暗闇の凶行
7月15日 午後1時50分
彩夢と泉川透音は同じ市立中学に通うクラスメイトで、彩夢が水泳部のエースであるように透音もまたテニスの県大会で優勝した経験を持つスポーツ女子だ。しかし二人とも勉学の方は少々苦手としており、今回の勉強合宿も透音の方から彩夢に話を持ちかけたのだった。
彩夢が悲惨極まりない古文と数学のテストを終え、一旦家に戻って勉強道具やらお泊りセットやらをアディダスのスポーツバッグに詰め、泉川邸のインターホンを押したのが午後二時を少し回った頃。
そして生きている泉川壮吾を最後に見たのは昨夜の午後八時半過ぎで、例の地下室で透音や谷町純平と一緒にアニメの『関取探偵』の鑑賞会をした時だった。
「あの……テスト勉強をしにきたんですよね?」
途中まで話を聞いたアリアがジトっと湿った目で彩夢を睨んだ。
「うっ……! で、でもでも、作家サンの仕事場なんてそうそう見れるもんじゃないし、ガッコーでは学べない貴重な社会ベンキョーってヤツだよ!」
「あー、ソーデスカ」
彩夢に両肩を掴まれ、前後に揺すられながらアリアは気のない相槌を返す。
「そ、それに、映画館みたいにスクリーンに映像が映し出されてさ、スピーカーとか四つぐらいあって、すごい迫力だったんだから! あんな豪華なホームシアターセット、ウチの父さんの給料じゃ絶対に買えないし、貴重な体験だったね、うん!」
アリアというよりも自分に言い聞かせるように大きく頷くと、彩夢は説明を続けた。
鑑賞会が終わったのが午後九時過ぎ、打ち合わせがあるという被害者と谷町を残して二人が一階へ上がると、甥の泉川行司がいつの間にか来ていて、サンドイッチをつまんでいたという。
彩夢が透音から聞いた話しによれば、この泉川行司という男、駆け出しのイラストレーターで収入が安定しておらず、しょっちゅう被害者の家を訪れては食事や金をせびり、挙句の果てには被害者に仕事の口利きまでしてもらっていたらしい。
この日も特に用事や約束があったわけではなく、ふらりと泉川邸を訪れ、家政婦の矢倉妙に軽食を作るよう頼んだようだ。
「訪問に気付かなかったってことは、地下室は防音ですか?」
「ん? うん? たぶん?」
〈なるほど、つまり……中で犯行が行われていても、階上の人間には気付かない可能性があるというわけか……〉
そして仕事中は内側から鍵を掛けるという被害者の習慣。もし誰かが部屋を訪ね、
中から返事がなかったとしても、仕事に集中していると勘違いして事件の発覚が遅れた可能性がある。
「……ちなみに昨日の午後十時半から零時の間にどこに誰が居たかなんて、分からないですよね?」
死亡推定時刻とされる時間帯、ずっと部屋で勉強していた彩夢と透音の二人には鉄壁のアリバイがあるものの、当時の状況には詳しくないだろう。そう思ってダメもとで訊いたのだが、彩夢は艷やかなポニーテールを左右に振った。
「私達、お風呂から上がって十時半くらいから一時間くらいずっとキッチンでクッキー作ってたから覚えてるよ」
〈うぉーい、テスト勉強しろよ!〉
アリアは心の中でツッコミつつも、今はその集中力の無さに感謝する。
「私がお風呂から上がったのが十時半くらいだったかな? そしたら先に上がってた透音ちゃんがキッチンで家政婦サンにクッキーの作り方を教えてもらってて、それから三人で一緒に作ることになったんだよね」
泉川邸の台所は凝った注文住宅にありがちな壁や梁の無い広々とした空間が特徴的で、独立型のシステムキッチンからはリビングはもちろん、地階と上階を行き来する螺旋階段も丸見えらしい。
もし誰かが地下室に行ったりすれば気付かないはずはないと、彩夢は自信たっぷりに受け合った。
「十時四十五分くらいだったかな? 編集者サンが地下室から戻ってきてリビングで原稿のチェックを始めたよ。入れ違いに甥っ子サンが地下室に行ったけど、五分くらいで戻ってきたと思う」
そこまで話すと、彩夢は声のトーンをやや落とした。
「そのまま二階に上がっていっちゃったけど、なんかすんごい悪態ついてて、チョー感じ悪かったよ~」
「そうですか。それで家政婦の人は何時頃帰ったんですか?」
「いつもは九時前には帰るみたいだけど、甥っ子サンに食事を用意したりで、遅くなっちゃったから透音ちゃんのお母さんに今日は泊まっていくように勧められたみたい。だいぶ嵐も近付いてきてたしね。それで空き部屋の支度をしてくるって言って、家政婦サンがキッチンを出ていって、入れ違いで透音ちゃんのお母さんがお風呂から上がってきたのが十一時十五分。ちょうどクッキーの生地をオーブンに入れたからよく覚えてる」
そこまで話して彩夢は大事なことを思い出したのか、勢いよく両手を合わせた。
「そうそう! その後停電したんだった!」
「そういえばそんなこと言ってましたね。でも、昨日の嵐で停電したというニュースはやってませんでしたよ?」
「あれ? じゃあたまたまオーブンとかパソコンとか使ってる電化製品が重なって、ブレーカーが落ちただけなのかな?」
確かにそうかもしれない。たまたま嵐の夜に、偶然にもいつもより人が多く集まっていたことで、運悪くブレーカーが落ち、はからずもその日の夜に人が殺されたのかもしれない。
だが、アリアはこと殺人事件に関して偶然などというものを信じていなかった。アリアが〝名探偵の宿命〟を背負っているように、殺す者は殺し、死せる者は死ぬ。逆説的ではあるが、犯行の前後に起こった全ての出来事は何らかの形で事件に関係しているというのが、アリアの持論だった。
「どういう状況だったんですか?」
アリアは深く澄んだ湖面のような瞳が彩夢の顔を映す。
「んーと、クッキーが焼き上がるまで暇だから、アプリのゲームをしようと思ったんだけど、透音ちゃん、スマホをどっかにやっちゃったみたいで、二人で部屋とか脱衣所とか探してたんだよね。そしたら急に真っ暗になったから、もうビックリしちゃって! 明かりがつくまで透音ちゃんとずっと手を繋いだまま螺旋階段のところに座ってたよ」
「その時、他の人たちはどこに居たか分かりますか?」
「透音ちゃんのお父さん以外、みんなリビングの近くに居たと思う。時々声が聞こえたし……」
暗闇の中、彩夢が聞いたのは複数の男女の声。
『ブレーカーかしら?』
『私が見てきます』
『それなら僕も一緒に行きますよ、高い所でも手が届くと思うし』
その直後、誰かが階段の前を通り過ぎていく気配を感じたという。
「五分ぐらいずっと真っ暗だったし、時々雷は光るしで、もうホント怖かったよ~」
彩夢の話を聞いて、アリアは一つ気になることがあった。
「明かりがついた時はどうでしたか? 全員揃っていましたか?」
「う~ん……透音ちゃんとお母さんは居たよ。編集者サンと家政婦サンもすぐに廊下の奥からやってきたし……甥っ子サンは確か、二階の階段から顔を覗かせてたかな?」
アリアの質問に眉間にシワを刻みながら必死に記憶を手繰り寄せる彩夢。
「つまり、被害者である透音さんのお父さんは一度も姿を現さなかったんですね?」
「うん。でも明かりがついた後、透音ちゃんのお母さんと編集者サンが様子を見に行ったら、部屋に鍵がかかってたみたいだし、仕事に集中してたんじゃないかな?」
〈あるいは既に事切れていたか……〉
暗闇に乗じての犯行は古今東西、あらゆる推理小説で使われてきた手法だ。今回の事件もそんなミステリのお約束が使われているような気がしてならない。
アリアの〝名探偵〟としての勘がそう告げていた。
「その後はみんなバラバラに部屋に戻っていったからアリバイは分からないな」
「そうですか。じゃあ今度は今朝、死体が発見された時の状況を教えてください」
アリアが促すと彩夢は再び空中を見上げながら一つ一つ今朝の情景を思い浮かべる。
「今朝の七時半くらいにアタシと透音ちゃんが一階に降りた時には、お父さん以外はみんなもうテーブルに着いていたよ。家政婦サンが仕事部屋に呼びに行ったんだけど全然返事が無かったらしくて、今度は透音ちゃんのお母さんが呼びに行ったの」
「そこで初めて異常に気がついたわけですね」
「うん。いくら何でもおかしいって、お母さんがすごい心配そうな顔をするからみんなもついて行ったんだけど、ドアには内鍵がかかって……当然スペアキーも無いから、仕方なく編集者サンと甥っ子サンがドアにタックルして無理やり中に入ったら――」
〈被害者の死体を見つけたわけか〉
それまですらすらと話していた彩夢が急に押し黙った。
アリアはとっくに慣れてしまったが、人間の死体なんて本来年頃の女の子が見るものではない。
〈ましてそれが自分の肉親だったとしたら……〉
被害者の娘・泉川透音が心に受けた傷はいかばかりのものだったのか。
アリアにしては珍しく他人の心情を
「知りたいことはもう十分、訊けました。あとは他の人からも情報を集めましょう」
これ以上、嫌な記憶を思い出さないように話を切り上げようとしたところ、彩夢がそれを制した。
「待って、探偵サン……あの時はパニクってたから全然気付かなかったけど、もしかして死体のそばにあったのって、例のアレかもしれない」
「はい?」
何か重要なことが喉元まで出かかっているらしく、彩夢はまるで英語テスト直前の受験生のように、『ダイニング』だとか『シャイニング』だとか、しきりに英単語をつぶやいている。
「……もしかして、ダイイングメッセージですか?」
「そう! それ、ダイイングメッセージだよ、探偵サン!」
ぱぁっと顔を輝かせる彩夢とは対照的にアリアはうんざりとした表情でため息をついたのだった。
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