第5話 食痕 真夜中のひととき
二人の宿である青い狐に戻るまでの間、剣霊協会に寄り、両替済みの貨幣を受け取った。それを用いて幾つか身支度をしなければならない。ユストの食事用に市場にて羊の肉を乾燥させた保存食を数点、雑貨屋にて照明としての手持ち可能な燭台と蝋燭、そして客の出入りが少ない露店にて古本を一冊購入した。露天の主人は、その本が売れるとは思っていなかったらしく、たいそう喜んでいたが、古本を購入する意図が判らないイルサーシャには不思議に思えた。
知識のおさらいだ、とユストは短く答えて宿の方に足を向けた。そのまま依頼を受けたトウラドオク城址へ向かわなかったのか、とイルサーシャが続けて尋ねると、ユストは少々困った表情をした。外での食事は好きではないだろう、と直球的な言葉に彼の剣霊は返す言葉が無かった。
青い狐に戻る頃、既に辺りは黄昏時を過ぎていた。フロントには老支配人が昨晩と同じ位置におり、部屋の鍵を快く渡してくれる。明日の早朝に去る旨を伝え、代金を先に支払った。
階段の軋む音を一歩一歩毎に確かめ、手入れの行き届いた客室に入る。陽の光を窓から感じるていられるのも、残り短い。
ユストは備え付けの椅子に腰を降ろし、机の上に先ほど手に入れた古本を広げた。歴史書である。トウラドオク家について記されたものであり、その装丁からして長い年月を経ているのが一目で判る代物であった。
今からおよそ七百年前、初代レイ・トウラドオクは北の地に大工の三男としてこの世に生を受け、その生涯を建築技術に捧げる予定であったが、隣国同士の戦争により家族を失い、各地を転々とした。やがて戦乱から逃れてきた己と同じ境遇の難民を集めて新天地を求め、緑に囲まれた西の地を切り開き、街を興した。この時、彼は六十歳を迎え、その翌年に住民に惜しまれつつ他界している。二代目となるロイ・トウラドオクは父から教わった建築技術を応用し、他国から干渉されない街を難攻不落の城塞都市まで発展させ、軍事国家的要素を強めた。奪われし各々の故郷を取り戻せ、という大義名分は難民出身という立場に憤りを感じていた兵を奮い立たせた。周囲の小国家を併呑し、西の地統一まで挙兵から二年も掛からなかったという。しかし、その破竹の勢いは年老いた二代目によるものでは無く、その息子であるノイ・トウラドウクの前線指揮によるものであった。ノイ・トウラドオクは背が高く凛々しい横顔を持っていたという。兵達は戦術に長けており、その智謀も優れてた自分たちの指導者に神々しい想いを抱き、疑いの無い信頼を寄せた。だが、誰もその指導者が野心も人一倍強かった事に対しては気付かなかった。ノイ・トウラドオクが二十二歳の誕生日の際、彼は父親を地下牢に幽閉し、自らを帝王と称した。周りにいた臣下は息子の父親に対する反逆行為を誰も止めなかったという。その日を境に、難民の聖地は侵略の帝都となった。
(イルサーシャ、これが読めるかい?)
ユストは縁が日に焼けた歴史書の一頁を指差した。それは古来の記録書の一部をそのまま写したのであろう、この時代では用いられていない文字の羅列であった。
(『ノイ・トウラドオクは魔物と契約を交わしていた。彼の一睨みは相対する指揮官の心臓を止める事が出来た。彼が手にする五叉の槍はその一突きで敵の城壁を崩した。その配下たる軍勢は魔物を伴い、人間の肉を喰らわせた。』…これは恐らく当時の禁書の類だ。人間の王が魔物と縁があるなど公で言える訳無かろう?)
(だろうね。少々大袈裟な表現もあるが、トウラドオク軍は勢いがあったという事だ。)
ノイ・トウラドオクの悲願は大陸の統一であった。彼は南方を攻略し、豊富な資源を確保した後に自国の経済発展に努め、同時に東と北に勢力を進めた。小国家がひしめく時代、強大なトウラドオク軍は降伏を認めず、各国の代表者は捕らえ次第、処刑を行っていた。帝王を称して十五年の歳月を経て、彼は大陸の統一を成し遂げた。人々は畏敬の念と共に覇王と呼んだが、その頃から彼の行動に異変が起き始めた。常に前線指揮を執り、士気を高揚させてきた覇王は、いつしか人前に姿を見せなくなった。帝都にある王の間には従者を置かず、謁見や政務に於いても壁越しに行っていたという。
ユストは再び歴史書の一部を指差す。イルサーシャは前のめりになり、横髪を耳に掛けた。
(『ある大臣が覇王に伺いを立てずに身の回りの世話をする女官を五名ほど募った。誰にも会おうとしない覇王を慰めることによって、少しは御心を開いてくれるであろう、と忠誠心による行動であったが、事は大臣の思う様に運ばなかった。覇王の前にひざまずいた大陸中から選ばれし五名の美女は、その美しい体を覇王自らの手で切り刻まれ、大臣も断頭台の前に立たされた。また五名の女官と大臣の親族ならびに血縁の者全てが命を絶たされた。民は恐怖に慄き、覇王の名を口にするものはやがて誰も居なくなった。覇王は捕虜たる敵の王を魔物に対する供物としていた。だが、大陸統一を成した事で供物が無くなり、自らの一部を供物として捧げていた。その変わり果てた姿を配下に見られる事を嫌った。その最期は北の海岸に四名の従者を伴い、四名を殉死させた後、自らも入水にて果てた。トウラドオク発祥の地に覇王は安らぎを求めて長き眠りに就いた。』)
(狂気の覇王たる由縁か…。)
窓の外は暗くなっていた。イルサーシャにカーテンを閉める様に言い渡し、ユストは燭台に火を灯す。次にその火に煙草の先を向ける。じりじりと音を立てて燃える煙草の先端は静かな部屋に心地良く響いた。扉を叩く音が聞こえ、老支配人が顔を覗かせた。夕食をどうするか尋ねる為である。孫娘であるエリーナではない分、気を使わなくて良い。ユストは机の脇に用意されているメモ用紙に、一人分の食事と昨晩と同じコーヒーを二杯お願いしたい、と記し、二つに折って老支配人に手渡した。
煙草の火を消すとほぼ同じにして夕食が用意された。昨晩の献立とほぼ同じであり、違うのはスープの具材が幾つか増えていた事ぐらいか。黙って立っているイルサーシャをよそ目にユストは食事に手を付け、水を一杯飲んだ後に食後のコーヒーを楽しみつつ、歴史書を捲り始めた。
覇王ノイ・トウラドオクの死後、後継者争いが起きた。彼には子供がおらず、また自らの後継を明確にしていなかった。兄弟や従兄弟、甥が担ぎ上げられて重臣たちが次の勢力争いに乗り出し始めた。泥臭い陰謀と策略の末、覇王の甥であるロア・トウラドウクがその後継者となった。だが、四代目の王は王を目指し、王として自らを律してきた者ではない。政務の全ては重臣たちに任せ、その重臣たちが利己主義に迷走していても、何も気付く事が出来なかった。民に重税を押し付け、押し付けられた民たちの心は苦しみ、憔悴するだけであった。とある心は犯罪を生み、違う心は正義の名の下に反逆を試みる。だが多大な富を独占した重臣たちは、自分に不都合な人間を理由も無く捕らえられ、断頭台に消し去る事に快楽を覚えてもしていた。
(イルサーシャ、水は上から流れるって言葉を知っているか?)
(諺か黙示か、それは?)
(言い換えれば、下に溜まった水は泥や埃といった不純物を含んでいて、やがては腐るという事だ。初代から覇王までの間、それぞれの思惑は違うが、配下や民たちに王として水を流していた。絶えず流し続ける事で泥や埃は洗い流せていた。覇王に於いてはかなり高い位置から流していたから不純物は一切受け付けなかった。だから国は繁栄し、大陸統一が成し得たのだろう。)
(人間というのは誰かにその水を流してもらわないと生きていけないものでもなかろう?)
(生活を護る為に必死なんだよ、人間を始めとする生き物というのは。現に我々も剣霊協会に指示を仰いでいるだろう?)
(まぁ、ユストの言う事の全てが正しいかは判らぬが、間違いでは無いようだ。)
歴史書の残りは殆どが年表表記が主となり、逸話は書かれていなかった。また記録書の一部を写したものが多くなり、美術や文化を紹介する内容が濃くなっていた。言い換えれば、トウラドオク四世から七世の期間は目立った歴史が無く、八世は滅亡の時で片付けられたのであろう。記録書の写しはイルサーシャに翻訳してもらったが、特に興味を引く内容とはユストには感じられなかった。
(ユスト、次も読んだ方が良いか?)
(どうかしたのか?)
人間であれば、喉か渇いたのか、と聞けるが、剣霊にとって喉の渇きは無縁である。単に飽きたのだろうとユストは思った。
(実は、トウラドオク七世と剣霊使いの話なのだが。)
1杯目のコーヒーを飲み干し、話を続ける様にユストは言った。
(『七世王リム・トウラドオクは生来臆病な王であった。己が玉座から引き摺り下ろされるかを常に心配し、彼を取り巻く重臣たちを猜疑の眼で見ていた。ある日、彼は城内の中庭を散歩中に警備の兵が剣霊使いについて話をしているのを聞き、自分の側近に迎えたいと考えた。剣霊使いの登用を重臣たちに伝えたが、そのほとんどは王の考えを否定した。剣霊という人間で無いものを王の間に入れる事を拒んだのである。だが、一人だけ王の考えに賛同する者がいた。その者は王の指示に従い、反対勢力の重臣を拘束しては処刑台に送った。自らの思い通りになったリム・トウラドオクは喜び、剣霊使いと剣霊を王の間に通した。黒髪の若い剣霊使いは薄緑色の髪の美しい剣霊を連れていた。』…この黒髪の剣霊使いとはユストの事ではあるまいな?)
(冗談はよせ。人間の寿命は七十がいいところだ。それよりも、剣霊使いと剣霊の名は記されていないのか?)
(どうであろう?)
ユストは頬杖をつき、二杯目のコーヒーに手を伸ばした。
(『リム・トウラドオクは剣霊使いに言った、この身を家臣の謀略と外敵から守って貰いたいと。若き剣霊使いは直ぐには返事をせず、隣にいる剣霊に小声で相談をした後、こう答えた。私は目が見えない為、王を亡き者にしようとする不逞な輩の姿を確認できません。つきましては全ての判断を私の剣霊に託してもお気を悪くされませんでしょうか。リム・トウラドオクは何の疑い無しにその様にしろと答えた。その答えを聞いた剣霊は、すかさず重臣を両断した。この者は剣霊使いの登用に於いて王の考えに賛同した唯一の重臣であったが、対立勢力が無い為に城内で実権を握り、汚職に身を染めつつある事を剣霊は見破っていたのである。王よ、目の前の憂いは断ち切りました。次は未来の憂いを断ち切ってまいりましょう。王の生涯、玉座と共にあらんことを。と剣霊使いは言い放ち、王の間を去った。トウラドオク城下の周りには堀があり、橋が三つ架けられていた。橋を渡りきり、城を後にした剣霊使いは剣霊に全ての橋を破壊する様に命じた。剣霊は大気を操り、風を起こし雲を呼び、三つの橋へ同時に雷を落とした。これによりリム・トウラドオクは外敵からの恐怖に懸念する必要が無くなった。』…この後は記されていない。ところでユスト、歴史書をここまで読んで、呪いとやらを解く手掛かりは既に見つけたのだろう?)
あぁ、と中途半端な返事をした後、ユストは語った。
(呪いが噂では無く真実であればの話だが、気付いた事はある。具体的な表現は出来ないが、普通の人間では相手出来ない代物だ。イルサーシャ、君の出番だよ。)
(
(イルサーシャなりの戦い方で大丈夫だ。むしろその方が今回は都合が良いと思う。)
(都合が良いとは、どういう意味だ?)
(トウラドオク城址に行く途中で判る筈だよ。)
ユストは肩に置かれたイルサーシャの手を取り、立ち上がった。陽が落ちてからだいぶ時が経過しており、星が高い位置にあった。ユストは顔と手を洗いたいのでフロントに湯を頼んでくる、と伝え煙草を手にして部屋を出て行った。
独り残されたイルサーシャは椅子に座った。座面にはユストの体温が僅かに残っている。閉じられた歴史書を再びめくり、また直ぐに閉じる。イルサーシャにはユストがフロントに行った目的が判っていた。剣霊に与える食事の準備を始めたのである。
夜とは大事な時間である。夜は神の刻と言う者がいれば、悪魔の時間と反論する者もいる。心を穏やかにして神との対話を行うか、心を荒立てて悪魔との談笑に興じるか。人間の曖昧さとは、常に岐路の前に立たされる状態である。過去の経験や知識を省みるなり思い出すなりして最良の結果を導こうとする。それは己の利益の為なのか、あるいは他の幸福のためなのか。フロントで用意してもらった湯で体を拭き終えたユストは窓の外に映える光景を眺めつつ、今から行う事に対し、ふとその様に思った。
何に思いを馳せているのか、とイルサーシャは気に掛けていた。ユスト、と彼の名を呼び、注意を引き付ける。彼は窓の外から自らの剣霊に視線を移し、ベッドの横に腰を降ろしているイルサーシャに並んだ。女性らしい、細い手首を手に取り、顔の前に持ってきた。
(イルサーシャ、食事にするか。)
(いや、
(先程の雷を呼ぶ剣霊についてだ。今も新たな契約者と共にこの世界にいるのか、とね。)
(あと、ブリスタンとル・ゾルゾアについてではないのか…?)
イルサーシャは空いている方の手でユストの頬に触れた。冷たい手であった。
(それは、君とて同じであろう?)
ユストは白銀の長い髪を撫でた後に肩に手を回す。横になる様にと力を入れて促すと、彼女は何も抵抗せずに、その体をベッドに沈ませた。
(むしろ君の方がかなり気にしているのではないのか、イルサーシャ?)
イルサーシャを見つめるユストの目が優しく細まる。彼女は咄嗟に視線を外した。それは剣霊と言うよりは女の仕草だった。
ユストの手が燭台に伸び、その根元を摘む。仄かに明るかった部屋は焦げ臭い空気を一瞬纏わせた後、薄闇に変わった。首元のスカーフに手を掛けたが、その動作を止めた。イルサーシャの手が重なったからである。
(どうした?)
(
ユストは頷き、音無き苦笑で応えた。
剣霊の食事とは契約者の血及び精を摂取する行為である。頻度、摂取量には個体差があり、その行為は共に男女の営みに似ている事は広く知れ渡っている。強さと美しき身体に魅せられた剣霊使いは剣霊の虜にさせられているのだと人々は口にし、それを羨む者がいれば、卑下する者もいる。だが、あまり知られていないのが、血と精の割合である。血が大半であり、精は年に数回求める程度である。また、剣霊が血を摂取する部位はそれぞれ一ヶ所のみであり、その部位を
食痕は重度の内出血を起こした様に赤黒く変色し、腫上がる。剣霊自身がその食痕を人目に晒すには心苦しく思い、隠す様に促すのが殆どである。イルサーシャの食痕は首元にある。故にユストは常に剣霊協会から支給されたスカーフでそれを人目に触れない様にしていた。
横になった二人が重なった。イルサーシャが上になり、ユストの顔を撫で、その後にスカーフを取り除くべく細い指が動く。ユストは絶妙な曲線を描くイルサーシャの腰に手を添え、薄闇の中でも輝く白銀の長い髪に手櫛を入れる。女の滑らかな唇が男の首元に近付く。剣霊は呼吸というものをしない。人間の女の様に興奮と悦の入り交ざった吐息を感じる事は出来ない。冷たい感触が首元に走った。イルサーシャの食事が始まった。
その冷たさは、やがて身体から力が抜ける感覚に変わり、快楽と虚無の狭間に身を置く事となる。海原に身一つで沈みかけているような世界、とユストは初めて食事を与えた時に感じ、毎回その感覚が変わらなかった。
イルサーシャの手がユストの胸に置かれた。愛しい者への愛撫の様であり、自らの食事を提供する者の心拍を確かめている様子にも見える。ユストは目を細めたまま腰に当てた手を背中に移し、ゆっくりと撫でていた。それは悦の世界から現実に戻れる様に、と自らの意思を保とうとしている動作であり、食事をするイルサーシャをあやす動作でもあった。
個体差はあるが、剣霊の食事は十五分で終わる。ユストの首元からイルサーシャの顔が離れる。満足と虚ろが混ざった状態の唇は僅かに開いていた。
「すまぬ。」
イルサーシャの言葉は食事を終えた事を知らせ、音で発するのは彼女なりの感謝の意を表現していた。彼女はそのまま身体をユストの上に預けた。
(ユスト、寒くは無いか?)
(あぁ、大丈夫だ。)
(
(まぁ、剣霊使いが懐に剣を抱いて横になるのは本望だよ。)
露になったイルサーシャの背中の一部を彼女の豊かな髪が隠している。それを完全に隠す様にユストは足元の毛布を掛けた。
(
ユストの顔の横にはイルサーシャの顔があった。人間の温度を知らない繊細な指が耳に触れ、閉じていた脚が毛布の中で動いていた。恥じらいを隠す行動をユストはそのままにしていた。
(今夜はこのままでいい。)
(そうなのか?)
(男から誘うもので、女はそれに応えるものだと思っているからね。)
目が慣れてきた為か、薄地のカーテンを通して窓からは星の輝きが美しく映えている。ユストの手がイルサーシャの頬を撫でた。
(そう無理に理解しようとするまでも無いよ。)
(ユストは
その答えは返ってこなかった。ただ、契約を結んだ者の手の温かさをイルサーシャは心地良く思い、それで充分だった。
剣霊使いは人間であるが、彼らは人間の女を抱く事は出来ないものである。自らの傍らに誰の目から見ても美しい女の姿をした剣霊を立たせている故といえようか。端的に言えば、人間の女の方から遠慮されてしまう。誰もが認める美しさの前では己の美貌や魅力は色褪せ、懐疑的になる。また、いくら美しいとはいえ、得体の知れない何かに見初められた、もしくは夢中の男にわざわざ近寄る女性はいない。仮に遊びのつもりで剣霊使いに言い寄るのは良いが、剣霊の気分を害したら火傷程度では済まないのは明白であった。
イルサーシャの食事が終わってから一時間が過ぎようとしていた。眠りに就けないユストは天井を眺め、左手は横にいるイルサーシャの頬に当てたままだった。
(何か気になるのか?)
ベッドに顔を付けたイルサーシャはずっとユストの横顔を眺めていた。剣霊使いが休むのを見守る事も剣霊としての使命でもあった。
(寝ていないと良く判ったね。)
(ユストは就寝の際、常に眉間に皺を寄せているからな。)
(ほう。)
(これを知っているのは
ユストは苦笑し、上半身を起こした。燭台の脇に置いた煙草に手を伸ばし、火を点ける。ほんの僅かに部屋が明るくなり、イルサーシャの体の輪郭が浮かび上がった。
(昔を思い出して、なかなか寝付けないのさ。)
(
イルサーシャはその細い指を煙草の先端に伸ばした。火種は切り落とされ、銀で作られた装飾の無い灰皿に落ちた。呆気に取られているユストの両肩に手を添えて、起き上がった上半身を元の位置に戻し、その胸板に意思の強さが滲み出ている端正な横顔を置いた。
(ユストよ、
イルサーシャは目を閉じた。
(眉間の皺もそうだが、寝ている時のユストの心の音は
二人の間に静寂が訪れた。イルサーシャは目を閉じたまま動かない。ユストは肩まで毛布を掛け直し、己の胸の上にいる剣霊の頭に手を添え、彼女の言う通りにした。
夜とは大事な時間であるとユストは再び思った。
ユストとイルサーシャの朝は早かった。名も知らぬ草の表面に麗しい露が溜まり始める時刻から二人は動き始める。青い狐の老支配人とその孫娘であるエリーナにイルサーシャの言葉を介して礼を言い渡す。老支配人はともかく、エリーナはイルサーシャの事が気に入ってる様子であり、別れを受け入れようとしなかった。だが、駄々をこねる幼女を抱き締めてあやす行為は剣霊には出来ない。また幼女自身も美しい姿の剣霊にその身を投げると取り返しのつかない事になると祖父から言い聴かされていた。感情を行動で表現できない苦痛にエリーナは耐えていた。
涙が止まらない孫娘と、なだめようとする老支配人、その様な二人の姿を平静な表情で見つめる剣霊。左右に広がっている階段の真下中央に置かれた大型の振り子時計が無常にも時を刻んでいる。ユストは右手の手袋を外し、親指の腹を自らの剣霊の手に添えた。男の硬い指が触れた際は眉一つ動かさなかったイルサーシャだが、数秒後に視線をエリーナからユストに向けた。
「…いいのか?」
思わず発したイルサーシャの言葉に対し、ユストは短く頷いて応える。その頷きが終わると親指から血が流れ始めた。空いている指で切り口を押さえ、エリーナに近付いた。左手で肩を数回撫で、無言とはいえ、落ち着く様にあやす。剣霊使いの優しげな表情を純粋な心を持つ幼女は素直に受け止めてくれた。そして血の流れる親指をエリーナの額に当てる。何かの儀式だろうか、と茫然とする老人と孫に何も語る事無くユストは手袋をはめ直し、出入り口へ向かった。
「エリーナ、そのままじっとしていろ。
剣霊に優しさを求めるのは難しい。だが、彼女の奥深い緑色の瞳は、祖父よりも長い年月を知り、全てを受け入れてくれる包容力を持っているとエリーナは感じ、その言葉に従おうと思った。
イルサーシャは前屈みになり、エリーナの額に口付けをする。百年香の心地良い匂いを伴った剣霊の唇は人間のそれと同じ柔らかさだが、温かくも無く、また冷たくも無かった。イルサーシャの耳から下がる黒蛇を模したピアスがエリーナの視線に映る。むしろピアスの方が自分を見つめている様に思えた。
幼女の額から剣霊の唇が離れた。剣霊使いの血痕はきれいに消えていた。
「汝の生涯、尊き誇りと共に。また会う事もあろう。」
ありがとう、としかエリーナは言えなかったが、それに勝る言葉を彼女は知らなかった。祖父の腕にしがみつき、去り行く剣霊の姿を見つめる。白地に黒の模様が不規則に走るドレスと煌く銀色の髪をエリーナには眩しく思えた。出入り口には腕を組んだままの剣霊使いの後ろ姿があり、自らの剣霊を待っている。剣霊が一歩先を歩き始めると、その姿を確認したかの様に剣霊使いも歩き始めた。
二人の姿が見えなくなってもエリーナは老支配人の腕から離れなかった。
「ねぇ、おじいさん。」
「なんだね?」
祖父が孫の困惑した表情に気付くのに、そう時間は要さなかった。
「わたしも大人になったらピアス、するのかな?」
「するしないは本人の自由だよ。」
「イルサーシャのピアス、蛇の形をしていたね。」
「あぁ、あれが欲しいのかい?あれが似合う様になるにはエリーナは少し早いとおじいさんは思うよ。」
「違う。あの蛇、わたしを見ていたの。片方は苦しそうに口を開けていて、もう片方は悲しそうな目をしていたよ。」
感受性豊かな年頃のエリーナの手は祖父の腕を強く握っていた。
「いいかい、エリーナ。まるで本物の蛇の様に見えたのは、あのお二人が誰も知らない経験をしてきた証なのだよ。」
「証?」
「剣霊は人間より何倍も長生きだから、いろんな苦しみや悲しみを知っているのだろうね。その思いがあの蛇に映り込んでしまったのだよ。」
祖父の手は孫の頭の上にあった。次に会うのは何時とは約束できない剣霊使いと剣霊の見送りが終わった事を諭す様に優しく撫でる。まだ部屋に居る他の宿泊客の朝食の用意をしなければならない。
一日は始まったばかりであった。
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