なにもしないということが、しばしばわたしたちを救う

さきがみ紫檀

1

 階段を上がると、図ったように電車が過ぎていった。

 乾いた眼球が痛む。駅のホームを覆う屋根がいつもより高く見えた。

 冬だからだろう。くすんだ鉄骨さえ緻密な模様に織り込まれて己を突き放してくるのだ。あれは冬の空そのものと言っていい。無味無臭で、無機質だ。

 ガタン! 自動販売機が唸って我に返った。東はそこで一度、思考を断った。

 取り口から緑茶と思わしきペットボトルを掴み取り、押し寄せられるままにホームの列に並ぶ。この時期だ。自販機の飲み物なんざ温まればなんでもいい。ひたすら指先が億劫だった。だからか、東は少々苛々していた。当然、その怒りの矛先の何割かは目の前の現象に向かった。

 前列で若いカップルが連れ立って笑っている。嗚呼共通の知人をネタに笑っているのだなとか、そもそも笑える話題でもないだろうにとか、こういうときばかり俗っぽさが耳についていけない。普段なら何食わぬ顔で移動するところ、東を縫い止めたのは匂いだった。

 カップルのけたたましい――女のほう。喉が詰まるほどの匂いがする。おそらく化粧品だろうが、視界が一瞬色付いて見えるくらいに立ち込める――不思議な酩酊感があった。

 それで、思い出したのだ。先日別れた彼女も同じような匂いがした。

 薄情なことに、顔が浮かんだのは一週間も隔ててからということになる。年を重ねるというのは気なんていう掴みどころのない物体を斜めに薄く薄く切り出していく作業のことなのではないか。

 気というか、情というか。

 なんとなく付き合っていた女だった。

 己の立場を鑑みて、等級つける手間を省くために適当な女を探した。そうしてやってきたのは適当な女だった。選ぶのが億劫だった。向こうも同じだろう。お似合いというわけだ。

 ――緑茶か。緑茶だな。

 果たして電車を待つ人の群れに序列をつける者がいるだろうかと東は考えながらペットボトルの蓋を開けた。きちんと緑茶の味がした。

 カップルの女のほうだが、良く見ると顔の造形はまあまあだった。別れた彼女と重ならない部分を幾らか探して、緑茶が苦くなる。なぜか美人も目立たないよな、こういう場所だと。大人しく黄色い線の内側で足を揃えるべきなのだ、自分は。

『間もなく三番線に電車が参ります――危ないですから――』

 女の笑い声がひゅっと途切れて、鉄の塊が襲来する。のろのろと足並みを揃えた東の鼓膜を殴りつける、爆音と共に。

 爆音?

 再度再生されたビデオ映像のように女の声が繋がった。

 東のくすみにくすんだ結界を突き破ったのは悲鳴だった。

 どよめく頭と、頭と、頭。その隙間から潰れたアルミホイルみたいになった車両が見える。事故か? 頭上でアナウンスが吹き出すが、駅員の滑舌が悪くて何を言っているのかいまいち分からない。

 なんとなく他人事で手持無沙汰になった東の目線に、ふっとなにかが重なった気がした。上から下まで黒々とした冬場の人波を縫って、階段へ向かう少女――いや、女か。

 気が動転していただけかもしれない。

 人が行き交う場所で顔の違いも容姿もへったくれもない。今日の晩飯はコンビニで済ませてしまおう。東はそんな茫洋とした決心を固めた。

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