第9話『大地に花が満ちるよに』①/著:秋田みやび

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 むせ返るような緑の匂いが、全身を包んでくる。


 慣れない森歩き……というよりも森走りに、私はすっかりとだるくなった足を投げ出すように座りこむ。鎧の背中がゴツンと硬い岩に当たった。鈍い音は不快だったけれど、もたれることができるのはありがたい。


 鎧の薄い場所を攻撃されたのか脇腹が少し痛んだけれど、これくらいは怪我の内にも入らないだろう。


 身体から発する熱が、荒い呼吸で喉を焼くような気がした。


 街の衛士の訓練時でも、鎧を身に着けたままここまで足場の悪い場所を長時間走ったことはなかった。


「ここまでくれば、もう大丈夫よ」


 ぜえぜえと情けなく音を立てる呼吸を治めようとしていたところに、ふと、涼やかな声が聞こえてきた。


「そういえば、あなたの名前は何ていうの?」


 大きな常緑樹の根元からひょこりと顔を出したのは、まるで季節外れに冠雪したかのような細やかな小さな花を無数に咲かせた少女だった。


 ふっさりとした細やかな白い花を無数に咲かせた房が、何本も緑の髪の狭間から垂れ下がっている。まるで、白いベールを被っているかのようだ。ほろほろと白い小さな花びらが時折落ちて、雪のように風に舞う。


 華奢で小柄な、可憐な少女に見えた。


 人間ではない。メリアと呼ばれる種族だ。花は……多分、雪柳。


 正直なところ、この目で実際に見るのは初めてである。元衛士をしていた小さな町では、森や草原に生きるメリアという種族を見ることはなかったのだ。もっと大きな街であれば、好奇心に突き動かされたり、探求の旅に出るメリアを見ることができるというらしいが……。


「ここまで、逃げる道筋を案内してあげたのだから、多少の恩に着てくれてもかまわないのよ? あ、ちなみにあたしは、リーニルーナ。ルーナって呼んで」


「それを言うなら、森の中でおかしなものに襲われていたキミをつい助けに入った私にも、少しでいいから恩を感じてくれてもかまわないと思うが」


「あ。そうだった。ありがとう、ちょっとだけ助かったわ」


 けろりとしてそう言う彼女が、同じ距離を走ったはずなのに全く息を切らしているように見えないのは、装備のせいだろうか。それとも、森歩きの経験の差だろうか。ほっそりとした身体に草木染めめの柔らかそうな服をまとった少女は、興味津々といった様子で、私を覗きこんできた。


 そして、ほそっこい指で無遠慮に額から生えている小さなでっぱりに触れてくる。その怖いもの知らずな、失礼寸前の行為に、正直引いた。精神的にだけでなく、物理的に頭ひとつ分は仰け反ってしまう。


「おでこの角。初めて見たわ。あなた、ナイトメアね?」


 悪気はないらしい。少々失礼だが。


 だから、そう不躾に問われても不快感はさほどない。


「……そう、見ての通りナイトメアだ。エレシアという。エレシア・エスタイド。もっとも、私もメリアを見たのは初めてだが」


 そう答える頃には、どうにか呼吸が整ってきた。背負い袋に、穴が開いていないことを確かめ、荷物に傷がないことも確認する。


 岩にもたれて呼吸を整えていた私の額の角を、物珍しそうに指で何度もつんつんとつついて確かめていた少女、リーニルーナは、全く悪気なくむしろ好奇心いっぱいのようだ。


「あら、じゃあ初めて同士ね。光栄よ?」


 そう言って、にっこりと無邪気な笑顔を向けてくる。


「それはどうも」


 どう返していいのかわからずに、私としてはそう曖昧に返すしか思いつかなかった。


 そして、一息ついたところで改めて、周囲の様子を見回す。


 深い森の中──ザストフラムの大森林と呼ばれる深い森だ。広大な森林の、その比較的入口に近い場所のはず……だったが、いきなり出くわした不死者に襲われていた少女を思わず助けに入り、倒しきれずに逃げた。もっとも、撒くために方向感覚が無茶苦茶になるほどに、けもの道すらない木々の間を潜り抜け、四度も斜面を滑り落ち、渓流を三回渡りと繰り返してきたので、すでに現在位置はわからない。


 町育ちの私には、鬱蒼とした緑の濃い闇の中に閉ざされたような感覚だった。


 どこを見ても同じような岩と木。それを覆うようにぐねぐねと蔦が這い、深い緑が青い空を遮っていて太陽の位置もよく見えない。


 ああ、まずい。


 ようやくのろのろと、危機感が湧き上がってきた。


 このままでは、完全な迷子だ。


 冒険者になって一発目の依頼がこのザマとは……。


「ね。あなた冒険者ね?」


 頭を抱えかけていたところに、あどけなさすら感じさせる瞳をキラキラと輝かせたリーニルーナと名乗るメリアの少女が、至近距離から私を覗き込んできた。


「そうだ。モイズーと呼ばれる集落に、届け物をするためにやってきたんだが。その集落を君は知っているだろうか?」


「そうなの? もちろんモイズーなら知っているけれど……ああ……! そうか、もうそういう時期だものね!」


「は?」


 メリアの少女は少し考えてから、何か得心がいったように、ぱちんと両手を打ち鳴らす。


 彼女が何を納得したのかは知らないが、私は膝から崩れ落ちるような安堵を感じた。少なくとも、この少女を味方につけておけば、私は広大な森の中で野垂れ死にという近い将来予測から免れられる。


「もしかしてモイズーに暮らしているのか?」


「ああ。そうじゃないけれど、あたしの集落はその近くなの。……案内はいる?」


「ぜひとも!」


 取り繕うことも忘れた。先ほど仰け反って下がった分も埋め合わせるように、メリアのリーニルーナに詰め寄った。


 私の目からは人間でいう十四、五歳にしか見えないメリアの少女は、くすりと小さく可憐に笑う。華奢で、小柄で、真白な花々のベールをかぶった細工物のような姿に、ややがっちりとした体型を自覚する私のコンプレックスが少しばかり刺激された。が、そんなものは命の危険という錘を載せた天秤で比べても、皿を動かすほどの重さはない。


 ちなみに、メリアは何百年と生きる種もいるが、ほんの十年ほどで寿命を迎える種もいる。……彼女は多分、短命種だ。


 儚く、庇護欲を抱かせるのは、そういう種だからだろうか。いや、彼女個人の個性だろうか?


「じゃあ、案内するわ。まかせて。新たな住人を歓迎しないわけにはいかないものね」


「待て! 私はこの森に住むわけじゃないぞ! 確かに、一歩間違えればこの森に骨を埋めそうな状況だったが!」


 リーニルーナの口ぶりに、私は慌てて訂正の言葉を差し挟む。


「え? そんなの当然でしょう? モイズーはメリアの里だもの。届け物の荷物は、しっかりと大事にしてね?」


 なんだか、会話がちぐはぐだ。


「もちろん届け物はしっかりと保護している。ところで、キミが襲われていたのは? アンデッドに見えたけれど……少なくともギルドからは、モイズーまでの道のりに出没しそうな危険といえば狼ぐらいのものだと聞かされていたのだが」


 冒険者になって最初の仕事として選んだ依頼は、このザストフラム大森林の浅い部分にあるモイズーの集落まで、やや大きめの鍵のかかった箱を届けるというものだった。


 中身が何かは聞かされていないが、骨董と思って運べと言われたので、背負い袋の中の毛布の中に挟むようにして押し込んでいる。大した危険はないと聞いていたので、手紙運びのようなものと肩慣らしのつもりだったが、出くわしたのは狼ではなく、干からびたような不死者がメリアの娘を襲っているところだった。


 手足が枯れ木のように乾いて硬く、痩せさらばえた人間のようにも見えたが、あんな干からびた身体でまともに生きているとは思えない。


「ドライコープスよ。弔いに失敗して、発生してしまったみたいなの。追いかけてみたけど、集落の守り人が手におえないなら、近いうちに冒険者ギルドに依頼を出すことになったと思うけれど。困ったわー」


 なぜだろう。


 そう答えるリーニルーナの声音は微妙に平坦に聞こえる。


「アンデッドが発生するとか大事件だろう! 被害者が出る前に討伐するべきじゃないか!」


「そうね。どこかの集落に突入されても困ってしまうわ。ああ、困ったわー」


 言いながら、ちらちらと上目遣いにこちらを見てくる。


 まるでおねだりをされている気分で、ああ、なるほど露店でアクセサリーをうっかりと買わされてしまうカップルの気持ちというものが微妙に分かったような気がしてしまう。


「……その『察してください』『自分から言い出してください』という視線はとても不快なんだが。リーニルーナ」


「じゃあはっきりと言うわね? あたし、お金がないの」


 気持ちがいいほどのド直球だった。


 冒険者ギルドで、そういった金のない弱者からの依頼には、ギルドから報酬の補填が行われるのが普通だが……なぜだろう、それを言い出すのも微妙に後ろめたい。どう考えても、冒険者ギルドに向かうまでに時間がかかるのがわかっているからだろうか。が、そんな逡巡は、次のリーニルーナの台詞であっという間に霧散した。


「ああ、でも……迷子になった女冒険者のどこかの集落への案内料で、何とか相殺できないかしら! 自分の命の値段だものね! それって決して安くないと思うの!」


「意外とイイ性格だなキミは!」


「エレシア、あなた絶対に森歩きに慣れてないわよね? ここまで逃げるのに走ってきてバレバレなのよ!」


 ふわりと草木染めめのクロースを翻すように一回転し、びしりと指を突き付けられた。


「ああ、隠しててもしょうがないから言うが、その通りだとも! 案内はいる! 必要だ!」


「……どうして、仲間は一緒じゃないの? 普通、冒険者って苦手分野を何人かで補うものでしょ」


「仲間が、見つからなかった」


「そんなはずないでしょ? ナイトメアの冒険者って強いから、引く手あまたじゃないの? あ! わかった、あなた自分が穢れ持ちだってコンプレックス抱えて遠慮して、勝手にぼっちになるタイプでしょう!」


「余計なことは察するなー!」


 いきなり図星を突かれた気がして、大声を出してしまった。


 自分がナイトメアであることにコンプレックスがあるのは確かだけれど、そう言語化されるとひどく卑屈な女のようじゃないか。


「いいじゃない。どんどんお互いに察していきましょうよ、お互いが初めての種族としての相互理解のために。何か間違っていたら、そのたびに指摘してくれた方が手っ取り早いわ。無駄に思考錯誤して、一人悩んで、誤解して、なんてしてるほどあたしの人生は長くないの」


 可憐で愛くるしいメリアのずけずけとした物言いに、開いた口がふさがらない。


 そして、メリア的な冗談か何かなのだろうか。寿命がないも同然のナイトメアの私が聞かされるには、いささか、その……返す言葉に困ってしまう。


 そんな私の複雑な心境を見抜いたかのように、真白な花を雪のように髪に積もらせた少女は小さく忍び笑いを洩らした。


「あなた、いい人ね、エレシア。普通なら、依頼の最中だから、あたしのことなんて見捨ててもよかったと思う。なのに、助けてくれようとした。そして、この広い森の人たちのことを考えて、すぐに討伐って気持ちに動いてくれた。とても素敵な気持ちの在り方よ」


「……もともとは、町で衛士の仕事をしてたから。勝手に身体が動いただけだ」


「衛士をやめて、冒険者になったの?」


「そんなところ」


 ぶっきら棒に短くそう答えると、リーニルーナはそれ以上追及はしてこなかった。しばし宙を見て、何か考え込んでいるところを見ると、勝手なことを察しようとしているのかもしれない。おかしな想像をされるのも不愉快だったから、その思考を断ち切るように休めていた身体を立ち上がらせた。


 腰に佩いたバスタードソードの重さを確かめ、盾を確認する。


「で、どうする。小休止はとったし、集落に案内してくれるとありがたい。その間の道筋で、そのドライコープスなるアンデッドに出くわしたら戦うといったところだろうか」


「そうね。エレシアの受けたお仕事は大事だから、まずは集落に案内するわ。でも……」


「その最中にヤツに出くわしたら、戦う。安心してくれ」


 森には、メリアだけでなく様々な人族が暮らしている。あまり、こういった環境に詳しくはないが、自然の恵みと厳しさに包まれ、平和な日常を過ごしているはずだ。


 町と森、それぞれ暮らし方は違うにしても、そう言ったアンデッドや蛮族に日常を侵されていい理由などない。


 生まれつき肉体的に恵まれてきた私が衛士を志したのは、そういった無辜の人々を守りたかったからだ。穢れなど関係なく、人の役に立てると──そう思ったのだけど。


「あ。ううん、そうじゃなくて。もうすぐ日が暮れるから、野営をして明朝にモイズーに向かいましょ? わたし夜目は利かないもの、やたらと森の中を動き回るのは危険よ?」


「……うん、そうだな」


 私も、夜は見通すことができない。 


 森に生きる彼女の意見を尊重して、もう一度苔むした地面に腰と荷物を下ろした。

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