5

 シャワーを浴びていると無心になることがある。

 ほとんど癖のようなものだった。

 これから朱美を抱くのだと思うと、自然と指に力が入った。

 髪を掻き、肌を擦る動作からありとあらゆる意味が消失して、角質や垢と一緒にぼろぼろ剥がれては排水口に詰まっていたのだと思う。水も濁る。

 そういう意味で、東にとって風呂場は異空間にもっとも近い場所だった。

 一度此処に這入り、小ざっぱりすれば、だいたいのことには腹を括れたのだから。

 そうだ。朱美のやつ、なんでか風呂上がりだけはなんの匂いもしなかったんだよな――

 洗面所には時計がないので、頭にタオルを乗っけると急いでリビングに戻った。

 深夜一時。あれから思いのほか時間は経過していない。家具が少なければ雑貨もないので、心もとない照明がことさら部屋を暗くしている。

 その中央に、いた。ヴヴッと丸テーブルが震え上がると、それは異常な速さで部屋の壁まで後退して上半身を屈めた。

 東は目を見張った。

「おま、お前、さっきの――どうやって入ってきた!?」

 蛍光灯という立派な明かりの下で見た少女は、黒目が大きいというより白目がなかった。

 反転しても左右対称であろう完璧な配置の目鼻が余計に作り物じみていて、警戒されていると気づいたのは少女の口が牙を向いてから間もなくのことだった。

「ああ――これ」

 ただし、警戒を解いたのは東のほうが先だったのだけれど。

「スマフォ。俺の」

「すまふぉ? スマートフォン、端末。あ」

 ずり落ちたタオルを首にかけて、東は少女が敵意のすべてをぶつけていたすなわち――テーブルに放置していた携帯を手に取った。軽いタッチで電源を入れてディスプレイを少女に向ける。

「――情報デバイス。バイブレーション。通信を知らせる音声または振動」

 少女は納得したようにぺたんと座った。床に広がった髪は思っていたより長く、薄くなるに従がって赤みを帯びていた。傍には凹凸が目立つほど膨れ上がったスポーツバッグが鎮座している。あなた、と少女は訥々と切り出す。

「思考パターンが内向型」

「そうかもな。意外ってよく言われる。根暗だって自覚は、まあ」

 東は早くも少女の調子に慣れてきていた。事実を淡々と口にするわりにはどこか人の情緒を探る癖がある。

 人間の少女の生態をしているかどうかは怪しいところだが。今の東にとっては誰よりも話しやすい相手に変わりなかった。

「これを」

「ん?」

「返しにきた。――あなたに礼を言うべきだと判断したから」

 殊勝な言葉とは裏腹に突っ返されたハンカチをまじまじと見つめて、東は肩を震わせた。

「ふ、はは。ごめん。礼の礼だろ、それは。気にしなくていいよ、別に」

「――そうか」

 頷いた少女は未だ言葉を咀嚼している様子で、今度はテーブルの下を指差した。

「もうひとつ」

 煎餅みたいな安物の絨毯に、泡立つクリームと潰れた果肉がいっそ上質な彩りを添えている。

「わたしの体はまだこの世界の食品に馴染んでいない。――どうやって食べる?」

 バイト先で押し付けられた、売れ残りのクリスマスケーキ。が、白やピンクでないまぜになったレジ袋の残骸だった。

「それは」

 そこでようやく東は床に胡坐をかき、粛然とビニール袋をテーブルの上に乗せた。

「こうやって、こう」

 がばりとビニール袋の口をこじ開け、すり潰され、只々箱をコーティングするだけの塗料になったケーキの破片を東は的確に掬う。

「どうせ安売りセール品なんだから、好きに食べたってバチは当たらねえさ。友達に言わせればクリスマスに不幸あれ、だとさ」

 寄せ集めたスポンジにクリームを盛り合わせ、素手で掴む。仕上げに口にねじ込む。鼻にクリームがついて髭のようになっていることだろうが知ったことではない。

「ん。わりとイケる」

「……礼という言葉に関して、訂正すべきことがある」

「佐藤っていうんだけどさ。典型的なお調子者。あいつ結局どうしたんだろうな」

 先程の着信は十中八九佐藤からのくだらないメールだろうとあたりをつけて、携帯を手元に引き寄せたところで、真横に少女がいることに気づいた東はまたしても尻もちをついた。携帯が床を滑って、ディスプレイが変わった色に点滅した。

「あなたが懸命に追っていたから、あの人間に照準を定めることができた。わたしは目利きがよくない。とても感謝している」

 少女は縦にした手のひらを倒し、ホイップクリームだけを自分の元に寄せた。

「大事なものだから」

 弾かれた苺が卓上からこぼれる。携帯が間抜けな電子音を上げる。電話の着信だ。差出人は――『朱美』。

「それ、いいのか」

「いいよ。それより、大事なものってまさか――」

 携帯をポケットにしまおうとして、スウェットを着ていることを思い出す。

「……なんでもない」

 心身ともに東は静止した。

 そうだ。思い出すからいけないのだ。

 少女の手荷物から浮き出る、あの優しい輪郭を覚えていてはいけない。

 好奇心という重しに負けそうな東を甘い匂いが追い立てる。

「番えた雌じゃないのか」

 よく動く指がスポンジ生地に食い込む。手の中で形を変え極限まで小さくなった甘さの代名詞を少女の口腔が待ち伏せている。暗く、底の見えない、排水口みたいな口。

「――変わった言い回しをするんだな、宇宙人っていうのは。それに意外と下世話だ」

「そういう光だったから。アケミという文字は」

「光?」

「あなたの部屋は少し情報量が少ないが。じゅうぶんな判断材料」

 いいのか。

 少女はもう一度東を牽制するように低く言った。

 東はどこに視線をやっていいものか迷った末に、席を立つことにした。

「手放せないんだよ」

 食器棚代わりにしているペン立てからフォークを二本引き抜く。

「朱美自身を、じゃない。記憶――は違うんだけど、たぶんそれが近いっちゃ近い。特別いい思い出もなかったのにな。佐藤のやつが朱美と同じゲームやってるって知ってから、そう言えばSNSのアカウント引っ越したんだっけとか思い出して」

 離れるとびっくりするほど少女の気配がないことに気づかされる。

「好奇心でちょっと覗いてからだよ。止められんなくなって、今じゃ後悔してる」

 東はおそらく、少女に圧倒的な存在感を期待している。そしてその期待は存在という位階を容易く飛び越えるであろうことも、確信していた。

「呟き見てももう好きとか嫌いとか思わねえんだけどさ。たまにスパム報告ボタン押したくなってたまらねえの」

「アケミは不適切な発言を繰り返す人間なのか」

「まさか。大人しい子だよ。今日食ったランチとか黙々とツイートしてるタイプの」

 皿を取り、テーブルに戻る途中、部屋の隅で佇む姿見に顔を向けた。少女の後ろ姿が墨をぶちまけたように真っ黒に塗り潰されている。

 そこから分裂した、影。鋭角の闇が、八本に枝分かれして部屋そのものを掴まんとばかりに壁を舐め上げている。

「モブを増やすのが嫌だったんだと思う。俺ドラマも見ないし小説も読まねえけどさ。的を得てると思うよ、この言い方」

 ――いいのか。

 少し間を空けて甘い匂いが声を成した。

 ケーキと男物のシャンプーと台所の洗剤と、鼻をつく刺激という刺激がごちゃごちゃ混ざって原型の分からなくなったそれらをくぐり抜けた、声。その力を東は待っていた。

「アケミに会わなくて、いいのか」

 低い天井に曲線の影がよぎる。少女の脚だということはもう分かっていた。

「宇宙人さんよ」

「トオノ」

 少女から名乗るとは予想外だった。

「隣駅に住んでないか? 横浜駅」

 トオノはあまねく光を吸収する瞳で東を見上げた。

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