4
腕時計に紐が当たって、ビニール袋を持ち直した。高架下でがさがさと音が響いた。
針が三つも動けば日付が変わって、いとも簡単に東のクリスマスは終わりを告げた。
原田はああ言っていたが、ハロウィンとかクリスマスとか、年中行事のたぐいで搾取される側の生き物なのだ、接客業の我々は。
クリスマス当日といえば人の顔という顔を脇に追いやることしか頭になかった。中には疲労で潰れた顔も多かった。聖夜だなんだという空気は、外からではなく内側から湧いてくるものなのではないか?
意識は未練がましく二十五日にしがみついている。不意に手元が軽くなった。
闇からぬっと飛び出す塊が見えた。それは首になり、肩になり、最後に荷物を抱えた男の腕になった。なんのことはない、引ったくりだ。
男は素早かった。東のバッグ――とご丁寧にレジ袋も――を脇の下に挟み込み、繁華街のネオンへと一目散に飛び込んだ。あっと言う間もないとはこのことだ。東は立ち上がると同時に大声を出した。
「こん――畜生がッ!」
東はありったけの怒りを込めてアスファルトを蹴った。
影が丸まり、走る。ダウンコートの襟が唇に貼り付いて冷たい。それでも走る。
うるせぇクリスマスはもう終わってんだよ!
引ったくりが原色の海に呑まれる瞬間、東の影を特大の影が覆った。
それは渦を巻き、ぱっと割れた。
鎌のように鋭利な切っ先が束となり引ったくり目掛けて襲いかかる。たたらを踏んだ東の傍らで煙が上がり、橋が揺れた。
東はできるだけ眼球を端に寄せて、横を見た。グレーの地面が捲れて、顔からアスファルトに突っ込む男の姿があった。
「――前肢に該当する部位に異常を検出。神経系に異常なし。治療行為の申請を中止」
甘い匂いがした。
「対象の回収に成功。……ツカれた」
煙を掻き分け、靄を追い払うだけの力がその声にはあった。
白い背中に反射するネオンの粒が、雨の日の窓ガラスのようにいびつな層を重ねている。
一文字に肌が裂ける。艶のある鉤爪が関節ごとに折り畳まれ、ピンク色の肉にめり込み仕舞われていく様を東は呆然と眺めていた。
振り向いた顔はやたらと黒目が大きかった。
「お前はなんだ。という質問は既に二万五千回以上聞いている。よってこう答えるのが最適解だとわたしは判断している」
地面に落ちた荷物を拾い、東の横に立った少女はこう言った。
「宇宙人です」
声を出さずに悲鳴を上げて、東はその場にへたり込んだ。
少女は手入れのされていない前髪の隙間から無機物でも眺めるような視線を寄越した。
「どうした。持っていかないのか」
ネオンを背負った少女を見上げる構図で、東の足元にバッグが放られる。くしゃくしゃになったレジ袋もまとめて転がる。
「お前は、なに。なんだ」
「――仕方ない。処分法を検討する」
少女はあくまで淡々とレジ袋を引っ掴んだ。
ビニール袋が半ばで折れて、白い飛沫が噴出した。
紙っ切れが上下に撓った。少女のか細い腕から恐るべき力は抜けて、今や半額クリスマスケーキのクリームでべちゃべちゃになっていた。
東はすっかり脱力してしまって、アスファルトに大の字で沈んだ。
「はは、はは――散々なクリスマスだな。って終わってるか。なんだこれ」
少女は片手から吹き出すケーキの瀑布を無感動に見守っている。
「食べ物か?」
「どうせ余りモンだし、構わねぇよ」
東は片手だけ上げると左右に振った。あなたは食べないのかと少女は続けて尋ねる。東はさらに気も抜けて、なんとなくダウンコートのポケットをまさぐった。
暗色の布がアスファルトに溶けてもなお、少女はきょとんとしていた。東はしまったと思った。
慌てて跳ね起き、小走りで投げたハンカチを拾い、少女まで駆けた。
「なんだ、その――助けてくれてありがとう。ありがとうなのか分からないけど。結構でかめのケーキだから、良かったらこれで、どうにか。どうぞ」
終始訳が分からないといった顔で東の言葉を聞いていた少女だったが、手渡されたハンカチは素直に受け取った。玉になったクリームの塊が地面に落ちて、刹那、東の脳は針で刺されたように覚醒した。
「――君、どこかで会ったことある――ますか?」
咄嗟に言い直したら不恰好にも程がある言い回しになった。我ながら気持ちが悪い。
少女は背景から浮き出た近代アートさながらのなめらかな仕草でハンカチを口を当て、少し拭う仕草を見せると、忽然とその場から姿を消した。
弁解すると、東の目は好奇から少女の一挙一動を注視していたと言っても過言ではない。
本当に消えたのだ。あの、背後になにか重々しくも惨たらしいものを背負った少女は。
いなくなったのだ。
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