殺人密室
七月十五日 午後五時三十八分
「おい! すぐに科警研に連絡して、被害者の血ガスを調べさせろ!」
日野刑事が部下に指示する中、谷町が疑問を口にした。
「でもこの部屋を充満させるほどの二酸化炭素となると、ドライアイスくらいじゃ足りないんじゃないか?」
「そんなことしなくても床上数十センチ分貯れば、床に倒れていた被害者を窒息死させることは可能です」
実際、採光窓の下にあるアロマキャンドルが消えているのに対して、机に置かれたタバコがフィルターまで燃え尽きていることから考えても、地下室に二酸化炭素が充満していたとは考えにくい。
「アリエナイわ! お父さんは仮眠をする時でもソファを使ってたし、数十センチじゃ全然足りないはずよ!」
「いいえ。昨夜、停電が起きた時、被害者は床に倒れていたんです」
そのことは被害者自身がメッセージとして遺している。
「死体発見時、被害者は何を持っていたましたか?」
「コードと……関取探偵の本……」
そう、首に巻かれたコードは『自分が何者かに殺された』ということを示しているが、それだけではもう片方の手で自分の著作を掴んでいた理由の説明がつかない。被害者が遺したダイイング・メッセージには続きがあるのだ。
そしてそれはきっと唯一犯人として疑わず、自分の作品の一番のファンであった娘に解いて欲しくて遺した最期の
そう確信したアリアは透音自身が読み解けるように、被害者が掴んでいたライトノベルと同じものを手に持ち、あえて背表紙を見せた。
「関取探偵・うっちゃりでごわす……泉川壮吾……雷電文庫……」
レーベル名と共に大きく描かれた稲妻のマークを見て、涙で晴れた透音の目が大きく見開かれる。
「雷電……電気――まさかっ、お父さんはスタンガンで動けなくなっていたの!?」
透音の言葉にアリアを除くその場に居た全員の間に電撃が走った。
「確かに資料室にはスタンガンが置いてあるけど、気絶していたらダイイング・メッセージなんて残せないんじゃないのか?」
「まさに真犯人の狙いもそこだったのでしょう。しかし誤解されがちですが、通常のスタンガンに人を失神させたり、まして感電死させるほどの威力はありません。ですよね、刑事さん?」
アリアが水を向けると日野刑事は不承不承のていで頷く。
「ああ、せいぜい筋肉が痙攣してしばらく身動きができない程度だ。その隙に逃げるなり、助けを呼ぶなりするための、あくまで護身用の道具だからな」
「ですが被害者の場合、弛緩した筋肉では一〇〇キロを超える自重を支えることができず倒れてしまったのでしょう」
そこが知らぬ間に毒ガスが溜まっていた死の淵だとも知らずに……。
ほどなくして酸素不足による頭痛と目眩が被害者を襲い、薄れゆく意識の中で何とか自分の身に起きたことを伝えようとした結果が〝密室で発見された絞殺死体〟という不可能犯罪を作り上げたのだ。
「よくできた話ね……まるであの人の小説を読んでるようだわ。でも、やっぱりまだ女子高生ね。今の推理には明らかに矛盾があるわ」
それまで無表情でアリアの推理を聞いていた千秋が初めて口を開いた。
「貴女の推理によれば犯人は一度も密室に入っていないはずだけど、それじゃスタンガンで麻痺させる事はできないんじゃないかしら? 一度は扉を開けてしまったら密室にならないし、せっかく溜まった毒ガスとやらも流れ出てしまうと思うの」
子どもを諭すような優しい口調だが、どこか小馬鹿にするようなニュアンスを含んでいる。
アリアは安い挑発には乗らず、淡々と説明を続けた。
「だから貴女は昨夜、停電を起こしたんですよね?」
「――ウッソ? あの停電騒ぎも犯人の仕業だったの!?」
「だが、どうやって……?」
首を傾げる一同に対してアリアは紐のついたテニスボールとアイフォンを見せた。
「このボールとスマホを使った簡単な仕掛けです。まずブレーカーのスイッチの部分にこの紐の部分を巻きつけ、配電盤の上に置いたスマホごとボールを乗っけておきます。あとは頃合いを見て、電話を鳴らせば振動でボールが落ち、その重さで紐が引っ張られてブレーカーのスイッチが切れるという具合です」
幸いこの家のブレーカーは洗濯室にあり、配電盤のすぐ下には洗濯かごも置いてあった。スマホもテニスボールも透音が置き忘れた物として、停電と結びつける者は居なかっただろう。
「じゃあ、透音ちゃんがスマホを失くしたっていうのも……」
「ええ、恐らく入浴中に
「言いがかりはよしてちょうだい! だいたい、停電したからってそれが何だって言うのかしら? 暗闇に乗じて私があの人を襲いに行ったとでも? お生憎様、家中が真っ暗になった時、私は一階に居たわ。ね、透音?」
千秋から徐々に余裕が失われていっているのが分かる。
それを一番肌で感じているであろう透音はどこか怯えた様子で力無く頷いていた。
「スタンガンだからって、わざわざターゲットに接近する必要はありません。二酸化炭素が空気中を伝わって地下室に溜まっていったように、貴女は電気が金属を伝わる性質を利用して遠く離れた場所から被害者を感電させたんです」
そこで一旦区切ると、アリアは行司に尋ねた。
「行司さん、貴方は停電が起きた時、どうしました?」
「そりゃ、ビックリして部屋を飛び出し――あっ!!」
行司も他の皆も気が付いたようだ。
「そう、普通は停電が起こった時点で何事かと部屋を出ようとするハズ。仕事中だったなら尚更です」
それこそが真犯人の狙い――。
被害者が金属のドアノブを掴んだことで、開かずの密室の内と外に電子の隙間ができたのだ。
「
「それじゃ、あの時、暗闇で光っていたのって……」
〈雷ではなく、スタンガンが発した青白い電光かもしれない……〉
流石にそれを口にすることはアリアにはできなかった。
暗闇で怯える娘が目にしたのは、優しい母ではなく冷徹な殺人者の顔だったかもしれないのだ。
そして今の泉川千秋からは表情というものが感じられなかった。
綺麗な肌からはすっかり血の気が失せ、大きく見開かれた両目は虚空を見つめている。
「まだよ……肝心の凶器が見つかっていないわ。床に倒れているあの人を窒息死させるには二〇センチ? 三〇センチ? それでも随分な量よ? そんな二酸化炭素なんってどうやって用意したっていうの?」
それが真犯人・泉川千秋にとって最大にして最後の砦なのだろう。彼女は余裕とも自嘲ともつかない微笑みを浮かべながら幽鬼の如くアリアの前に立ちはだかった。実際、アリアを最後まで悩ませたのも、そこだ。警察の家宅捜索が入っている以上、ガスボンベやドライアイスのようなものを使ったとは考え難い。
そして答えは意外な人物からもたらされたのだった。
〈ンまぁ、あのお菓子好きも案外役に立ちますね〉
甘くほろ苦いコーヒーの薫りを思い出しながらアリアは論理の剣を振り上げる。
「その答えは炭酸水素ナトリウムです」
別名、重曹や重炭酸ソーダとも呼ばれるこの物質はアルカリ性で水に良く溶け、その水溶液は二酸化炭素を発生させ、六十五度以上で爆発的に反応する。その特性を利用してお菓子のふくらし粉やキッチンの汚れ落とし、最近では環境負荷の少ない農薬としてガーデニングにも利用されている。
「昨夜貴女は家庭菜園の様子を見に行くフリをして、ガーデニング用のホースの一端を地下室の採光窓近くに置き、もう一方を風呂場の窓の格子に引っ掛けておいた。そして彩夢さんと入れ違いで浴室に入った貴女は洗面台の下にでも隠しておいた大量の重曹を湯船に溶かして蓋をすると、追い焚き機能を使って加熱した。一般的な給湯器の限界温度は六十〜六十五度。二酸化炭素を発生させるには十分な温度です」
あとは外のホースを蓋の隙間から引き入れれば、即席のガス管の出来上がりだ。
「そんな証拠ど――」
「証拠ならあります」
ここが攻め時だと確信したアリアは反論の暇を与えず一気に畳み掛ける。
リモコンを操作すると、地下室の大画面TVにドローンの映像が映し出された。
「これは昨夜、行司さんが操作していたドローンの録画映像です」
映像は停電が起きた直後から再生され、真っ暗な景色の中ドローンが庭木にぶつかって墜落するところまでループで流れる。
映像の後ろで悲鳴が聞こえ、おもわず顔を赤くする行司だったがアリアが見せたいのはそんな情けない姿ではない。
「ココです!」
「これって……例の心霊現象が映ってるトコ?」
一時停止された画面には彩夢の言う通り、白いモヤのようなモノが映り込んでいた。しかし、これはエクトプラズムでも、エンジェルダストでもない。
「警察の画像解析に回せばハッキリすると思いますが、これはお風呂場から漏れた湯気です」
「湯気!?」
その言葉に千秋がビクリと反応したのをアリアは見逃さなかった。
「この映像が撮られたのが停電の直後ということは、この時、誰もお風呂には入っていなかったはず。にもかかわらず夏場にこれだけの湯気が出ているのは不自然です」
「つまりまさにこの時、風呂場の窓の隙間からホースが出てったってことか!」
「ええ、先程も言ったように二酸化炭素は人体にとって非常に危険な物質です。熱が冷めて十分に換気してからでなければ、お風呂に残った諸々の証拠を片付けることもできなかったハズです」
全ての証拠を片付けたのは皆が寝静まり、季節外れの嵐が物音を消してくれる深夜。そして最後に残った地下室の
〝密室〟そのものを殺害とアリバイ、そして証拠隠滅の手段に使ったその狡猾な手法にアリアはうんざりした。
〈けれど、それももうお終い……〉
アリアは最後通牒とばかりに、千秋の顔面蒼白の顔を見上げた。
「さて、停電前にお風呂に入ったのは泉川千秋さん、貴女です。何故、お風呂上がりに追い焚きをし、何故わざわざ風呂場の窓を開けていたのか、貴女に合理的な説明ができますか?」
「…………っ」
素人探偵の――それも自分の娘とほとんど年の違わない女子高生に何か言い返してやろうと千秋は考えを巡らせたが、早鐘を打つ心臓の鼓動とカラカラに乾ききった舌が邪魔して何も言葉が出てこなかった。
そんな心の機微さえ見透かすように、少女の無感情な瞳が内側を覗き込んでくる。
黒くて深い、珈琲色の瞳に映る自分の姿に千秋は愕然とした。
そこに居たのは夫を亡くし悲嘆に暮れる未亡人ではなく、血走った目を見開き、長い黒髪を見出した山姥の如き殺人者――。
千秋はおもわず目を閉じると、震える吐息を吐き出した。
「……そうよ。貴女の言うとおり、私があの人を殺したの」
それは嵐の夜から始まった事件の終わりを告げる静かな告白だった。
「許せなかった……あの人、私たちに隠れて他所の女とホテルで――」
「あああ!?」
とつとつと犯行を自供し始めた千秋の言葉を遮ってアリアが大声を上げた。
「もうこんな時間じゃないデスか!」
お気に入りのオリビアバートンの腕時計は既に六時を指している。
今からダッシュで駅に向かって地下鉄に乗らなくては寮の門限に間に合わない。
「じゃ! 私はこれでおいとまデス!」
軽く右手を挙げると女子高生探偵は嵐のように去っていったのだった。
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