの人差し指がユストの膝を二回なぞった。
(ユストがそう考えているなら
(制しきれなければ、剣霊使いとして失格であろうな。だが、彼がそこまで無能であるとは思えないし、ブリスタン自身も唯一選んだ人間を他の干渉で手放したく無い筈だ。)
(勝利の剣霊と対峙して引き分けたのであろう?勝利を誇りにしているブリスタンが出会いがしらに再戦を挑むのは明らかではないのか?)
(その点は正直なところ、ル・ゾルゾアの度量まかせだろうな。)
馬車に陽が差し込む。ユストとイルサーシャは目を細めた。
(その勝利という言葉が気になってね。)
ユストは頬杖を付いていない方の手を膝に置かれたイルサーシャのそれを掴み、足を組み換えた。
(彼女がその言葉に固執するのは過去…人間の記憶があった時の出来事の反動ではないかと思うのだが、どうだろう?)
(
イルサーシャの人差し指が再び動き始める。彼女には人間の記憶が殆ど無い。ユストはその事を言葉の後に思い出し、すまないと一言添えた。
街道は市街地と違い、石で舗装はされていない。だが適度の揺れで済んでいるのはテギーユ・オローの熟練された手綱捌きの賜物か、それとも姉妹である二頭の馬の呼吸の合った動きによる恩恵によるものであろうか。窓の外に映る景色は広大な麦畑である。時期からして収穫は終えている筈だが、トウラドオクの呪いという恐怖が人々を市街地の外に出る事をためらわせたのであろう。半分はまだ手付かずであると農業に詳しくないユストにもはっきりと判った。所々に設置された風車の羽根が一定の速さで回っている。街道と畑の間にある用水路の上には巨大な板状にされたソノイの樹液が地面と平行に幾層にも並べられていた。それらはレンズ効果が生じる様に配置されており、陽の光が畑に供給される水を熱し、その日毎の温度を調節できる効果があった。
やがて景色は畑という人間の手が加えられた世界を終え、自然のありのままの姿を映し始める。馬の動きが止まった。同時にテギーユ・オローが顔を覗かせた。
「ここで街道から外れます。ザッファの森に行くには旧街道を使いますが、なんせ今は誰も使わないものですから道は荒れ、魔物が出る可能性は高いと思いますので…。」
「注意しろと言うのだな?」
「はい。ここまでの道程で何も遭遇しなかったのは運が良かったのかもしれません。」
「運も実力のひとつだ。テギーユ・オロー、
「判りました。では。」
テギーユ・オローは腰に下げたサーベルの鞘を掴んだ。これから未知の領域に踏み込む前に武器を所持しているか確認している動作に見える。その動作と共に彼はユストの腰に視線を合わせた。やはりそこに武器は無い。
「そなた、剣霊使いの武器について気になるのか?」
イルサーシャの緑色の瞳は彼の視線から思惑を読んでいた。
「正直言いまして、何も持っていない様子ですので、つい…。」
「
「つまり、見た者は死ぬ、と?」
「平たく言うとそうなる。そなたをそうするつもりは毛頭無いのだが、御身を大事にする為にも興味を持つのを止められよ。」
剣霊使いの技が公にならない理由の一つである。ユスト自身ですら他の剣霊使いの技を知らないくらいである。口外されては必殺技ではなくなる。対処法を研究する時間を与えてしまうからである。武器である女が喋り、その武器を操る男は無口を通している。薄気味悪いとしか言い様がない。テギーユ・オローは作り笑いを伴い、御者台に戻ると手綱を握り直した。
旧街道は約三百年前にトウラドオク五世の頃に整備された道幅四メートル程の商用道路である。トウラドオク城と他の市街地の幹線として旅商人が主に利用していたのであろう。当時は店が並び、休憩所も設けられて活気はあったと思われるが、今はその賑わいを思わせる形跡は特に見当たらず、荒れ果てていた。やがて景色は畑から人間の手入れがされていない草原に変わり、進むにつれて木が増える。馬車の速度も徐々に落ちる。ダゴウ市街地の市長の言うところの大事な客人二名に対し、路面からの衝撃が軽減する様にとテギーユ・オローの配慮であろう。
「あと三キロほどでザッファの森の入り口になります。ご準備を。」
テギーユ・オローは御者台と客室を結ぶ会話用の小窓を開けて幾分大きな声で知らせる。すでに林の中を進んでおり、太陽の光も届き難くなっていた。林の中というのは様々な生物が息付く場である。一本の樹木の表皮には小さな虫が列を作り、その樹木の洞にはげっ歯類が安眠の場として中で丸くなっている。思い思いに伸びた枝の上には鳥が止まり、捕獲者の目をくらましている。
(ユスト、禍々しいものを感じる。そなたの出番のようだ。)
イルサーシャは敵の気配を感じ取っていた。ザッファの森まであと一キロの地点に案内板が設けられていた。『これよりザッファの森、トウラドオクの偉業を讃えよ』と木製の板に当時の文字で彫られているが、案内板そのものは朽ち果てており、表面には苔が生えて読み取るのに時間が掛かる。霧が出始め、馬は足を止めた。テギーユ・オローは手綱を緩め、鞭を一回打ったが、馬は動かない。
(来たぞ、ユスト。五体いる。)
イルサーシャが客室の中から三回叩く。
(五体となると
霧の中で何かが動いた。馬車の方に近付いている。危険を感じた二頭の馬は動かない。テギーユ・オローも手綱を片手で持ち、腰のサーベルの柄に手を添える。
(いいか、イルサーシャ。トウラドオク城址までソロウとペインに動いてもらう。)
ユストの視線は外に向いている。敵の姿を目で確認しようとしている。
(まずはソロウがテギーユ・オローの四股を固めて五感を一時的に奪う様にする。次にペインには敵を飲み込む様に指示するんだ。)
(馬はどうするのだ?)
(そのままで構わない。彼女たちは人間よりも肝が据わっている様子だし、なにしろ君としか喋れないからな。ソロウとペインを見られても不都合は無い。)
ユストの目が細くなる。敵の姿が見えた。槍を手にしたトウラドオク兵の残骸である。昨晩、歴史書に目を通していたユストには鎧の中央に刻まれた紋章でそれが判った。錆色に変色した鎧は胴部、腕部、脚部を覆っており、雑用の兵では無かった事が伺える。そして五体とも頭部が無かった。何かに操られているかの様に重い足取りの兵五体が槍を構えた。突撃の姿勢である。
馬車の扉が開き、イルサーシャが先に姿を現した。その後をゆっくりとユストが馬車を降りる。テギーユ・オローに向けられていた槍の先がイルサーシャに移った。どちらが危険であるのか、トウラドオク兵の残骸たちは判っている様である。腰のサーベルに手は掛けてはいるものの、そこから動けないテギーユ・オローも視線をイルサーシャに移した。白銀の長い髪をなびかせている剣霊から威圧的なものは感じられない。緑色の瞳にも鋭さは無い。むしろ涼しげな目許は万物の理を知り得ていると見る者に思わせる程の雰囲気を漂わせている。彼女は左の横髪を耳に掛けると、鎌首をもたげている黒蛇のピアスを手に取り、囁き始めた。
「
囁きが終わると共にテギーユ・オローに向けてピアスを勢い良く投げる。彼の頭上に差し掛かるとピアスは細長い布状になりイルサーシャの言葉通りにその身体を覆い始めた。身に何が起きたのか理解できないテギーユ・オローは身体を動かそうとしたが、微動だに出来ず、口が覆われて騒ぐ事も不可能である。彼は黒い布に頚動脈を締められ、身体のバランスを崩したかの様にその場で倒れてしまった。
次に胴で孤を描き、自らの尾を銜えている右側のピアスをイルサーシャは手に取る。その動きに反応したかの如くトウラドオク兵の残骸も一斉に動き始める。錆で変色し、刃こぼれが見て取れる槍が剣霊を目掛けて突進した。
「
イルサーシャは自らと敵五体との間の地面に左のピアスを叩き付けた。ピアスから青白い光がほとばしり、辺りを包み込む。やみくもに突いて来た槍の先端をイルサーシャは掌で受け止め、横に流した。
「ペイン、敵に攻撃する暇を与えるな。」
ピアスと同じく自らの尾を銜えた黒い蛇、ペインが青白い光を帯びながら地面の上で円を描いている。円の直径で五メートルはあるだろうか。イルサーシャの言葉の後、ペインは銜えている尾を離した。開いた口には鋭い牙があり、口の奥は表面と同じく漆黒の闇である。尾がしなり、まずは敵二体の槍を振り落とし、尾の先端を勢い良く鎧に突き刺す。鋭い一突きは薄汚れた鎧を易々と連続して貫通し、二体の動きを封じ込めた。胴は次の三体目を締め上げ、口を広げた頭はすかさず四体目を銜えた。強靭な胴と屈強な牙の先端が過去の栄光を刻んだ鎧に食い込む。金属の軋む音はやがて砕け散る音に変り、立て続けに二回響く。三体目と四体目の動きも止まった。五体目はイルサーシャを狙っていた。彼女の左胸を目掛けて槍が飛び込んでくる。武器同士がぶつかり合う。彼女は槍の穂先を左手で掴んでいた。
「その様な誇り無き一撃が
イルサーシャの右手が手刀の形を取り、後ろに引かれた直後に五体目の鎧に向けて繰り出される。素早い動作と共に白銀の長い髪が揺れ、描いた孤はペインの青白い光を受けて輝きを増していた。指の先端が鎧の中心を穿つ。そこからひびが四方に走り、鎧は無残な姿を晒す。地面に落ちると共にペインが五体目の後ろから襲い掛かり、そのまま飲み込んでしまった。
「ペイン、戻れ。その後にソロウも戻れ。」
敵を全て撃退した事を確認したイルサーシャが二匹の蛇に新たな指示を出す。ペインは再び自らの尾を銜えるとそのままピアスの大きさに戻る。その後、ソロウは布が舞い落ちる様にはらりとテギーユ・オローから離れ、ペインと同じくピアスの大きさに戻っていた。
「すまなかったな。息苦しくは無いか?この先、人間が踏み入るのは危険の様だ。」
テギーユ・オローの足元に落ちたピアスを拾ったイルサーシャが耳に嵌めながら気遣う。霧が出ている森の空気は肌寒く、恐ろしく静かである。テギーユ・オローは気を失っていて何が起きたのか知らない。剣霊と称する女は両耳のピアスを撫でる様に交互に触り、剣霊使いと称する男は馬車の扉に背中を付けて煙草を吸っている。目の前に現れた鎧の槍兵五体を二人が倒したのはその様子から判断できた。だが、その手段は判らず、また判ってはいけないと思った。
「では、私はダゴウまで戻り、市長にお二人をザッファの森まで無事にお届けした旨を報告してまいります。明日の正午にお迎えにあがりますので、どうかご無事で。」
煙草を銜えたままのユストがイルサーシャの肩に手を置いた。
「そなたも気をつけて。市長によろしく伝えて欲しい。」
テギーユ・オローは足元に散乱する錆びた鎧の破片に視線を落とし、判りましたと短い返事をした。御者台の上から手際の良い手綱捌きを行い馬車の向きを変える。姉妹である二頭の青毛の馬は疲れた様子も無く均衡の取れた脚を動かし始めた。空になった馬車は頼り無い
(行ってしまった。)
(あぁ。まぁ、馬が元気そうだから問題無さそうだ。)
二本目の煙草に火を点け、ザッファの森へと足を向けたユストの右腕をイルサーシャが掴み、その動きを制した。
(さて、ユスト。
珍しい事をするものだ、という表情でユストが振り向く。
(昨晩、
ユストは横に並ぶ様に伝え、イルサーシャも彼の歩調に合わせて歩き始めた。
(今回の敵は、まさしく呪いそのものかもしれない。邪剣霊の仕業にしては複数を操るというのは手が込み過ぎているし、そもそも骨だけになった死者は血が無い以上、操り様がないからな。次に人間が裏で糸を引いているにしても、死者を蘇らせるのは至難の業だろうね。)
(呪いと言うよりも魔力の暴走…魔法使いではないのか?)
(今の世に魔法を使えるという賢者は三名のみだ。剣霊帝様の命を受けて剣霊協会が三名を厳重に保護管理している。これは剣霊使いなった時に協会から教わる知識の一つだが、その三名によるものとは思えないな。)
(四人目がいた、というのは考えられないのか?)
(賢者は生涯に一人だけ後継者を育成し、全てを伝授したら己は剣霊帝様の前で命を絶つと聞いている。剣霊協会の目が届かないところで魔法は使われないという事だ。)
(そうか。実はユスト自身も戦いあぐんでいる様子だな。)
(そこまで行き詰ってはいないよ。トウラドオク滅亡以前の兵が動く屍と化していた。しかも首から上が欠けている。恐らく彼らは反乱に敗れて断頭台に立たされた兵だろう。それまでトウラドオク王朝が罪人に対して行ってきた行為を勝者である反乱軍は見せしめとして行った。敗れたトウラドオク兵は苦痛と恐怖で打ちひしがれながら命を絶たされたのだろう。ここまでは昨晩読んだ歴史書から得た情報であり、今回の呪いが本物だったらその様な敵が現れると予測していた。そしてそれが現実となった以上、対処策としていたソロウとペインを頼んだ。動く屍という魔力に対し、屍が生前抱いた感情を摂取する二匹を充てたのさ。)
ザッファの森は依然と静かなままであり、霧が晴れる様子も見受けられない。旧街道の痕跡が僅かに残っている上を二人は歩いていた。
(それで、トウラドオク兵の戦いぶりを見て倒すべき首魁の腕前が判ったのか?)
(強いだろうね。剣霊がいればなんとか戦えると思うが、気は抜けないね。)
(
ユストの腕を掴むイルサーシャの手に若干力が加わった。
(過去の戦いで得た経験を使って下手に予測をしたら命取りになる、という意味だ。ところで、ペインが討ち漏らしたとは考え難いのだが、何故五体全てを倒さなかった?)
(その件だが、
言葉を選んでいるイルサーシャにユストは何気ない視線を送るが、歩く早さを緩めはしなかった。次の敵と遭遇する可能性が充分にある中、立ち止まる訳にもいかない。
(ペインが言うには、自分だけ獲物五体全てを平らげてはテギーユ・オローに巻き付いているだけのソロウに申し訳ないので、ソロウの分として残したが、敵は間髪いれずに
(相方想いの良いやつだな。だが、そう遠慮せずとも良さそうだよ。)
ユストは足元に散乱する鎧を蹴った。二体分はある。先程ペインが飲み込んだトウラドオク兵と同じ形であり、胸に刻まれている紋章も同じである。腹部を横に裂かれている。その切断面は一直線に整っており、並みの剣では成せない鮮やかな剣捌きを連想させるには充分な説得力を有している。二人にはル・ゾルゾアとブリスタンによるものと直ぐに判った。鎧の残骸の切り口もそうだが、手にしている錆びた剣を律儀にも折られている。持ち主を失った虚ろな剣を折るのは邪剣霊が入り込まない様にする為であり、剣霊使いの務めである。イルサーシャが膝を曲げて切り口に指を添える。そこには錆や腐食は無く、素材の名称は不明だがその金属本来の輝きを放っていた。
(今朝方の出来事の様だ。霧による水滴の付着がまだ浅い。先を越されたな、ユスト。)
そうだな、とユストは短い言葉と共に唇を苦笑の形にしていた。
(あと、ペインが言っていたのだが…)
(何だ?遠慮するな。)
イルサーシャはユストから渡された布で指を拭っていた。剣霊とはいえ、剣に水分は禁物である。
(見ていないで少しは動け、との事だ。)
気まずい時のイルサーシャの癖をユストは知っている。言葉を発した後にすぐに視線を逸らすのが彼女の癖であり、その動作はその場で最適な答えをユストに簡単に導いてくれた。
(ザッファの森を抜けるまではソロウとペインに任せるつもりだ。ここでは刃物より魔力の方が敵に効く筈だからね。高みの見物を決め込んでいるわけでは無いと、よく言い聞かせておいてくれ。)
背の低い針葉樹を見つけたユストはその近くに歩み寄り、葉の先端を見つめた。霧の湿気によるものか、ところどころの先端に露をつけている。それらを口に含み、喉の渇きを癒した。
その後、ザッファの森にてユストとイルサーシャはトウラドオク兵たちと三回遭遇する事となる。毎回複数が出現し、槍や剣を手にしている生ける屍であったがイルサーシャはユストの指示に従い、全てをソロウとペインに対応させて事無く済ませた。行く道の所々にブリスタンの軌跡を刻まれた敵の亡骸が目に付いた。切り口に衰えは感じられず、迷いの無い一閃の結果であるとイルサーシャには判った。むしろ後から目にする切り口の方が徐々に洗練されており、刃の衰えなど微塵も感じさせない。敵を刻めば刻む程、勝利の剣霊とは力を増すのだろうか、とイルサーシャは独り考えた。ユストに相談しても今は目の前に集中しろ、と相手にされないのは判っている。だが、剣霊使いを護るのも剣霊の義務であり、ありとあらゆる外敵からユストを護るのはイルサーシャしか出来ない。剣霊との対峙を彼女は経験した事が無い。繰り出す技は違うとはいえ、自らと同じ立場の者と戦うとは自らを倒すのと同等である。五百年余りを経たイルサーシャは八百年の時の流れを知っているというブリスタンに攻撃が通じるのか、それよりもブリスタンの攻撃を受けきれるかどうか不安であった。やや
歩調が逸るのを押さえ、イルサーシャはユストの横顔を見つめた。常に見つめてきた横顔である。どの様な戦いになろうとも明日以降もこの横顔を眺めたい。白銀の長い髪に差し込む光を反射させながら剣霊はその様に強く望んでいた。
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