6

 なにもしないということが、しばしばわたしたちを救う。


 半ば夢中に、半ばやけになって言葉を交わしていたように思う。

 例によってというかなんというか、トオノはケーキを平らげると部屋からいなくなった。

 たちの悪い白昼夢だったのかもしれないが、東は確かに二人分のフォークを洗ったし、不毛な長話に傾倒したおかげで風呂上りの体は冷めきってしまっていた。

 東は一つくしゃみをして、ホームの屋根を仰いだ。期待を裏切らず風邪をひいた。

 こう見ると交差する部分が太いだけで、鉄骨自体は数が多くなるにつれて細くなっている。密度が高いほど遠くに見える原理だ。

 嗚呼そうか。蜘蛛の巣に似ているのだ。

「――くん」

 自販機のボタンを押すと同時に声がした。

「やっぱりそうだ。次、いい? 私も緑茶」

 朱美だった。

 地味な色の財布を片手に首を傾けている。そんな癖もあったなと思い出した。東は鼻をすすりほぼ空気が抜けただけの声でどうにかああ、と言うと、場所を空けた。

「あれ、風邪。大丈夫? バイト帰りだよね」

「――まぁ、なんとか。クリスマス明けのきらきらした後輩たちにこれでもかというほど笑われた。指差して」

「なあにそれ」

 ひどいねとくすくす笑う朱美も大概だ。残業でいつもの電車を逃したので横浜駅で乗り換えることにしたのだと朱美は話した。偶然もあるんだねとも言っていた。

「昨日遅くに電話しちゃってごめんね。それなら寝てたよね」

「いや、風邪ひいたのは朝だから大丈夫。こっちこそ気づかなくてごめん」

 東は糸の上を歩いているようなトオノとの会話を思い出して、またくしゃみをした。

 あの甘い匂いに刺激されて反射運動でも起こしているのかもしれない。朱美は――

「――ほんとに大丈夫?」

「いや、ぜんぜん。ぜんぜん。なんの用だったの?」

「あ、えっとね。メールでも送ったんだけど、CD借りっぱなしだったから返そうと思って。一枚限定盤だったでしょ。無視してくれても良かったんだけど」

「なんだ、そんなことか」

「そんなことって……うん、迷惑じゃなかったならいいよ」

 朱美は控え目にペットボトルに口を付けた。相も変わらずなにもかもが大人しい女だ。

「わざわざ悪い。忙しかったら郵送してもらってもいいし、なんだったら捨ててもいいよ」

「――くんってそういうとこドライだよね。後輩さんたちにいじめられてない?」

「なぜそうなる」

「ごめん、つい」

 ついとはなんだ。冬の風に歯向かうように朱美とホームを歩いた。珍しく最前列を勝ち取ったのでとにかく寒かった。

「でも、元気そうで良かったよ」

「この通りだけどな」

「ふふ、お大事に。無理しないでね。私も残業続きだし、ひとごとじゃないなあ」

「お前もほどほどにな」

 最初はぎこちなかった会話もするすると紐解けて小気味いいものに変わっていた。

 なんだ、という気持ちだった。

 いざ再会して言葉を交わしてみれば、朱美という女はずっと健康的で、東との関係もさっぱり割り切っているようだった。つまり甘い匂いの正体とは『そういうもの』なのだと東はついに理解した。

 今の朱美は、どうだ。口紅と、ペットボトルの緑茶の匂いがせいぜいだろう。

「そうそう。この間事故があったみたいだけど、大丈夫だった? ちょうどこの時間帯だったよね」

 ぞろぞろと後ろに連なる人ごみが質量を増して、列を乱さないために朱美は鞄を体の前で抱え直す。

「ああ、あれ。原因不明の衝撃で、ってあれだろ。見てたよ。俺はホームにいたから。窓側にいた乗客は軽い怪我したみたいだけど、車両の連結部が壊れかけてたらしいからあそこで急停止していなかったら逆に危なかったって。次の日ニュースで知って驚いた」

「ええ。それじゃあ、結果的に何事もなくてよかった、って感じだったんだね」

「お前運だけはいいよな、って佐藤にからかわれてケチがついたぞその話」

「相変わらずなんだね。運、か。私はそういうのあんまり実感が湧かないけれど。タイミングっていうのかな。コインロッカーがたまたま空いていると運命を感じるよ?」

 朱美が含蓄深く頷くので、東はぷっと噴き出した。

「運命は大袈裟だろ」

「だって。私、横浜駅のコインロッカーだけはすぐ見つかるんだよ」

 さっと東の顔が色をなくした。

『間もなく三番線に電車が参ります――危ないですから――』

 黄色い線の内側に。

 肋が宙を浮く感覚。どんと背中に鈍い衝撃があった。

 両腕が絡め取られ足が縺れ、くんずほぐれつ踊る人体の群れの一部になる。

 動悸がする。

 キャラメル色のボストンバッグが飛んで。

 叫んだ声が掻き消された。

 ホームになだれ込んだ鈍色の巨体が鉄の糸を吐いている。

 泥のついた靴で踏み潰されたみたいに。転倒してくしゃくしゃになった電車。

 悲鳴と怒声と歓声と、声が声が、うるさい声が競い合ってすべてを淘汰する。

「これ、人が――」

 朱美は。

 朱美は震えていた。

 己を守るように両腕を掻き抱いてその場に崩れ落ちた。

「言うな朱美!」

 東は朱美の肩を掴んで流れる人波の盾になる。

 一方で、嫌な予感が頭を支配していた。前にもこんなことがあった。

 前? 考えるな脳味噌が一回転すればおのずと結果は見えている考えるな見せるな俺に――


「アケミは無事か」


 東は奇しくも跪く形でそれを見ることになった。

 八つの触手を足場に線路に降り立った少女は羽を広げた天使にも見えた。

 ざっくらばんな前髪から四つもの目が覗いていなければ、ともすると永遠に聖性の美を失わなかったことだろう。

「なら、良かった」

 綻んだ先から消えてしまいそうな笑顔で、トオノはそう言った。

 白いヘルメットや、制帽を被った人間がトオノの足元を文字通りすり抜けていく。

「トオノ」

 言えない。朱美が突き飛ばされて、あのまま死んでいた可能性を口にできない東には。

「アズマ、あれはどういうことだ」

 上唇と下唇が引き攣って上手く重ならない。

「あなたの顔は、どういうことだ?」

 ブルーシートから腕が落ちる。担架がトオノと東の間を過ぎる。

 トオノは動かなかった。東もしばらく動かなかった。

 朱美がぐったりと倒れた。全身がばらばらになりそうな思いで東は吠えた。一切の暴力を喚き散らした。

「そうか」

 思い返してもみろ。トオノと出会ったときのことを。

 アスファルトに突っ込んで動かなくなった男のことを。

 等価という糸を手繰り寄せる会話の数々を。

「――理解した」

 これが運命という代物だ。なんとなくの正体だ。

「わたしは失敗した」

 近く遠くサイレンが鳴り響いている。

「手段を、誤った」

 トオノの髪が重力に逆らって扇状に広がる。

 櫛も入れたことがなさそうな毛先がほつれて白く抜け落ちていく。

 腹部が二度三度波打つ。同じように白い――糸が押し出される。

 縒り合わされた軌道が放射線を描き、トオノの周囲に巨大な蜘蛛の巣が出来る。

 その中央でトオノは恭しく目を伏せた。

 冬の吐息にも似た軽さで、少女の体が弾けた。光条が糸を走った。

 東は初めてトオノが消える瞬間をその目で見た。


 走るしかなかった。


 たなびくダウンコートの襟首を引っ張って、大きく息を吸った。

 階段を二段飛ばしで――最早大股で飛ばせるところは蹴り飛ばして駅員を散らして、手近な改札に定期を叩きつけとにかく駆け抜けた。

 朱美を置いてきた罪悪感はあった。それ以上にいかなければならない使命感があった。

 がむしゃらに手を伸ばせば選べると思っていた。なにを?

 コインロッカーを手当たり次第にがたがた揺らして空きを探した。どこでもいい、当たればいい。

「トオノ! トオノ!」

 頭をねじ込む勢いでようやく開いたロッカーに向かって叫んだ。

 そこには排水口のように暗く沈黙する闇しかなかった。

 東が構築していた異空間も、おそらくトオノの住処も、正方形の闇に縁取られて、底の方に吸い込まれてしまったのだ。

 あの時、原田の問いをはぐらかしたのは、自分が重い男だという自覚があったからだ。

 運命とか、その手の、腹の足しにもならない惚れた腫れたの。

 ――俺は恋をしていたんだな。

 頭の片隅にスライドしていく己の声を聞きながら、東はずっと安っぽいクリスマスケーキの味を思い出していた。

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なにもしないということが、しばしばわたしたちを救う さきがみ紫檀 @skgm_s

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