語らずの剣霊使い
花輪 類
トウラドオク城址編
第1話 トウラドオク城址編 序章
その日の日没は早く感じられた。頬を撫でる風は冷ややかであり、澄んだ空気は景色を鮮明に映し出している。
市街地からそう離れていない位置にある湖に、月は自らの姿を映していた。とても頼りなく且つ哀愁が漂う上弦の月である。その形を見て、女は何か想うところがあるのだろう、軽い笑みを口元に湛えていた。
純白の中に黒の模様が不規則に走っているドレスを身に着けており、低い身分のものでは無い事が伺える。その透き通る様な肌は世間の厳しさを知らないのか、傷と言う言葉とは無関係と言わんばかりであり、腰の下まで伸びている豊かな銀色の髪は頼り無い月の光を吸収したかの様に小刻みに煌いていた。
誰も名を覚えてくれそうに無い道草の花は頭を垂れ、姦しい鳥たちは既に夢の世界に旅立っている。女は顔を空に向けた。豊かな髪の奥に隠れていた程良い大きさの耳には黒い蛇を象ったピアスが揺れていた。右側には鎌首をもたげ、見る者を威圧するかの如く形相をし、左側は胴で孤を描き、自らの尾を銜えている姿である。水面に映る月から天に頂く月を見つめていた。
「ユスト。」
女は短く、口を開いた。女性特有の線の細い声だが、その声色の裏には意思の強さが見え隠れしている。
「あと三日で、あの月は新たな誕生を迎える。
天に向けていた視線は彼女から数歩離れたところにいる男に向けられた。その緑色の瞳に鋭さは無いが、奥行きが深く、長い年月を過ごした者にしか携える事が許されないものである。
ユストと呼ばれた男の黒い髪と共に、襟をたてたままのコートの裾は吹く風に身を任せている。
ユストは女の言葉に対し、何も答えない。彼女の呼び掛けの際、視線を向けた事からして聞こえていない訳ではない。女の戯言に付き合わされているという表情、あるいは愛しい者を目で愛でるという表情でもなかった。単に平然と立ち、宵闇に消える煙草の煙の先に視線を送っていた。
「あの月が消えたら、ユスト、そなたはまず何と言葉を発するのだろうな?」
ユストは煙草を消した。手袋を嵌めたままの右の二本の指で先端を摘んだだけである。そして月を射抜かんとばかりに見つめている女に近寄り、そのか細い肩に手を置いた。
(その時にならないと判らないものだよ。イルサーシャ。)
女の中で問いの答えが響いた。
「
(それは気遣いという、相手本位で物事を考える洞察だ。人間でもなかなか出来ない気遣いに感謝するよ。)
先程より風の吹き具合が徐々に強まりつつある。イルサーシャは靡く髪を抑え、ユストはコートのポケットに手を入れる。二人はその場から一番近い市街地に足を向けた。
歩いている街道をそのまま進めば市街地にたどり着ける筈である。太陽が出ている間はそれなりの往来があるが、日が沈む頃には道行く人々の足音、馬車の車輪が軋む音が少なくなる。そして二人が歩いている様な夜になると静寂の一空間となる。金目当ての夜盗や飢えの苦しさで凶暴になった狼、そして未知の殺戮者との遭遇は避けるに越した事は無いからである。
その様な中、ユストとイルサーシャは足を進める。目的地まで導く明かりは頼り無い月明かりしか無く、舗装されていない街道に単調な足音と夜行性の鳥たちの歌声が響く。
世間は、サイレントと彼を呼ぶ。
その人物像を知る者は少なく、通り名は独りでに広まっていた。中央行政国家、東部帝政国家、北部王立国家、南西自治国家と四つの権力がひしめき交差するこの世界に於いて、彼は剣霊使いとして知られていた。
遥か過去、人類は文明を放棄した。母なる海と大地は人間にとって都合の良い文明により汚染され、生物はその種を激減するしかなかった。事の次第に憂慮した人間は科学による解決よりも呪術や魔法による浄化をもてはやした。やがて、ある日を境に得体の知れない魔物に生活を脅かされるようになった。科学の叡智は魔法の偉大さに敗れたのである。ただ判ったのは、人間は霊長類の長である事には変わりは無かったが、この世の頂点から引き摺り下ろされた事であろうか。
人間が魔物と相対する中、剣霊という存在が現れた。いや、遥か昔から存在しており、人間はそれに気付かなかったのかもしれない。麗らかな人間の姿をした剣霊には二種類の性質があった。人間に手を差し伸べるもの、人間に害を与えるものである。前者を良き剣霊と呼び、後者を悪しき剣霊と呼ぶようになっていた。その区別は見た目では判断出来ず、意思の疎通を図り、会話が成り立つのか、直に殺されるかの二つに一つしかない。つまり剣霊とは刀剣に宿った意思及びその姿の総称である。剣霊の正体は天の使い、悪の具現、自然界の戯れ、その刀剣の所有者の怨念、と諸説が流布したが、その全ては確実性に欠け、人々は未知の領域に畏怖し、恐れをなすしか手段を知らなかった。
ユストは足を止めた。彼の前を歩いていたイルサーシャは足音が消えると同時に振り返る。その表情は不安に駆られたものか、指示を仰ぐものか、選択肢の決定を促していた。
「ユストが良く口にする、良からぬ輩とやらだろうか。三人こちらを待ち伏せしている。距離にして二十メートル前後だ。」
風で靡く白銀の長い髪を押さえる事無く、ユストに視線を向けるが、ユストは何も言わない。ただ頷いただけである。右手をコートのポケットに入れたまま再び歩き始め、イルサーシャと横並びになり、空いている手を彼女の腰に当てた。
(頼む。)
イルサーシャも再び歩き始めた。その後ろをユストが歩く。あまりにも短い言葉の裏に二人がこれまで経験してきた戦いの片鱗と信頼関係が伺えた。
歩く速度は戦う相手と距離が縮むにつれて早まる。三人のうち、二人がイルサーシャに反応するかの様に動き始めた。やがて小走りとなり、相手の武器が見えてくる。刀身が湾曲した剣をそれぞれが手にしている。幾分大振りだが、相手を威圧する目的が主であろう。淡い月光を曲刀は反射できずに質の悪い鏡の如く、ぼやけた表情を映し出している。
イルサーシャは足を止めた。武器を構える音と土埃が入り混じる。小手調べのつもりだったのか、二人で囲めば充分と判断したのか、口元に品の無い笑みを湛えているのをイルサーシャは知った。
「おい兄貴、女だ!」
二人のうち、背の高い方が叫ぶ。両手で構えていた曲刀を片手持ちにし、偶然にも稀代の美女が獲物と知り、猛り始めた。
「こりゃあいい。滅多に拝める事が出来ない上玉だ。」
品の無い笑みは、欲望の塊となって吐き出された。
「折角だ、奴隷商人に渡す前に俺達で嬲り尽くしても良いだろう、兄貴?」
「そうだな、あの気高い表情がどう変わるかを想像したらうずうずしてくるな。」
二人のうち、小さい方が大きい方に呼応するかのように喋り、その見開いた眼孔はイルサーシャを舐めるか如く焼き付けている。並の女なら、これから起こる自らの末路に絶望し、その場で泣き崩れるであろう。だが、イルサーシャは微動だにせずユストが言うところの良からぬ輩を静かに見据えていた。彼女の瞳には怒りあるいは恐怖を律する強い意思では無く、憐れみが感じられる穏やかな水面の様であった。
「かまわぬ。捕らえて服を剥いで、あとはあの男の前で好きにするが良い。」
残る一人、兄貴と呼ばれている男が、その巨躯にふさわしい低い声で二人に指示を出す。
欲に身を支配された二人は手にしていた曲刀を大地に刺した。目の前にいる麗しい女は素手でこちらを見ている。気丈夫なのか、これから自分が辱めを受けると判っているのにも関わらず逃げようしない。二人は左右に分かれ、獲物から視線を逸らす事無く円を描く様に歩き始めた。このきめの細かい白い肌の感触は?しなやかな白銀の長い髪の匂いは?男とは異なる胸の柔らかさは?艶やかな肉付きをした唇の味は?実感する前の興奮と溢れんばかりの欲望が入り交ざる。そして欲が興奮を上回った時、理性を失った獣は獲物に飛び掛った。
悲鳴が響いた。
重苦しい悲鳴が二つ、心細い月明かりしかない夜の街道に響いた。
イルサーシャの正面から両腕を掴もうとした背の高い男の手首は切断され、胸に横一文字に深い切り傷を負い、背面から抱きつこうとした背の低い方の男はその身を縦に裂かれていた。イルサーシャは返り血を浴びずに平然と立ち、風に靡く横髪を耳に掛けた。
予想外の展開であったのだろう、その目で確かめるべく、兄貴と呼ばれた巨躯の男は二人の下に駆け寄る。一方、想定内の結果だったのか、ユストは先程懐に入れていた吸い掛けの煙草に火を点し、静かに歩み寄る。
流れる血の匂いが周囲を包み込みつつある。薄闇の世界でも血の色は鮮やかに見えた。
「女、何をした!」
巨躯の男は事の事実を受け入れるのが必死のあまり、怒鳴ると共にイルサーシャの美貌に目を奪われざるを得なかった。
「
短く、その場に適切な表現でイルサーシャは語った。
美しいものに触れてはならない。触れては怪我をする。いつの頃からか人間は幼い時から親を始めとする年長者からこの言葉を教え込まれていた。美しいもの、人間の手垢に塗れていない孤高の美しさは人智を寄せ付けない何かに守られているという意味であり、自らが所有するもの以外には触れるべからず、と道徳的な要素で使われていたのかもしれない。
だが、この場は違う。剣霊という、契約者と呼ばれる者以外は人間を始め、ありとあらゆる生物が触れると鋭利な刃をその身に食込まされる単純な事実が目の前に広がっており、それを受け入れるしかなかった。
イルサーシャの肩にユストの左手が置かれた。
「狩る相手を間違えたようだな。」
物腰の落ち着いた女の声は巨躯の男を威嚇し、立て続けに口を開いた。
「剣霊と対峙した以上、追剥稼業はこれまでだ。」
「なんだと!」
「再び言う。この場で倒れてもらう。何か言い残す事はあるか?と
ユストは視線を敵から外さずにイルサーシャに触れていない右手で口元の煙草を摘み、地面に投げる。その眼光は幾度の戦いを経た者にしか備わらない鋭さを持ち、呼吸音すら漏れていない。対する巨躯の男の眉間に皺が寄った。
「お前、語らずの剣霊使い、サイレント、だな…?」
イルサーシャは顔を動かさず、視線を自らの肩に手を置く男に視線を移した。
「…だとしたら?」
「ならば俺と差しで戦え。俺はメガロ三兄弟の長兄、ガズ・メガロだ。その綺麗な剣霊様の手を借りずに自分の手で俺を倒せよ。」
形勢逆転を狙った挑発か、或いは苦し紛れの暴言か、ガズは腰に携えた大振りの曲刀の柄に利き手を添える。
「サイレントを討ち取ったとなればメガロ三兄弟の名が嫌でも知れ渡る。それに弟たちの手向けに丁度良い。」
耳障りな金属の擦れる音を交えて鞘から刀身が現れる。現実となるかどうか判らない欲望を含んだ曲刀の刃は鈍い輝きを放っている。
「どうした、お前も剣を取れよ?まさか剣霊使いが丸腰ではあるまいな?}
その言葉に対してユストとイルサーシャは微動だにしない。ガズ・メガロは唇をいやらしく歪めていた。彼はユストが帯刀していない事に気付いていた。彼が身に着けているコートの下に武器が無い事は、時折強く吹く風が教えてくれた。剣を腰に下げていれば自然にコートが風に靡く事が無いからである。だが、ユストのコートは何の抗いも無く、靡いていた。その事実は剣霊使いは剣霊という得体の知れない人形を自在に操ることで戦うものだと判断したのである。
剛力に任せた剣の威力なら、この腕力が無さそうな剣霊使いに勝てるであろう。まして丸腰なら尚更である。無秩序と暴力を共にしてきたガズ・メガロの大振りの剣はその巨躯の前に構えられ、一歩一歩とゆっくり二人に近寄る。
「お前、丸腰なのは、図星か?」
慎重の中に嘲笑が混ざる。
「またその剣霊とやらと使う気じゃないだろうな?世にも名高き剣霊使いであるサイレントが卑怯者だったとは聞いてないぜ?」
再びイルサーシャの視線がユストに向けられる。彼はガズ・メガロの動きを注意深く見つめ、何かを狙っているようだった。
三メートル程の距離のところでガズ・メガロは足を止めた。自らの一振りが届くか届かないかの距離であり、ユストあるいはイルサーシャの一撃を回避できる絶妙な位置である。やはりこの剣霊使いは武器を身に着けていない、とガズ・メガロはユストの腰に視線を移す。勝利を確信したいが、剣霊を使われたら面倒である。その時は美しい女の姿に惑わされること無く斬る、というよりは叩き潰すしかない。
「さて、そろそろ終わりにするか、サイレント。お前を真二つにする。その剣霊は俺のおもちゃにするか、見世物にするか、あの世で眺めていな。」
ガズ・メガロは上段に構えた。力任せの一撃で武器を持たないユストを亡き者にするつもりだろう。その構えを目の当たりにしてもユストはイルサーシャの肩に手を置いたままだった。唯一違ったのは口元が動いたことぐらいか。音無き声は誰の耳に届かないが、ガズ・メガロには読み取る事が出来た。
最期だ。
生死を賭けた緊迫した空気が一瞬で炸裂した。雄叫びと共に構えた大振りの曲刀を振りかざす。ガズ・メガロの目が大きく見開かれた。剣霊と名乗った女は姿を消し、ユストの手に一振りの直剣が握られていた事に対してである。
月明かりを全て吸収したかの様に、闇の中で青白く輝く直剣は二匹の蛇が絡み合う姿の装飾が施されていた。上段の一振りという刹那の間でも、それは目を奪い、美しさを認める事が出来た。
ガズ・メガロはその巨躯を前のめりに倒した。ユストの逆手に持った直剣による左からの切り上げは、しなやかさと鮮やかさ、そして早さを備えたものであった事をその身で感じた。絶命という入り口に足を掛け、意識が遠退く中、彼は二つの事を知った。一つは剣霊とは剣そのものであり、美しい女性の姿は仮の姿にほかならない事を。残る一つは、サイレントの剣を振る際の気合の声はさながら、息を吐く音すら聞こえない事を。
やがて静寂のひと時に戻る。街道上に転がるメガロ三兄弟の屍それぞれにユストは視線を落とし、その魂が抜けた姿を確認し終わると三名の名残の品である曲刀を一箇所に纏め、地面に刺し直した。その位置から数歩下がり、手に持つ直剣を逆手から順手に持ち替え、素早く孤を描く。切先は光の軌跡を残し、地面に刺した曲刀は三本とも刀身を二つに断たれていた。持ち主を失った剣に怨念の類、または悪しき剣霊が移るのを阻止するためである。そしてユストは自らの直剣も地面に刺し、市街地に向けて再び歩き出す。やがてイルサーシャが小走りで彼に追いつき、少し前を歩き始めた。
夜行性生物の声が耳に心地良く聞こえる。ハクシャクミミズクという、老紳士の様な風貌を思わせる猛禽のものある。風貌に似合わず、臆病な一面を持ち、人間が多いとその声すら聞かせてくれない。
吹く風は幾分、弱まっていた。
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